古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

阿那志河輪神社

 河輪神社は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山に鎮座している。「河輪」という一風変わった地名の語源は曲流を意味し、志戸川の曲がりくねっている内側にある低地を意味しているという。
 嘗てこの河輪地域には河匂(かわわ)氏という豪族がこの一帯を領有していたという。河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、小野篁の末裔を称す横山党の一族である。この河匂氏は児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったと云われている。
 美里町にある諏訪山の河輪神社の社伝によると武蔵七党の一つ猪俣党河匂氏の本貫地として、河匂七郎、河匂左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行ったという。 

        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町阿那志1663
             ・御祭神 淤迦美神 (相殿)健御名方命 八坂刀売命
             ・社 挌 旧阿那志村鎮守 武蔵国式外社
             ・例祭等 祈年祭 225日 例祭 45日 秋祭り 1015
                  新嘗祭 1125日 師走大祓 1225
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1859014,139.1928848,15z?entry=ttu 
  阿那志河輪神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、山崎山、諏訪山の丘陵地の間を越えた関集会所のすぐ先のT字路交差点を左折する。その後長坂聖天塚古墳付Y字路字路になるので、そこを左折し、そのまま道なりに500m程進むと、再度Y字路になるので、そこを左折すると200m程で左側に阿那志河輪神社の鳥居が見えてくる。
 残念ながら駐車スペースが見当たらないので、鳥居から北東方向に伸びる農道に路駐をして、急ぎ参拝を行った。因みに北東方向に伸びる農道の先に社の参道らしい標柱が見える。もしかしたら嘗ての参道の名残りかもしれない。
            
           正面 諏訪山の麓から平野部にかけて河輪神社の参道は伸びている。
 河輪神社は一説によると『日本三代実録』に「清和天皇の貞観17年(875)12月5日、武蔵国正六位上河輪神に従五位下を授く」と記されているが、この河輪神が阿那志河輪神社という説もある。ただ横浜市都筑区川和町に鎮座する川和八幡神社も同じ武蔵国にあり、神社を祀る場所の字名を河輪森といい、ここも古くから河輪神社と主張していて、現在どちらが真の河輪神社であるか検討の余地はある。
 河輪神社は武蔵国の多くの神社の中にあって、俗にいう「式外社(しきげしゃ)」と言われている。この式外社というのは、平安時代編集された延喜式神名帳に記された全国の神社の意味を持つ「延喜式内社」または単に「内社」と言われる社に洩れた神社で、当時すでに存在したが延喜式神名帳に記載がない神社を式外社といい、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社等が含まれるという。
           
                         諏訪山の麓付近に建つ鳥居
     
 河輪神社一の鳥居を過ぎると、拝殿まで登り斜面の参道(写真左)が伸びている。標高113mの頂上まで石段を登ることになる(同右)。登り詰めると鮮やかな赤い社殿の河輪神社に到着する。写真を見ると明るそうに見えるが、これは冬時期で、一体の森の葉が落ちているため、光が差し込んでいるが、新緑のシーズンとなると、この参道は昼間でもほの暗くなる。ともかく第一印象とても武蔵国の由緒ある式外社とは思えないのが正直な感想である。
           
              やっと社殿が見えてくる。社殿は諏訪山の山頂部にあたる。
 河輪神社が鎮座する諏訪山は美里町と寄居町の境界にあるが、独立した山ではなく、埼玉県道75号線を境にして北は山崎山丘陵、そして南側に諏訪山丘陵が広がり、その標高の一番高い場所が諏訪山と呼ばれている。
           
                    朱色ではなく赤が基調の河輪神社拝殿正面
 境内は意外と広く、社務所や神楽殿などもあり、登り斜面の参道を進む際に感じた心寂しい印象とは対照的な趣のある北向きの社。だがその神聖な静寂とは別に、すぐ南側にはゴルフ場が広がる。同じ面でもこの人工的な緑はなにか異質でもあるが、逆に考えると古(いにしえ)の文化遺産と現代社会の風景の微妙なコントラストを直接的に感じることができる貴重な体験も同時に味わうことができた。
              
                                案内板
河輪神社 御由緒   美里町阿那志一六六三
□御縁起(歴史)

  当社は『三代実録』に記載されている「河曲神社」と想定され、いわゆる国史現在社と考えられる。鎮座地は志戸川の湾曲した流れに面している字上川輪先の諏訪山である社伝によると、延暦20年(801年)坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当社に祈願したというその後、武蔵七党の猪俣党河勾氏(かわわ)の本貫地として、河勾七郎・河勾左京進入道等の子孫代々の信仰を得て社殿の造営を行った。次いで、慶長年間(1596-1614年)には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、別当光勝寺を祈願所としてより諏訪神社と改称したという。以後、江戸時代は諏訪神社と称した
当社は雨乞いに霊験あらたかといい、干ばつ時には代官が近在近郷の官吏を従えて祈雨祭を実施し、旗本安藤氏より褒賞されている。明治十九年には、社号を旧名に復すとして社号改称願が県令に提出され、同二十八年に河輪神社に改称した。また、同三十三年と三十五年には郷社昇格願も提出されている。
  主祭神は淤迦美神で、合殿の神に健御名方命と八坂刀賣命が祀られている。境内社は、三和神社・二柱神社・若宮八幡神社をはじめ、明治四十年に字新井より移転した北向五社の一つである北向神社、字天神に祀られていた赤城神社・妙義神社・榛名神社・天手長男神社、同四十一年に字横手の御嶽神社、字塚田の富士仙元社を移転した

                                                            案内板より引用
 
 拝殿正面上部に飾られていた神社名を記した額             境内にある神楽殿
  拝殿上部に飾られている額には神社の正式名
   「国史現在社河輪神社」と書かれている。

 ここに記されている「国史現在社」とは、10世紀の初頭にまとめられた《延喜式》には,全国で2861の神社,3132座の神名が記載されているが,そこに見える神社を後世式内社、また単に内社といい、式内社以外に六国史に名が記されている神社が391社あり,式外社であるが六国史にその名前が見られる神社のことを特にそれらを「国史現在社」といい、式内社に次ぐとされた。
 (但し式内社以外に六国史に名が記されている神社のほとんどが式内社であるため、通常は式外社として言われているようだ。)
 
                    社殿の奥にある境内社(写真左、右) 
 河輪神社周辺には河輪神社古墳群が存在している。埼玉県の遺跡マップによると、諏訪山古墳群は帆立貝型古墳1基と12基の円墳で構成される。箱式石棺を主体とする古いもの間あるが大半は横穴式石室を主体としない古墳群。諏訪山は住人達の墓域であったのであり、古くから継続的に営まれた神聖な場所であったのだろう。
        
               河輪神社社殿の左側にある径30mの円墳である河輪神社古墳

 諏訪山古墳群は諏訪山の稜線に沿って南西-北東に細長く広がっている。河輪神社古墳は諏訪山古墳群の中では、諏訪山古墳、諏訪山古墳2号墳に次ぐ規模の古墳。墳頂には「八海神社 御嶽神社 三笠神社」と刻まれた石碑が建てられている。この古墳は手入れがされていて、山中の古墳としては抜群に管理が行き届いていて、周囲を散策することができる。
 ちなみに諏訪山古墳は河輪神社から南西方向の諏訪山の屋根をたどるとある。径39m、後円部径30m、同高4m、前方部幅18m、同高1mの帆立型前方後円墳。旧岡部町と美里町の境界に位置し、舗装されていない道路によって後円部が分断され半壊状態となっている。年代的には埴輪の特徴などから5世紀終末期と推定される。近隣には長坂・河輪の両聖天塚があり、その有力首長の流れを受け継ぐ古墳であるかどうかは現在はっきりわかっていないという。 
       
             境内にある御神木               参道の途中にあった立派な杉
                                      境内にある御神木より立派なため撮影

 河匂氏は武蔵七党の猪俣党の流れを汲む豪族で、児玉郡の古郡と阿那志の間にある川輪に住んだことから河匂と名乗ったといわれている。この河匂氏の始祖は小野篁であるが、何故武蔵国北部に土着した横山党の一派でしかない河匂氏の信奉した河輪神社が武蔵国の式外社、または国史現在社として中央の正史に名を連ねているのだろうか。真にもって不思議な社だ。
 


 

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