熊井黒石神社
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町熊井1015
・ご祭神 日本武尊
・社 格 旧熊井村鎮守・旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9862534,139.311396,16z?hl=ja&entry=ttu。
熊井毛呂神社から進路を北西方向にとると、埼玉県道41号東松山越生線に合流、更に西方向に進む。途中左手方向で、小高い丘上に上熊井農産物直売所「ちょっくま」が見えるが、そこからは200m程先に上熊井集落センターがあり、その右隣に熊井黒石神社の石製の鳥居が見えてくる。
熊井毛呂神社同様、熊井地域は周囲一面豊かな緑が生い茂り、田畑風景が広がる長閑な空間。熊井黒石神社正面は丘陵地面となっているようだ。
熊井黒石神社正面
『日本歴史地名大系 』「熊井村」の解説
[現在地名]鳩山町熊井
大豆戸の北西、越辺川支流鳩川の流域に位置し、東は大橋村、西は高野倉村。応安元年(一三六八)七月、越生兵庫助は当地などの本知行分を報恩(法恩)寺(現越生町)に寄進している(報恩寺年譜)。田園簿によれば田高四〇一石余・畑高二三九石余で幕府領。元禄郷帳では高六六三石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本内藤領。ほかに万願寺領がある。「風土記稿」成立時には旗本三家と幕府領の相給。本検地は元和六年(一六二〇)・貞享元年(一六八四)に行われ、天明六年(一七八六)には持添新田(幕府領)の検地が行われた。
『新編武蔵風土記稿 熊井村条』
「按に入間郡今市村法恩寺の年譜録、慶安元年七月越生兵庫助田畑を以て、法恩寺へ寄付せし條に云、武蔵国比企郡内熊井云云、田畑在家等事、越生兵庫助本知行分也と見えたれば、当村は貞治・応安の頃越生氏の領地にして、後報恩寺領たりしこと知るべし」
黒石明神社
村の鎮守なり、本地佛十一面觀音を安ず、妙光寺持、下三社同、
妙光寺
慶安二年寺領九石の御朱印を賜ふ、新義眞言宗、入間郡今市村法恩寺の末、熊井山不動院と號す、開山竺翁は弘安九年の示寂にて、其月日は失へり、本尊不動を安ず、傳教大師の作れる所と云、
熊井地域には、黒石神社と毛呂神社が二社地域の鎮守様として鎮座している。そのうち、黒石神社が村の鎮守社、一方毛呂神社は産土神(うぶすなかみ)として、大切に今でも祭られている。他の地域でもあまり見られない祭祀体系だ。
鳥居前で一礼してから参拝開始
熊井黒石神社の参道の隣には車でも通行可能なルートも存在しているのだが、ここは基本通り徒歩にて参拝。なだらかな登り斜面ではあるが、疲れる程ではない。しかし思っていた以上に長い参道ではある。
参道は長く、100m程あるのではなかろうか(写真左・右)。しかし途中踊り場も設置されているので、気持ちよく参拝に望めた。当日雨交じりの天候ではあったが、それが却って参道両側に広がる豊かな森林浴を体全体浴びながら、少しずつだが確実に近づく神様への崇拝の念が高まるような面持ちとなるのだから不思議な感覚だ。
目の前に見えてくる社殿
熊井黒石神社の創建年代等は不詳であるが、『明細帳』は祭神を日本武尊とし、由緒は「尊東夷征伐還御ノ還御休憩アリシト依テ勧請スト云、創建不詳、思フニ其頃村落未開ナリシモ尊ヲ勧請、未開土地モ開キ居民モ繁殖ニ至ヤ、因テ尊ヲ鎮守ト崇ムト右旧記ナシト雌モ古来人口ニ伝テ存ス」と記している。
当社の別当を務めていた妙光寺は、熊井太郎忠基の子孫が開基、竺翁(弘安9年1286年寂)が開山したとされることから、熊井氏が当社の創建に関与したことが推測されている。
熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう熊井 忠基(くまい ただもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代の武士で、源義経の側近。義経19人衆もしくは8人衆にも数えられる。名は太郎。忠元ともいう。
「本朝武功正伝」によると一ノ谷の戦いで功を立てた。『武蔵国郡村誌』によると熊井(現在の埼玉県比企郡鳩山町)には忠基の館跡があり、そこには忠元が甲冑を埋めた鎧塚がある。義経が頼朝と不仲になり奥州に逃れたため、忠基は奥州藤原秀衡の元へ向かったというが、詳細は不明。但し、宮城県には今も熊井忠基の子孫を名乗る熊井姓の人たちがいるとの事だ。
拝 殿
境内には新しく改築した社殿のみ。その社殿右側に「黒石神社竣工記念碑」が立っている。
黒石神社竣工記念碑
黒石神社は熊井村氏子に敬われてきた鎮守である。 創立年代は未詳であるが「鳩山風土記稿」等によると明治四十年に愛宕社 八幡社 神明社の三社を本社に合祀 八幡社の社殿を移築し従来の拜殿につなげ社務所とした。
更に大正三年に境内にあった愛宕社 天神社の二社を本社に合祀 その後 維持管理を行ってきたが歴史ある社殿 鳥居も老朽化が進み、このたび氏子の総意により改修工事を実施 財源は上熊井大字会計より充当した 社殿 参道 鳥居 幟旗竿その他の附帯工事など施工し ここに完成を祝し記念碑を建立して後世に伝えるものとする。(以下略)
記念碑文より引用
拝殿から下界を見下ろすような位置から撮影
境内周囲は手水舎と社殿のみであり、さっぱりとした印象。但しそれがこの社の神聖性を増しているようにも感じた。何もないと言ってしまえばそれまでだが、「余計なものは取り払う」精神も日本独特の考え方である。
それ以上にこの長い参道には深い感銘を受けた。古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。また神は目に見えないものであり、元来神の形は作られなかったことを考えてみると、この長い参道をも含めたこの広い空間こそが神が宿るお社でもあるのだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
「境内記念碑文」等