大豆戸三嶋神社
ただ実際に行ってみると、この町は基本的に比企丘陵の丘陵地帯で、耕作放棄地が少なく、昔ながらの田畑風景がそのまま残っていて、なかなか良い場所である。
その中でも今回参拝した大豆戸三嶋神社は、一の鳥居から境内までの参道が300m程あり、その参道の両側に桜の樹が植えられていて、春真っただ中、桜のトンネルが続く綺麗な風景が一面に広がり見事である。意外と参拝時もこの桜並木を散策する人も少なく、車の往来もほぼなく静かで、結構穴場なスポットでもある。
雨交じりの天候に中、予想もしなかった見事な桜並木を見ながらの社の参拝は、最近病気がちで外出もままならず、心身共に疲れていた筆者を優しく包みこむような、暖かい心持ちに誘って頂いた。この社との出会いに改めて感謝したい。
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町大豆戸788
・ご祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)(推定)
・社 格 旧大豆戸村鎮守 旧村社
・例祭等 例祭 10月17日前後の日曜日
地図 https://www.google.com/maps/@35.9773524,139.3284149,16z?hl=ja&entry=ttu
大豆戸三嶋神社は鳩山町役場から埼玉県道171号ときがわ坂戸線を南下し、450m程先の押しボタン信号のある5差路に達し、右斜め方向の道路を進む。暫く道なりに進行すると、右カーブとなり、その曲がり始める地点に大豆戸三嶋神社の鳥居が立っている。そして300m程の舗装された道路の先に大豆戸三嶋神社はひっそりと鎮座している。
大豆戸三嶋神社鳥居正面
この正面写真には写っていないが、鳥居右側には社号標柱や馬頭観音の石碑もある。
大豆戸地域は、江戸期は豆戸・馬見戸とも記していて、岩殿丘陵の南部に位置し、一帯は鳩川支流の浸食からできたなだらか斜面で構成されている。その地域の中央部やや東側に大豆戸三嶋神社は鎮座していて、社の東側は旧鎌倉街道上道が南北に通っていて、現在の埼玉県道171号線である。
参道の両側には一面の桜並木が続く。
予想もしなかった素晴らしい風景(写真左・右)。
このような穴場的な桜並木を保存・維持するために自治体や地域住民の方々の日々の苦労は如何ばかりであろう。改めて感謝の念を送りたい。
大豆戸三嶋神社境内の風景
ところでこの地域名の「大豆戸」。当初は「おおまめと」と思い、ナビ検索しても出てこない。「だいず」でもない。最終的には鳩山町の住所を最初のア行から調べる羽目になり、やっと項目にヒットした。それでも正確な読みからはその時点では分からず後日調べてみて分かった。「まめど」。不思議な名称でもあるが、考えてみると「大豆」と書いて「まめ」と読むので、筆者の思考を何歩か譲ればそうは読めなくもないともいえる。調べてみるとこの地域名も難解地名の一つとされていて、面白い地域名なので俄然興味がわき、その地域を検索してみると、鳩山町役場も地域内に包括されていて、街中心街の西側に位置している。
神社散策のブログでありながら、わき道にそれる内容となってしまったが、地域の情報の一端を発信することもこのブログの一つの意義でもあり、そこはご容赦願いたい。
石段上に鎮座する社殿
『日本歴史地名大系』 「大豆戸(まめど)村」の解説
[現在地名]鳩山町大豆戸
赤沼村の西に位置し、北は熊井(くまい)村。古くは南接する入間郡小用村と一村であったといい、当村を上越用(かみこいよう)、小用村を下越用とよんでいたという(風土記稿)。宝治元年(一二四七)六月四日の越生有高譲状写(報恩寺年譜)によれば、「越生郷台之屋敷并水口之田・大豆土等」が越生有直に譲られている。同年一〇月一日、将軍藤原頼嗣は譲状の旨に任せて「入西郡越生郷水口田・豆土等」を有直に安堵した(「藤原頼嗣袖判下文写」同年譜)。この頃当地は越生おごせ郷(現越生町)内に含まれていたことになる。
応永二四年(一四一七)一〇月一四日、鎌倉公方足利持氏は明石左近将監跡である「比企郡大豆土郷」を伊豆国三島社(現静岡県三島市)に寄進し、同日、関東管領上杉憲基は下地を同社雑掌に沙汰付けるよう武蔵国守護代長尾尾張守忠政に命じている(「足利持氏寄進状」三島大社文書、「上杉憲基施行状」同文書)。
石段手前の参道の両側にある灯篭と、その左側に設置されている手水舎(写真左)。右側の灯篭の先には可憐な鑑賞花も植えられている(同右)。桜並木のみならず、このような花を添える何気ない気遣いが何とも心地よい。
『新編武蔵風土記稿 比企郡大豆戸村条』
入間郡今市村法恩寺年譜錄、寛治年中の文書に、武藏國吾那入西郡越生鄕、水口田豆土等、又同國越生鄕臺之屋敷、并水口田豆土等云云と見えたり、且土人の説には當村もとは、隣村小用村より分ちしと云、又小用村の傳へに當村も上越用と號し、小用村を下越用と稱せしよしといへば、昔は入間郡に屬せしも知べからず
又應永廿四年十月二十四日足利持氏より、豆州三島社へ寄進せし文書に、武蔵國比企郡大豆土鄕明石左近将監跡とあり、これらも古くより唱へし名の證とすべし
三島社
當村もとは伊豆三嶋の神領にてありし故、勧請せしものと見えたり、慶安二年社領十二石の御朱印を賜ふ、村内の鎮守にて、毎年九月流鏑馬を興行す、本尊薬師の畫像を掛く、眞光寺持、
拝 殿
大豆戸三嶋神社は、室町時代中期・応永23年(1416)前関東管領であり、上総・武蔵守護である上杉禅秀の乱に際して、第4代鎌倉公方・従三位、左兵衛督源朝臣足利持氏が三嶋大社に戦勝祈願、無事平定を果たしたことから、大豆戸領を三嶋大社へ寄進、当社はその神領の鎮守として建立されたという。
拝殿の右側手前にある「記念碑」
記念碑
当郷三嶋神社は昔に遡ること五百九十年前伊豆三嶋神社より分社せし神と崇む
由来 軍の神として崇敬され本殿は応永二年建立されたりと伝う 以来村人はこの長き歳月を事ある度に神頭に集いて苦楽を分かちながら由緒ある歴史を重ね多くの人材を育み来たれり しかし長き歳月に拝殿幣殿の老朽を憂いここに氏子有志相計りて改築を決意幸いこの趣旨に賛同御奉納下されし方は百六十一名 その額八百五十六万円の巨額に達しそれに神社負担金六百万円を加え拝殿幣殿その他付属工事を完成せり 此に後世子孫に伝承す 冀くは時世に順応しつゝ此の土地に報恩に感謝を以て社の崇敬と泰平に愛護されんことを
昭和六十年三月吉日 氏子中
本 殿 本殿裏に祀られている裏神様
右側は狐の置物があり、稲荷社だろうか。
社殿からの風景
境内北側にある大豆戸公会堂 境内入口に祀られている境内社と地蔵尊
社の境内入口から鳥居方向を撮影
社に通じる桜並木の長い参道は、今も馬場と呼ばれ、嘗てはここで、流鏑馬が行われていたという。この流鏑馬は、馬を馳せながら、弓で的を射る行事で、中世武士の間で盛んに行われたという。この地域周辺では、8ヵ所で流鏑馬が行われていたことが確認されている。それは、鳩山町大豆戸の三島神社、ときがわ町玉川の春日神社、嵐山町鎌形の八幡神社、小川町角山の八幡神社、同町大塚の八幡神社、越生町西和田の春日神社、毛呂山町岩井の出雲伊波比神社、日高市新堀の熊野神社である。
これらのうち、現在でも流鏑馬が継承されているのは、毛呂山町の出雲伊波比神社とときがわ町の萩日吉神社だけとなっている。
鳩山町大豆戸三島神社では、記録によると、文政9年(1826)まで流鏑馬神事が奉納されていたという。
「名字由来net」のサイトには、当神社の流鏑馬に関して興味深い記載があり、ここに紹介する。
昭和59年1月1日付、埼玉県比企郡鳩山町大字大豆戸の三嶋神社総代発行の『三嶋神社風土記』には、以下の行がある。
「この大豆戸村には、かつての領主内藤式部少輔政次時代からの弓矢の風習は、三嶋神社の神事と結びついてそのまま残り、神社の境内で催される流鏑馬の中にそれは維持されていった。馬上から矢継ぎ早に、的をねらって鏑矢を射る。的は方板を串で挟んで三か所に立て、一人各々に三つの的を射る儀式は村内の名誉をかけて厳かに執り行われた。その場合、地元の有力な御三家、つまり清水、宮崎、新幡の各家は古式に則り、「丸に抱沢潟」「丸に橘」「下り藤」の紋どころを鎧、甲にかがやかせてはその身をかため、「飛竜の巻物」などの作法に従って、日頃から馴らした馬に打ち乗って現れた。そして、清水家の一の馬、宮崎家の二の馬、新幡家の三の馬が嘶き、蹄の音高く駆け抜けていく」
嘗てこの長い参道で行われていた古式ゆかしい流鏑馬の儀式を想像しながら、厳粛とした面持ちで参拝を終える。晴天の天候で一斉に咲き誇る桜並木の中での参拝は、さぞかし華やかであったろう。その点だけは残念であったが、雨交じりの参拝もしっとりとして独特の風情があり、決して見劣りはしないと思う。
どちらにしても、心に刻まれた神社がまた一社追加された。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「萩日吉神社・ときがわ町教育委員会発行HP」
「埼玉の神社」「名字由来net」「境内記念碑文」等