古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小用鹿島神社

 鎌倉時代頃に活動した鋳物師(いもじ)たちのうち河内(かわち)国(大阪府)を本拠地としていた河内鋳物師は、天皇と結びつき燈炉供御人(とうろくごにん)という地位を得ることによって全国を自由に往来して生産・売買できるという特権を与えられていた。
 それまで武蔵国にも在地の鋳物師はいたが、梵鐘などの大形品の製作活動は行っていなかったようだ。ところが、幕府が鎌倉に開かれ、関東が政治の中心地となると、幕府や武士層と仏教勢力との結び付きによって多くの寺社が造営されていく。
 特に鎌倉・長谷の大仏が造立されることになると物部(もののべ)・丹治(たんじ)・広階(ひろしな)姓などの高い技術を持つ河内鋳物師がこの東国に招かれた。この時彼らの遺した梵鐘や鰐口などの仏具製品は関東一円にひろがっていて、大仏の完成後には本拠地の河内国に帰って行くものたちもいたが、一部の鋳物師は東国に残り、この地に根を降ろしていくことになる。
 埼玉県内の中世鋳物師は、東松山市小代、坂戸市入西(金井遺跡)、鳩山町小用、本庄市児玉町金屋、寄居町塚田、狭山市柏原、さいたま市岩槻区渋江、そして嵐山町の金平遺跡で鋳造を行った鋳物師である。個々の鋳物師が活動していた時期は13世紀から17世紀と幅が広く、全てが同時期に操業していたわけではないが、その位置と立地をみると県内を通っていた主要街道、特に鎌倉街道上道に沿っており、また主要な河川が街道と交わる地域の周辺に位置していることがわかる。
 小用鋳物師は、15世紀中頃には鎌倉大仏の鋳造時に招へいされた物部鋳物師の系譜に連なるようだが、この鋳物師は当地にて仏具や生活雑器を生産するようになる。
 17世紀中頃には、石坂以外の鳩山地域一円を内藤家が支配し、大名に取り立てられた。その後、今宿村が成立し筏河岸は陸運、舟運など物資の集散地として栄えた。また18世紀後半には関東最古級の近世地方窯である熊井焼が開窯し、徳利や壺、花瓶などの日常品を中心に、イッチン描きや飛びがんな、三島手風の象嵌が施された芸術性の高い作品など、優れた製品が生み出され、江戸の市中で流通していたと言われている。
        
              
・所在地 埼玉県比企郡鳩山町小用3991
              
・ご祭神 健御賀津智命
              
・社 格 旧小用村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 1017
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9702406,139.3381417,17z?hl=ja&entry=ttu
 今宿八坂神社から小用地域の「鹿島通り」を西へ進むと小用鹿島神社が道路沿いに鎮座している。直線距離でも700m程しか離れていない。
 境内にある「遷宮記念碑」また「埼玉の神社」を確認すると、以前はこの場所から北西方向に700m程の所で、大豆戸地域との境の大沼村付近にあり丘陵を背に鎮座していたが、昭和278年頃に村の中心である現社地に移転したという。
 藤沢秀郷の末裔を自称し、源頼朝の乳母を務めた比企一族の比企掃部允(源頼朝の乳母・比企尼の夫)が創建したという伝承が残っている社である。
        
                  小用鹿島神社正面
                右隣にあるのは「小用公会堂」
『日本歴史地名大系』での 「小用村」の解説によると、大豆戸(まめど)村の南に位置する。近世には入間郡に属し、「こいよう」とも称した(「郡村誌」など)。南は同郡西戸(さいど)村・箕和田(みのわだ)村(現毛呂山町)、西は同郡如意(ねおい)村(現越生町)。「風土記稿」によると古くは大豆戸村と一村で、同村を上越用(かみこいよう)とよんだのに対して、下越用と称したという。また慶長三年(一五九八)改の水帳には「入西郡下越用村」と記されていたという。永正一四年(一五一七)五月一四日の出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写(相馬文書)にみえる「小祐福寿寺」は当地福寿寺のことか。天文一五年(一五四六)四月一五日の北条氏康感状(平之内文書)に「小用嶺」とみえ、氏康は荒河端より小用嶺に至る竹本源三の戦功を賞している、という。
 また『新編武蔵風土記稿 小用(こよう)村条』には「村に傳ふる慶長三年改の水帳に、入西郡下越用村畠帳の事と記せば入西に属し、下越用村と号せしこと知らる、上越用と云は、土人の傳へにそのかみ比企郡大豆戸村の唱へなりといへど、たしかなることをしらず、(中略)用水不便の地なれば、田少なく畑多し、(中略)村内に江戸より秩父への往還かゝれり、比企郡今宿より入て、又同郡大豆戸村へ達す」と記載され、嘗てこの地域は、大豆戸村と一村を成していて、その後大豆戸村は「上越用村」、そして当地は下越用村」と称し、分村したという。
 
      鳥居の右側にある社号標柱      社号標柱の奥に立つ「鹿島神社遷宮記念碑」
「鹿島神社遷宮記念碑」
 小用の鹿島神社は現在の境内地より、西北西直線で約七百米の所に先人により鎮座なされたもので、参道は長く境内地は緩い南面の傾斜で西南に湖水を見、東・北・西参面が社有林、小用共有林により囲まれ其の広さは約参阡坪と言われ、また境内地には樹令数百年の亭々たる喬木が聳え鎮守の森に相応しく、よくぞ選ばれた山紫水明の庭でした。爾来渺茫八百有余年小用の鎮守、産土の神として此の土地と住む人々を守ってきました。
 今より約半世紀前、社が人家の中心付近に遷座される、との噂が広まり、それが現実となり、現在の地に遷座されたもので、永年の風雪により本殿、拝殿の老朽化が著しく此処に至り改築する事に成りました。
 資金問題については小用に未會有の大開発の折、興長寺所有の山林売買に関して開発業者と寄付金の額が伍阡萬円で決着かと思われた時、寺の役員の一人が「壱億円が適当であるそれが出せない場合は此の話は白紙にして貰いたい」との言葉に開発業者側が速やかに受入れ、其の金員は興長寺の通帳に繰入れました。この事は゛阿吽の呼吸゛と天が味方してくれたものと感じるものです、興長寺代表役員安西昌道住職より「檀家の大半の賛成があれば寄付金の内の五阡萬円は神社改築に使用しても良い」との意向を察し檀家一堂に会し、新し合いの結果、大半の賛成を得て安西住職の了承のもとに東松山税務署の意向通り宗教法人鹿島神社の通帳をつくり伍阡萬円を繰入れました。
 私は住職の広大無辺の考えは仏の教えの真髄と感じるものです。また現在の境内地は約六拾坪で余りに狭く松本好生氏宅で境内地の拡大には欠かせぬ場所を約九拾坪お譲り戴き神殿、拝殿が其の地に建てられました事は法恩寺御前の心と松本好生氏のご協力は此の事業の双壁を成すもので、さぞかし鹿島神社の神霊も喜び小用の地と暮らす人々を守り゛和゛を心として栄えるよう導いて下さると信ずるものです。古語に「言うは易く行うは難し」此の大事を為し遂げられしは社稷の加護と心に沁みるものです。これを契機に謙虚に過去を振り返り小用の将来が“和やかな人柄の住みよい土地”と社会から評される事を望み碑文と致します。
 平成十八年三月吉日 撰文 松本亮輔
                                   「記念碑文」より引用
       
           規模は小さいながらも、綺麗に整備されている境内
 冒頭に紹介した「小用鋳物師」として、上越用(大豆戸地域)の清水氏宮崎氏、下越用(小用地域)の松本氏の存在が確認されている。
〇清水氏
「秩父町定林寺宝暦八年鐘銘」 比企郡上小用村清水武左衛門清長・作
「高麗郡新堀村建光寺明和三年鐘銘」 鋳物師比企郡大豆戸村清水武左衛門
「正代村世明寿寺安永五年鐘銘」 大豆戸村清水清永・作
「平沢村平沢寺寛政五年鐘銘」 比企郡上小用村吹屋清水武左衛門・作
〇宮崎氏
「川越鋳物師安政五年小川文書」 鋳物師比企郡上小用郷大豆戸村宮崎柳七
〇松本氏
入間郡黒須村蓮花院鰐口」 寛正二年十月十七日、奉施入武州比企郡千手堂鰐口、大工越松本
「熊井村妙光寺木製龕笠銘」 永禄十二年十一月二十九日、野瀬沢之小用、南無地蔵奉寄進、松本二郎左衛門取次
*入間郡越生郷小用村(鳩山町)の鋳物師金刺氏は本名松本氏という
「横見郡久保田村阿弥陀堂梵鐘」 建武三年卯月九日、武州吉見郡大串郷窪田村阿弥陀堂鐘一口、大工金刺景弘
「比企郡赤沼村円正寺雲版」 応安四年卯月初吉、武州入西浅羽円接禅寺、大工金刺重弘
「甲斐国保福寺」 応安六年十一月二十一日、武州杣堡高柿村地蔵院雲版、大工金刺重弘
「越後国蒲原郡国上寺鰐口」 長禄二年十二月吉日、大工同国入西郡越生郷越住人重弘

 また小用地域の小字には「かねやつ」「からみ塚」という鍛冶に関連していると思われる地名も残されており、嘗て「小用鋳物師」が存在していたという側面的な裏付けにもなろう。
 気になる点が一つ。「鹿島神社遷宮記念碑」遷文の苗字は「松本氏」である。この人物も祖先を辿ると、「小用鋳物師」の松本氏一族に関係していた方なのであろうか。
        
                     拝 殿
 鹿島神社 鳩山町小用三九九-一
 岩殿丘陵の南部に位置する当地は、鳩川に向かうなだらかな斜面に畑が広がる農業地帯である。地内を旧秩父往還が通る。
 当社は、治承年間(一一七七〜八一)に比企掃部允が創建したと伝える。掃部允の妻は源頼朝の乳母の比企禅尼である。

『風土記稿』小用村の項に「鹿島社村領六石の御朱印を附せらる別当興長寺」と載る。社領六石の安堵は、慶安二年(一六四九)十一月のことで、三代将軍徳川家光から賜ったと伝える。
 別当の興長寺は、真言宗寺院で今市村法恩寺の末寺である。寺伝には、建久元年(一一九〇)に越生四郎家行が主君源頼朝の命を受け、源家繁栄祈願のために建立したのが草創とされる。また、地内には福徳院もあり、興長寺と同様に法恩寺の末寺で、如意山と号し、本尊は如意輪観音であった。
 当社の内陣には、如意輪観音の懸仏が奉安されており、福徳院とのかかわりをうかがわせる。恐らく別当のほかに、福徳院も当社の祭祀・管理を司っていたのであろう。同寺は今は残っていない。
 明治四年三月に、字内中島の神明社と字雷電山の雷電社を合祀し、翌年三月をもって村社に列した。
 当社は、元は大豆戸との境の大沼付近にあり丘陵を背に鎮座していたが、昭和二十七、八年ごろに村の中心である現社地に移転した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                     本 殿
 小用地域は、嘗て「下越用」と号し、比企郡大豆戸村(鳩山町)は「上越用」と号し、古は一村にて越(こゆ)、小祐(こゆう)と唱えたという。この「越用」という地域名の由来は不明である。
 鳩山町の西側には「越生町」があるが、共に「越」を共有する地名でもある。この「越生町」の名前も難解地名の一つといわれ、正直、「越生」と書いて「おごせ」と読めない方もいるであろうし、普通ならばまず読まない。由来も諸説ありはっきりしていないが、越生町のHPによると、平野と山地の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければならず、 それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されているという。
        
                  小用鹿島神社遠景
 あくまで筆者の勝手な解釈ではあるので、間違っていた場合は許して頂きたいのだが、もしかしたら、この「越用」という地名が先に存在していて、そこから周りの地帯に名称が広がったのではないか。「越生」も当初は「こゆう」であったものが、鎌倉時代前に武蔵七党・児玉党が土着し、「おごせ」と名称を変えたのかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「嵐山町Web博物館」
    鳩山町デジタルブック」越生町HP」「埼玉苗字辞典」「境内記念碑文」等
        

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