脚折白鬚神社
この鶴ヶ島発祥に深く関わりのある「脚折」という地域名は、日本で鶴ヶ島にしかない大変珍しい名称である。地域名由来には諸説あるが、日本武尊の東夷征伐の折に人馬が脚を折ったことから名付けられたという伝承がある。又は、砂礫の多い地という意味で砂居(すなおり)または曽根居(そねおり)の転訛との説もあり、詳細は定かではない。ともかく、高倉・太田ヶ谷などは元脚折郷に属しており、この近辺の中心的集落であった。
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市脚折町6-10-20
・ご祭神 武内大神 猿田彦命
・社 格 旧七ヶ村(膝折・太田ヶ谷・羽折・和田・高倉・
大六道・小六道)總鎮守・旧村社
・例祭等 初午祭 2月 祈年祭 4月3日 雷電様 8月8日
下新田、中新田、上新田を一直線に貫いている「鉄砲道」を道なりに直進し、1.1㎞程先にある「日光街道」と交わる交差点を右折する。南北に走る街道沿いには一戸建て住宅街が軒を重ねている中、350m程進むと、進行方向正面左手にこんもりとした脚折白鬚神社の社叢が見えてくる。
脚折白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 による「脚折村」の解説では、「高倉村の北にあり、東は入間郡関間新田・片柳新田(現坂戸市)、北は同郡浅羽村・浅羽新田(現同上)。飯盛川が北東へ流れる。ほぼ南北に日光脇往還が通り、南方でほぼ東西に走る川越越生道と交差する。村名は臑折とも記される。小田原衆所領役帳には小田原衆六郷殿の所領として河越筋の「折」二〇貫文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡加治領に属した(風土記稿)。寛永五年(一六二八)の名寄帳(田中家文書)によると田九町二反余・畑一八町二反余・屋敷一町余、名請人は寺院一を含めて四七名。慶安元年(一六四八)の川越藩による検地で田一九町八反余・畑六一町三反余・屋敷二町五反余となり、名請人六三名、うち屋敷持四四名(「検地帳」同文書)」と記され、江戸時代当時「臑折村」と称していた。
また『新編武蔵風土記稿 臑折村』では「用水は西の高倉村の溜井よりひけり、又村内の溜井よりも沃げり、まゝ旱損を患れども水損の害なし」と、近世各地に起こる用水不足からくる水害はこの地域にはあまりなかったことも記されている。
鳥居に掲げてある社号額 入り口付近に設置されている案内板
白鬚神社
白鬚神社は、滋賀県高島市に鎮座する白鬚神社を総本社とする神社で、全国に約三百社が祀られています。
当社は奈良時代に武蔵国に移り住み、この地を開拓した高句麗人が崇敬した旧入間郡内二十数社のうちの一社とされます。
当社の祭神は天孫降臨の道案内をした国津神の猿田彦命と五代の天皇に仕えた伝承上の忠臣とされる武内宿彌の二柱です。両神とも老翁の姿で現れることから、長寿の神ともいわれています。
神域は棟札によると、臑折(脚折)、太田ヶ谷・針[うかんむりに居](羽折)・和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)に広がり、七ヶ村の総鎮守でした。
御神木は社叢裏手にそびえる樹齢約九百年といわれる県指定天然記念物の大欅です。
また、四年に一度行われる国選択無形民俗文化財「脚折雨乞」の巨大な龍神は当社で入魂された後、渡御に向かいます。
令和五年三月 鶴ヶ島市
案内板より引用
手入れが綺麗に行き届いた参道、及び境内
奈良時代に創建された由緒と歴史がある神社。街道沿いに鎮座しているにも関わらず、鳥居を過ぎると、木々に囲まれた参道、及び境内は静寂な雰囲気に包まれている。時に聞こえる小鳥のさえずりさえも筆者の五感を燻らせられているように感じられ、何とも心地よい。
参道左側にある手水舎 参道を進む左手に祀られている社家祖霊社
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 臑折村』
白髭社 村の鎭守なり、例祭九月廿九日、往古は臑折・太田ヶ谷・羽折[此村今はなし]・和田[臑折村の小名]・高倉・大六道[今の上新田村なりと云]小六道[今の中新田村なりといふ]七ヶ村の總鎭守たりしと云、明暦の棟札の裏に、この七ヶ村の總社と載たれど、今は當村及び當村の新田の鎭守となれり、社後に大槻一株あり、圍一丈七尺に餘れり、本山修驗正福院の持、
正福院 八幡山と號す、本山修驗、篠井村觀音堂配下なり、
白鬚神社 鶴ケ島町脚折一七一五(脚折字下向)
脚折は越辺川の支流飯盛川上流にある。縄文期から平安期にかけての集落跡が八幡塚・宮田・上山田をはじめ数か所あり、古くから開けた所である。
社記に「天智天皇の御代、朝鮮半島の戦乱を避け一族と共に我が国に渡来した高麗若光王は、霊亀二年西武蔵野を賜り、高麗郡を設けて東国七ケ国に居住する高句麗の人々一七九九人を集めた。若光王は日頃崇敬していた猿田彦命と武内宿禰を白鬚大神と称して高麗郡の中央に祀り郡内繁栄を祈り、また郡下に数社を祀る。当社はこのうちの一社」とある。
社蔵の棟札に「白鬚大明神本地十一面観音七ケ村惣社臑折大田谷針宮和田高倉大六道当所之鎮守・于時天正二甲戌年九月吉日」があり、広く崇敬されていたことがうかがえる。
社蔵文書「年貢皆済目録」に鎮守御供米二俵とあり、領主の崇敬が厚かったことが知られる。
一間社流造りの本殿は、宝永七年の再建であり、内陣に白幣及び十一面観音を安置する。
明治五年に村社となり、同四〇年には字若宮の八幡社、天神下の天神社を合祀する。
「埼玉の神社」より引用
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」によると、当社の祀職は別当本山派修験正福院の裔、宮本家が代々務めている。宮司宅に所在する「源氏家平野系図」によると、文明二年(一四七〇)より四代にわたり八幡山世代と称される人々が続き、元亀二年(一五七一)に平野弥次郎源重朝がそれを継いでいる。平野弥次郎は落ち武者で、兄弟である後の脚折村前方組の名主家の祖とともに、平野イツケの祖となっている。明治二年に復職し、平野姓を宮本に改めた。屋敷内にあった不動堂は脚折村新田の当山派修験者の庭に移された。社家に対する呼称としてはオミヤンチ(=お宮の家)、当主などがある。
拝殿に掲げてある「白鬚神社」の扁額
拝殿左側には境内社の合殿が鎮座
向かって左から神明社、愛宕社、八幡社、疱瘡社、天神社、諏訪社、稲荷社が祀られている。
本殿奥に一際目立って聳え立つご神木である大欅
このご神木である大欅(ケヤキ)は樹齢900年余りで、現在の樹高は約17m幹周りは約7mの巨木である。昭和7年に指定された当時は樹高が約36mで、枝も四方に生い茂っていた。しかし、昭和47年に風雨と自らの重さにより枝周り3mもの大枝が折れてしまった。このため幹の空洞部分を覆い、さらに東面の残った大枝を鉄柱で支える措置を講じられている。また、平成6~7年度にわたり樹勢回復のため腐朽部分の除去や樹脂補填等を行い、その後、平成18年度には、木の成長とともに前回の樹勢回復業務における樹木と樹脂の接合部分に剥離が生じた箇所の補修や、菌などの繁殖を抑えるため、日照、風通しを良好に保つための周辺環境も整備し、今日に至っているという。
なお、この大欅は「脚折のケヤキ」との名称で、昭和7年3月31日 埼玉県指定天然記念物に指定されている。
境内に設置されている指定文化財の案内板
市指定有形文化財(彫刻)
脚折白鬚神社十一面觀音菩薩立像 昭和六十二年十二月二十四日指定
白鬚神社の十一面観音菩薩立像は、宝冠を被り、頭上に変化面を十面備え、右手は垂下し、左手に花瓶を執り蓮台上に立つ像である。眼と額の百毫には水晶が使われ、全身には金泥が塗られ、衣の部分には金箔が貼られている。
白鬚神社所蔵の棟札・銘札から、室町時代より同社の本地仏として祀られていることが判る。また、作製技法は数材を合わせる寄木造りで、しかも正中矧ぎといって、合わせ目を正面にしている。これは万一割れが生じると正面に傷がくるので普通は側面にするのであるが、相当に自信のある作者によるものであろう。
この十一面観音菩薩立像は傷みがはげしかったため、指定当時に修復を行っている。
像高 四ニ・〇センチメートル 製作時期 室町時代
市指定有形文化財(歴史資料)
白鬚神社 棟札・銘札 平成六年二月二十四日指定
白鬚神社は霊亀年間(七一五~七一七)高麗人帰化の際、郡内に勧請した白鬚神社数社の内の一つであるといわれている。
白鬚神社の境内にそびえる樹齢約九〇〇有余年の大けやき(県指定天然記念物)は、同社の古さを示す古木である。
同社の収蔵庫には、天正二年(一五七四)から享保十二(一七二七)年におよぶ八点もの棟札・銘札 が所蔵されている。
これらの棟札・銘札からは、七か村の総鎮守であった白鬚神社の信仰圏、神仏淆潰時代の本地仏などに関することのほか、地元の職人のてがみなど、さまざまな歴史的な事柄について知ることができる。また、一五〇年余りの期間に本地仏や社殿の造立、修復が頻繁に行われていることが判り、同社に寄せられた信仰の厚さをも窺うことができる。
現在県内においては、神社の大半は確固たる由緒書を持っておらず、棟札やさまざまな奉納物の銘札などに記された銘文によって、その歴史を知り得る場合が多い。白鬚神社の棟札及び銘札についても同様であり、しかも安土桃山時代から江戸時代中期にかけて、これだけまとまって、保存されている例は県内の各神社をみても決して多いとは言えない。
この棟札及び銘札は同社の歴史はもちろん、鶴ヶ島の歴史や埼玉県の宗教史を考える上でもたいへん貴重な歴史資料である。
境内案内板より引用
社殿からの一風景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」「Wikipedia」「境内安案内板」等