古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

普済寺菅原神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市普済寺919
              
・御祭神 菅原道真公
              
・社 格 旧普済寺村鎮守・旧村社
              
・例祭等 不明
              *参拝日 2022年7月28日
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2079569,139.2484789,16z?hl=ja&entry=ttu
 岡部神社から直線距離にして500m程北側に普済寺菅原神社は鎮座している。但し真っ直ぐ進む道はないので、一旦岡部神社の正面鳥居に戻り、国道17号線から本庄方向に進み、すぐ先の「普済寺」交差点を右折、埼玉県道352号中瀬普済寺線に合流し、300m程進行した先の十字路を右折すると、周囲一面長閑な田畑風景が広がる中、正面やや斜め左手方向に普済寺菅原神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 因みにその十字路を左折すると埼玉県指定史跡である「岡部六弥太忠澄墓」がある。
        
                                普済寺菅原神社の長い参道。
『新編武蔵風土記稿』における普済寺村の村域は、東西八町余(880m程)、南北二十八丁許(3,030m程)で南北に長い村であり、この地域の国道北面までは櫛挽台地上に位置し、標高は岡地域の旧町役場付近で58.5m17号国道沿いでも50mなのだが、そこから北側は福川右岸の沖積低地面に属するため、38mと一段低い場所に鎮座している。但しこの地域は古くから人が定住していたようで、縄文時代中期の遺跡である普済寺の菅原遺跡は嘗て大集落を営んだ形跡がみられていた。
 今でこそ集落から離れているが、嘗て境内付近は集落の中心であったと云われ、神社の南は「元屋敷(武蔵風土記稿では本屋敷と記載)」と呼ばれていたそうだ。
        
                  普済寺菅原神社正面
『日本歴史地名大系 』による「普済寺村」の解説では、「普西寺とも記す。櫛挽台地から利根川沖積低地への漸移地帯に位置し、東は岡部村。風土記稿にはもと岡部村に含まれ、のち分村した時に曹洞宗普済寺の寺号を村名としたとある。村の中央を中山道が通り、風張(ふつぱり)には立場が設けられていた(嘉永五年「本庄宿明細帳」安中宿本陣文書)。普済寺は寺伝によると建久二年(一一九一)に岡部六弥太忠澄が栄朝を招請して創建、忠澄の法号(普済寺殿道海大禅定門)を寺名にしたとされる」と記載されている。
        
                       鳥居の左側にある
「狛犬奉納記念碑」
「狛犬奉納記念碑」
 敬神崇祖は我が国本来の大道なり。世は平成の御世となり先に天皇陛下御即位御大典平成五年皇太子殿下の御結婚と皇室の御発展弥栄の極であります。この度岡部町大字普済寺に鎮座する菅原、愛宕両神社の大前に皇太子殿下、雅子様の御婚礼の御盛儀と平成五年十月五日第六十一回伊勢神宮式年遷宮の御慶事を記念して狛犬を奉納し遍く普済寺の発展と氏子中の弥栄を祈りここに狛犬の奉納を寄贈せる氏子の御芳名を列記して後世に伝えんとす(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
           二の鳥居までにも長い参道が続く(写真左・右)。
   緑豊かな社叢林が参道の両側に広がり、「静謐」という表現が合う様な静かな社
        
                           色鮮やかな朱を基調とした二の鳥居
 
二の鳥居近郊にある「菅原神社再建奉納記念碑」 記念碑の先にある赤い屋根が特徴的な手水舎
菅原神社再建奉納記念碑」
 深谷市普済寺に古くから学問の神様、地域住民の鎮守として崇敬されてきた菅原神社は、永く氏子の信仰の拠りどころである。當社は、元来當地の総鎮守にして、往時は天満宮又は天神社と称し、元和年間(1620年頃)には神領があるとの記録がある。平成十七年八月十八日夜、不審火により當社の本殿・幣殿・拝殿が全焼となり焼失され、洵に悲痛の思いながらも、此度氏子中協議の上社殿を再建し、平成十八年三月三十一日社殿竣工奉祝祭が厳粛のうちに斎行された。茲に概要を記し、又社殿再建並びに境内整備費を寄贈される氏子及び関係各位の御芳名を石碑に刻し、後世に伝う(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
                     拝 殿
大里郡神社誌 菅原神社』
 祭神 菅原道真公
 由緒 當神社創立年代不詳と雖も元來當地の總鎭守にして往時は天満宮又は天神社と稱し元和年間には神領あり且奉仕者等もありて地方著名の神社たり其故は元和五年八月の水帳に天神免神主分等の名稱ありて其當時田畑五反五畝十七歩の社領ありしこと明瞭なり又當時境内に清泉湧出して社の以東数ヶ村の用水の起源たるを以て水利關係の数ヶ村より毎年幣帛料を奉納して特に崇敬せり
 明治五年九月村社申立濟
 
          本 殿                     本殿奥にある末社石碑・石祠群
 石祠群等は、左から二番目が諏訪社、右端の石碑は石尊大権現・大天狗・小天狗。他は不明。
 
 普済寺菅原神社の右手には水路が流れ(写真左)、その先には境内社・厳島神社が鎮座する(同右)。調べてみると、水路ではなく、「弁天池」という湧水池で、これより東部数ヶ村の水田を潤す水源として使い、『大里郡神社誌』では、毎年村々から幣帛料(へいはくりょう)が奉納されたそうだ。
        
          境内社・厳島神社手前にある「厳島神社改修建設記念碑」
厳島神社改修建設記念碑」
 古より、水の神を祀る社として伝え継がれ、さらには、女性の守り神弁天様と崇められ、永く氏子の信仰の拠り所として普済寺地域住人に守り継がれてきた。
この度、由緒ある「イツクシマヒメノミコト」を崇めようとする社殿の改修建設事業は極めて意義深いものがあり、郷土の弥栄と子々孫々の繁栄を念じ奉賛氏子のご芳名を記し後世に伝える。
                                     記念碑文より引用

       
             拝殿の手前に聳え立つご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等


      




 


 

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