揚井白髭神社
九条家延喜式裏文書・大里郡条里坪付に「楊井里、楊師里、楊田里、物部里」の地名があり、また明治6年和田村と原新田が合併したさい、新しく村名を『和名抄』に載っているこの地方の郷名“楊井郷”にちなんでつけられた。但し『和名抄』には「也木井」との註も載せている。
当社は揚井地域の中でも南部の和田地区に属し、旧和田村鎮守社で、旧村一帯を一望できる小高い丘陵の一画に鎮座している。因みに旧和田村は、中央部を東西に流れる「和田川」の河川名の由来となっている。
この楊井という地名は、嘗ての大里郡に所属されていた郡家(ぐうけ)郷・余戸(あまるるべ)郷・市田(いちた)郷と共に4つの郷の内の1つである楊井郷に由来するという説と共に、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である『武蔵七党』の一つである「私市(きさい・きさいち)」党に属した「楊井氏」によるともいう。
・所在地 埼玉県熊谷市楊井3
・ご祭神 猿田彦命
・社 格 旧和田村鎮守・旧村社
・例祭等 歳旦祭 1月2日 祈年祭 2月28日 春季例大祭 4月5日
秋季大祭 10月16日 新嘗祭 11月28日
岡諏訪神社や妙安寺・上岡馬頭観音のある「上岡」交差点のある国道407号線を熊谷方面に1.4㎞程進み、「森林公園北口入口」のすぐ先にある丁字路を左折し、その後500m程道なりに西行すると、進行方向右側に揚井白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
揚井白髭神社正面
『日本歴史地名大系 』「和田村」の解説
大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、一部は比企丘陵にまたがる。村の中央を和田川が東流し、西は原新田など。用水は丘陵を刻む小さな谷頭に築かれた五つの溜池を利用(郡村誌)。中世は和田郷に含まれていたとみられ、同郷は和田川流域に比定される。嘉慶三年(一三八九)二月三日の官宣旨(浄光明寺文書)によれば、北朝は「男衾郡内和田郷」を鎌倉浄光明寺の一円不輸の地とし、伊勢大神宮の役夫工米などの臨時公役を免除している。
『日本歴史地名大系』「原新田村」の解説
大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、北は平塚新田、南は男衾郡野原村(現江南町)。名主園右衛門の先祖五郎兵衛が開発した新田で、元禄(一六八八〜一七〇四)の改では無高であったが、享保一八年(一七三三)の検地で高入れされた。
鳥居の左側に建つ社号標柱 鳥居の右側には社の案内板が設置されている。
鳥居の先で参道左側には庚申塔、及び青面金剛がある。
庚申塔の奥に見える自治会館
社は揚井を一望できる丘陵上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 和田村』には「神明社 薬師寺持、天神社 常照寺持、白髭社 村の鎮守、持同じ」と三社を載せ、このうち当社が村の鎮守であった。江戸期の史料としては、宝暦七年(1757)に神祇管領から献じられた「白鬚大明神」の幣帛、「奉建立時天明五歳乙巳(1785)仲春大吉祥日 常正(照)現住宥範代当邑氏子中 大工村岡邑新井弥七造」と記される棟札がある。
緩やかな上り坂の石段、途中踊り場を数カ所確認しながらその先の社殿に向かう。
拝 殿
白髭神社
熊谷市揚井地区(旧揚井村)は、明治六年(一八七三)に和田村と原新田が合併し『和名抄』に記載された「揚井郷」の名称から旧村名となりました。揚井を一望できる丘陵上に「白髭神社」は鎮座しています。
明治時代に編集された江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「白髭社」の名称が記されています。宝暦七年(一七五七)に献呈された「白鬚(髭)大明神」の幣帛があるほか、天明五年(一七八五)に村岡村の大区棟梁の新井弥七によって建立されたことを記す棟札が残されています。神社裏手には「目代坂」という字名があり、かつて和田氏を名乗る武将の館が所在していたと伝わっています。
滋賀県高島市の白髭神社を総本社としている白髭神社は、明治時代の神仏分離令により旧常照寺の管理から離れ、明治七年(一八七四)に村社となりました。明治時代後半には、境内地に天満宮が合祀されています。また一方で、日高の高麗神社の祭神「若宮」に対する信仰から「白髭」の名が冠されたという伝承もあります。
社名については、境内門の「髭」、社殿の「鬚」をはじめ、他に「髯」と刻まれる箇所があるなど標記の使い分けに興味深い点が見られます。
白髭神社の祭神の一つである「猿田彦命」は、日本神話上の伝説から「導きの神」として信仰を受けています。祭礼では、無事安泰な日常生活へと導かれるように祈願され、年間を通じて各種の神事が行われています。
白髭神社は、揚井地区の郷土文化や民俗信仰を現代に伝える貴重な歴史遺産として人々の崇敬を集めています。
令和二年十一月 吉岡学校区連絡会
社頭案内板より引用
祭神である猿田彦命は“導きの神”といわれている。これは、猿田彦命が、天孫降臨の時に、皇孫を天八衢(あめのやちまた)にお迎えし、筑紫の日向の高千穂の槵觸(くしふる)の峰にお導き申し、更に皇孫は天鈿女命に送られて伊勢に至ったとの故事に基づくものである。
因みに『天八衢』は「高天原(天)にある多くの分かれ道」、「天にあって、八方に通じている分かれ道」、「天にあって、分かれ道が多数集まっているところ」などと解釈されていている。
なお『明細帳』には神楽殿があったことが記されており、嘗て春等の祭りには神楽の奉納もされていたのであろう。
拝殿に隣接して祀られている境内社・天満宮
『新編武蔵風土記稿 和田村』
小名 目白坂 村の北なり、此邊布目瓦など掘出すことありと云、土人當所古へ和田一黨の住し地ならんといへど、たしかなることはしらず、
神明社 藥師寺持、
天神社 常照寺持、
白髭社 村の鎭守 持同じ、
藥師寺 禪宗曹洞宗、男衾郡野原村文殊寺末、光明山と號す、本尊藥師、
常照寺 新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院末、彌陀山と號す、本尊地藏寺室に惠心の描し、彌陀一軸を藏せり、
社殿の左側奥にひっそりと祀られている神明社
揚井白髭神社の境内には「瀬戸山古墳群」またの名称を「楊井古墳群」と呼ばれている古墳群が存在している。この神明社の奥にも墳丘らしきふくらみが見られ、古墳と推測されている。
この古墳群は、和田川と和田吉野川に挟まれた吉岡台地の東縁部緩斜面上、標高32~35mに位置する。昭和34年(1959)から52年にかけて、円墳六基・前方後円墳一基が調査されている。円墳は径10~32mで、主体部は凝灰質砂岩の切石を使用した胴張りもしくは直線胴の横穴式石室で、瀬戸山一号墳からは杏葉・雲珠が出土したという。
因みに、『大里郡神社誌』において、所在地は「大里郡吉岡村大字揚井字瀬戸山に古より鎭座す」と載せている。この地は、歴史ある「瀬戸山」の地であるのだ。
社殿から正面鳥居を撮影
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
「熊谷Web博物館」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等