羽折稲荷神社
基本、同一の神社に複数の社殿があり、かつ社殿と社殿の間が非常に離れていて一見すると別のものにさえみえるような場合にこの名称を用いられることが多いようだ。
使用の最も典型的な例として、山裾と山頂の二社に同一の祭神を祀る場合、山裾の神社(本社・本宮・下宮)に対して山頂の神社を奥宮・奥社・上宮という。
鶴ヶ島市・羽折稲荷神社は、市域の大部分が平坦な台地となっているにも関わらず、「上社」「下社」に分かれて鎮座していて、実に不思議な形態の社でもある。
【羽折稲荷神社上社】
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市下新田428
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧指定村社
・例祭等 元旦祭・初午祭(2月初旬)・秋祭り(10月14・15日)
中新田神明社から「鉄砲道」に戻り、その道を1.1㎞程北東方向に進行する。下新田・中新田・上新田各地域を一直線に貫くこの道路が、大きく右カーブし始める信号付き5差路を埼玉県道114号川越越生線方向に右折し、300m程進んだ「下新田」交差点を左折、暫く進むと左手奥に羽折稲荷神社上社の朱色の鳥居が見えてくる。
周囲に適当な駐車場はないので、心ならずも鳥居は潜り、その先にある社殿、その東隣の下新田会館の専用駐車スペースに停めてから参拝を開始した。
羽折稲荷神社上社正面
『新編武蔵風土記稿 下新田村新田』には「享保年中下新田村淸寶院と云る、當山派修驗開發せし新田なり」と記され、村の開発に修験の関与が大きかったことがわかる。
「稻荷社 華厳院の持
華嚴院 當山修驗、入間郡小久保村教法院の配下なり、下同、
淸寶院
常福院 當山修驗、入間郡大仙波萬仁坊の配下なり、
南蔵院 當山修驗、同郡入間村延命寺の配下なり」
また「埼玉の神社」によると、現在は中止している祈年祭は、春祈祷と呼ばれ、大正期までは社前に注連を張り御幣を立てて、中央に湯の入った釜を据え、法印が榊を湯につけて参拝者を祓う「湯立神楽(ゆたてかぐら)」が行われていた。なお、荒神祭もこれと同様の祭事であった。
法印は地元の者が務めたという。江戸期、当地には華厳院のほかにも、同じ当山派修験の常福院、南蔵院があったことから、修験の活動が盛んな地であったことがうかがえよう。
拝 殿
羽折稲荷神社上社の創建年代等は不詳ながら、明暦年間(1655-1658)頃に成立した下新田村の開発が進み、享保年間(1716-1736)には本山派修験清宝院が更に新田を開発、下新田村新田の鎮守として羽折稲荷神社下社を分祀して創建したとされる。羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。明治維新後の社格制定に際して羽折稲荷神社下社が村社とされたものの、いつしか当社が「上の社・遥拝社」と認識されるようになり、祭礼の一切が当地で行われているという。
境内の一風景
年中行事は、元旦祭・初午祭(2月初旬)・秋祭り(10月14・15日)の年3回。
初午祭は、豊作を祈る祭りとなっている。この日の神饌は宿になる家を用意し、米の粉で作った粢(しとぎ)・小豆飯・鰯(いわし)・油揚げが神前に沿えられる。なかでも粢はさつま芋ほどの大きさで三方に載せる。
また神饌は上の社と下の社と二膳用意する。これは、祭典が終了すると縁起ものとして子供たちに分けられる。粢の食べ方は上から押さえて煎餅のように薄くし、醤油をつけて食べると珍味であるといわれている。祭典後の直会は宿になった家で行い、昼は飯、夜は手打ちうどんが用意される。
*粢…もち米と米粉を楕円形に固めた餅のことで、神前などのお供物として使われていた。
秋祭りは、以前は10月16、17日であったが、戦後14、15日に変更された。これは豊作感謝祭で「お九日(おくんち)」と呼ばれている。祭りの日の夕刻からは宵宮と称し、氏子は家の戸口や境内に灯籠を飾る。以前は、この日、子供たちが氏子を回り薪を集め、上の社の境内に積み上げて燃やした。15日の早朝、氏子は「藁(くさかんむり+包)(わらづと)」に赤飯を入れて神前に供え、豊作を祈願するとの事だ。
【羽折稲荷神社下社】
羽折稲荷神社上社から北東に走る道路を650m程進む。周囲一帯広がる住宅街の中、進行方向右手にこんもりとした森が見えてきて、その中に羽折稲荷神社下社の朱色の鳥居が道路沿いに立っている。
交通量の多い道路沿いに鎮座している故に路駐は不可。近くに「鶴ヶ島市北市民センター」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
鳥居前で一礼し、森の中の参道を進む。 参道は途中左側に緩やかにカーブしている。
羽折稲荷神社下社の創立は不詳であるが、羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。慶安元年(1648)の検地帳に「宮地七反八畝二六歩林稲荷免」とあるのは下の社の境内地である。字羽折周辺には古代及び中世の遺跡が広がっており、下の社の創立も中世にさかのぼると推定される。
参道途中に建つ「官林下戻記念之碑」
官林下戻記念之碑
夫敬神者皇國之大本須臾為弗可忽者也此地有名祠来由頗古
彌羽折稻荷為村鎮守羽折蓋古地名著于文獻江戸世慶安元年
境内二千三余百坪以除地奉祀明治初除地総上知焉為官林同
三年列村社後會廟議設官林下戻特典之制以三十三年二月氏
子胥議請之于官當時現籍為三十一戸氏子總代及有志者俣共
協力當事而衆議院議員福田久松斡旋最努及三十七年十一月
廿四日清浦農商務大臣允可之而七段九畝六歩地 復帰社境
衆抃躍而更營社殿大整植林以益頌神徳之隆今也境内風氣自
清氏人金寧蕃殖計五十戸而先人努力敬神漸顯於世於是厥子
厥孫祖謀欲建碑以傳父祖功績於不朽來請余文乃為銘(以下略)
社叢林の中にひっそりと佇む羽折稲荷神社下社
その後、近世の開発によって集落の中心が上に移ると、羽折稲荷神社も上に分霊されていったものであろう。上の社の創立は、新田開発の時期や境内の石仏の銘文、ご神木(現在は二代目)の樹齢などから、近世前半を下らないと推定される。現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社と意識しており、下の社の多くは上の社へ移行しているという。
羽折稲荷神社下社社殿
稲荷神社 鶴ケ島町下新田四二八(下新田字羽折)
当地は『風土記稿』によると、明暦のころ高倉村に属していた原野を開墾、分村して下新田村とした。次いで享保年間には、本山派修験清宝院が、更に新田を開発したという。
『風土記稿』下新田村の項には「稲荷社 村の鎮守なり、二月初午の日を例祭とす、村持」とあり、下新田村新田の項には「稲荷社 華厳院持」「華厳院 当山派修験、入間郡小久保村、教法院の配下なり」と載せている。
現在、前者の稲荷社は“下の社”後者の稲荷社は“上の社”とも呼ばれていることからも、おそらく下新田村の開発に際し、五穀の実りを祈願して稲荷社を祀り、次いで枝村の新田開発に伴い、親村の鎮守であった同社の分霊を祀ったものと考えられる。
明治期に入り、親村の稲荷社は古来一村の鎮守であったことから村社となった。しかし時代が下るに従い、集落状況や地理的条件、氏子の意識の変化などにより歴史的経緯が忘れられ、本来、新田の守り神として祀られた稲荷社を鎮守として仰ぐようになり、現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社として意識しており、下の社の祭りの一切は上の社へ移行している。
「埼玉の神社」より引用
道路沿いにある鳥居方向を撮影
現在下社の境内林は「ふるさとの森」に指定されている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料」
「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」「境内石碑文」等