古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

稲荷木伊奈利神社


        
             
・所在地 埼玉県熊谷市銀座346
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭 315日 秋季例大祭 915
 JR高崎線熊谷駅北口から駅前通りを北上し、歩道橋のある「筑波」交差点を右折、国道17号線を東行すること1.6㎞程にて、「銀座二丁目」交差点に達し、そのまま直進すると、すぐ左手に稲荷木伊奈利神社の入口の門が見えてくる。
 国道沿いに鎮座している社で、専用駐車場等は周囲確認してもなし。社の北側方向にコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
                稲荷木伊奈利神社正面の門
『大里郡神社誌』
 大里郡熊谷町大字熊谷字と通 
 無格社 伊奈利神社
 由緒 創立年月詳ならざるも古老に因るに文明十八年以後に係るものにして寛永元申年八月大洪水の為に社殿流亡同年再建す
        
                                 境内の様子
 商売繁昌・家内安全・交通安全の神として信仰が厚く、氏子だけでなく、市外からの熱心な参詣者もいる。戦前は、花柳界にも「袖引き稲荷」として信仰が厚く、毎日午後三時過ぎになると、芸者衆が縁起を担いで三々五々参詣に来たものであったという。
             
                            境内に聳え立つご神木
 嘗ては、利根川水系の湿地帯で、一面萱原であった当地は、熊谷の宿の中でも中山道から外れた所に当たる為、人家もまばらな農業地域であったという。当時、当社の前を通る道(国道17号線)は、行田街道とか忍街道と呼ばれる小道で、周囲には欅や杉が鬱蒼と茂って昼なお暗く追いはぎさえ出没するほどであった。また、当社の裏は丘となっており、狐や狸の住みかとなっていたともいう。
 ところが、昭和7年に国道17号線が開通すると状況は一変し、街道は立派な幹線道路にかわり、その両側にはたちまち家並みができていくようになる。居住者が増えてきたことにより、今まで属していた筑波町から独立し、その後、東京の銀座にあやかり、銀座と名付け、戦後に戦災から見事に立ち直った結果、銀座という地名にふさわしい街ができつつある。
        
                  稲荷神社らしく朱色の鳥居が数多く奉納されている。
    鳥居の右側には社号標柱があり、「正一位稲荷木伊奈利神社と刻まれている
    それに対して鳥居の扁額には「 稲荷木白髭伊奈利神社 」と表記されている。
 
   こちらも社殿の柱に掛けられている看板(写真左)と、扁額(同右)の表記が違う。

 伊奈利神社(とおかっきいなり)  熊谷市銀座三一四六(熊谷字と通)
 熊谷市街地の一角をなす銀座に鎮守する当社は、稲荷木(とおかつき)伊奈利神社という名で人々に知られている。この「稲荷木」という言葉については、はっきりとした伝えはないが、鎮座地周辺の古称と見られており、当社の創建とも深いかかわりがあると思われる。当社はまた、白鬚伊奈利神社とも呼ばれるが、そのいわれはわからず、祭神も倉稲魂命一柱であり、白鬚神社を合祀した記録もない。
『明細帳』によれば、当社の建立は文明十八年(一四八六)以降のことで、宝永元年(一七〇四)八月、洪水により流失し、同年に再建したと伝えられる。
 明治の初め、無格社となったが、その後、昭和十九年九月に村社に昇格したのもつかの間、翌二十年八月の空襲で街もろとも全焼してしまった。
 太平洋戦争後、奇跡的ともいわれる復興によって、熊谷の街も戦前に劣らないにぎやかさを見せているが、当社の再建もまた、こうした街の復興と歩調を合わせるかのように進められてきた。終戦直後、粗末な仮宮がぽつりと建てられているだけであった境内に、まず、昭和二十五年に社務所が再建され、同二十八年に稲荷神社から現行の伊奈利神社へ社名を改め、同三十四年七月には念願の本殿・拝殿の再建が果たされ同四十七年には鳥居も再建されて現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
「埼玉の神社」によると、「当社はまた、白鬚伊奈利神社とも呼ばれるが、そのいわれはわからず、祭神も倉稲魂命一柱であり、白鬚神社を合祀した記録もない」と載せており、「 稲荷木(とおかき)」の名称由来と共にそのいわれは全く不明だ。
        
                  社殿の向かって右側に祀られている境内社・八坂神社
               中に子供神輿を安置している。
 当社の氏子区域は、現在の銀座一・二・三丁目と高山町・住吉町・末広二丁目・銀八・熊谷団地の八区域で、氏子数は1600戸。これらの地域は、崇敬の念が厚い土地柄で、秋季例大祭や初詣には大勢の人出があり、毎年7月に行われる熊谷市最大のお祭りである「うちわ祭り」には銀座区として屋台と神輿を出している。
 熊谷在住の筆者にとって「うちわ祭り」は「荒川の花火大会」と共に熊谷市の最大のイベントだ。この祭りが近づくにつれて気持ちの高揚は抑えきれない。
        
                               社殿からの境内の一風景
        
      社の北側、道路沿いに設置されている「山車建造寄付者芳名」の掲示板
 山車建造寄付者芳名
 盛夏の熊谷が燃える八坂神社大祭うちわ祭りは、八ヶ町・石原本石を中心とした十二基の山車・屋台の巡行が圧巻であり、近時く関東一の祇園の呼称も内外に定着した。当銀座区は、大正十三年制作の屋台にてこの盛儀に参画していたのであったが、七十年の星霜は、屋台の老朽化を招き、新調は刻下の急務とされたのである。時あたかも平成五年、明けて年番を迎えるにあたり、山車新造の声澎湃として興り、区民挙げて浄財を寄せる議を決し、爾来一年計画は無事進捗し遂に完成に至った。ここに賛同各位の協力を多とし、地区の発展と祭文化の継承を期しつつ、芳名を刻し永く顕彰する次第である。
 平成六年六月二十七日(以下略)
                                      掲示板より引用


参考資料「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
        

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