古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新田金山城跡を散策しました。

  新田金山城跡がある「金山(かなやま)」は、群馬県太田市金山町にあり八王子丘陵の東南にある標高235.8mの独立峰であります。別名「太田金山」。現在、「ぐんま百名山」に選定されています。
 金山の名は室町期から見える地名であり、1404年(応永11年)9月の『村田郷地検目録(正木文書)』に「一所、金山御神田」の記述があり、当地が信仰の対象になったことがわかります。
 この地一帯には、金山丘陵北東部から八王子丘陵南端にかけて須恵器及び瓦の窯跡群があり、亀山窯跡・辻小屋窯跡・八幡窯跡をはじめ6世紀後半から7世紀後半の窯跡支群が確認されています。推定された数は12ヵ所で、関東地方の古墳時代窯跡群の中では最大のもので、9世紀後半までの存続が認められています。
 また、万葉集には「新田山」として次の二歌が詠まれています。
 「新田山(にひたやま) 嶺(ね)には着かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる児らし あやに愛(かな)しも」(巻14-3408
 ・「白遠(しらとほ)ふ 小新田山(をにひたやま)の 守(も)る山の 末(うら)枯(が)れ為(せ)なな 常葉(とこは)にもがも」(巻14-3436
 そもそも「金山」という名称自体、古代鍛冶集団との関連性もあるようで、金山の北東部、菅ノ沢遺跡で須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および7世紀中頃の古墳3基が見つかっています。製鉄炉は、半地下式であり、タタラによる鉄製鉄が行われていたのは、平安時代中期の10世紀頃と推定されています。金山山麓は古墳時代から平安時代にかけて全国的にも有数の窯業地帯であり、須恵器や埴輪の一大生産拠点であったようです。
        
             ・所在地   群馬県太田市金山町4098
             ・築城年   1469年(文明元年)
                         ・指定区分  国指定史跡[城館跡等]
             ・指定年月日 昭和91228日 追加指定 平成14920
 新田金山城は、金山城は文明元(一四六九)年、新田一族であった岩松家純によって築城されました。 一般的な城郭とは違い、標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城であります。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が、金山城跡の発掘調査で覆されています。まだ天守閣がつくられるより古い時代の城であり、堀切や土塁・石垣など土木工事(普請)を中心とした遺構がよく残されていて、数々の城主を守り抜いてきた難攻不落の名城といわれています。
 山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ金山城跡は昭和9年(1934)に国の史跡指定を受けています。
 太田市と太田市教育委員会では、平成4年度(1992)から発掘調査を開始し、金山城時代の通路形態の復元を中心とした、遺構の保存整備事業を実施しています。戦国期、「関東七名城」の一つとされていた城であり、平成18年(2006)には公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されています。
 
   駐車場付近に設置されている掲示板         金山城入口の石碑
 史跡金山城跡
 太田市のシンボルである金山に築かれた金山城は、文明元年(1469)から天正18年(1590)まで「難攻不落」を誇った名城です。昭和9年(1934)に県内で初めて城跡として国の史跡指定を受けました。
 平成6年(1994)からスタートした史跡金山城跡環境整備事業では、発掘調査結果に基づいて、敵を“惑わす”複雑な「通路形態」の復元を目指した整備を行っています。復元された戦国時代の通路を歩きながら、当時の山城の状況に想いをかせてみてください。また、通路周辺で発見された、中世における関東の山城ではきわめて珍しい「石垣」の復元整備も行っています。
 平成13年(2001)には、物見台から日ノ池までの1.4㏊の範囲における第1
期整備事業が完成しました。天守閣のある城とは違う雰囲気を持つ『石垣の城』金山城跡を、どうぞゆっくりご覧ください。
        
              入口から金山城実城方向に進みます。 
 入り口付近のみならず、至る所で岩盤が露出しています。金山の岩盤は「金山流紋岩類」と呼ばれ、熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっていて、金山城の石垣に利用されています。

 太田市の地形は市域の中央の東に位置する金山丘陵(最高点は金山239m)、市域の北部からみどり市・桐生市に延びる八王子丘陵(最高点は桐生市の茶臼山293.9m)とその周辺の台地・低地からなる平野から構成されています。
 金山丘陵は八王子丘陵などとともに、足尾山地から渡良瀬川の断層によって切り離された分離丘陵群のひとつであります。南北約3.8km、東西約3.1km、最高点は金山山頂の239m、平野との比高差は170190mで、複雑な山麓線を有しています。
 金山の地質は山頂を中心とした部分が新生代第三系の金山流紋岩類で、これを北から取り囲むような形で馬蹄形に中生代の足尾層群が取り巻いていまして、相対的に見ると前者が高く、後者が低くなっていて、また金山丘陵北西端には中新世の強戸礫岩層・新第三系の薮塚累層湯ノ入凝灰岩部層が分布しています。

 金山流紋岩類は流紋岩質火砕岩類で、熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっていまして、火砕流堆積物とは高温のマグマの砕屑物(主に火山灰や軽石)が火口から流出したもので、高温状態の砕屑粒子が熔結したものを熔結凝灰岩と呼びます。
 金山の主体部は金山流紋岩類3と呼ばれる流紋岩質熔結凝灰岩で、金山各所の石切場跡などで見事な柱状節理(ちゅうじょうせつり)を見ることができます。この中で、特に観音山(坂中)北東斜面の「長石(ながいし)」は有名です。かつては建物の基礎石や土木工事用の砕石として利用され、地元では「金山石(かなやまいし)」と呼ばれていたようです。
        
                                 大手虎口の見事な石垣
 金山各所の石切場跡に取れる熔結凝灰岩を利用した石垣や石敷きの通路、さらには石積みされた土塁等、あらゆる所に石を用いた総石造が特徴的な山城跡。現在、通路が石で埋め尽くされた大手虎口や南曲輪などが復元整備されています。
 
        大手虎口の脇にある月ノ池(写真左)とその案内板(同右)
 
             土塁石垣(写真左)とその案内板(同右)
 
           金山山頂にある日ノ池(写真左)とその案内板(同右)
 15m×16.5mの円形の池。生活用水の確保のほか、戦勝や雨ごいを行った儀式の場と考えられています。
        
 金山城は平安時代末期の新田氏が防御施設として構築したとも伝えられていますが、その歴史は文明元年(1469)に新田氏の後裔、岩松家純(いわまついえずみ)の命により築造されたことに始まったと考えられています。最初に金山城主となった岩松氏は下剋上によって横瀬氏(後に「由良」と改姓)と交代し、その後北条氏の支配となりましたが、豊臣秀吉による小田原北条氏攻めによる北条氏の敗北によって、金山城も天正18年(1590)に廃城となりました。
 現在の整備は、戦国時代の後半に造られた城内を再現したものといわれていますが、山中の至るところに約120年ものあいだ落城することのなかった金山城の痕跡が、石垣や堀切、土塁として今でも残されています。



参考資料「太田市HP 金山の地形と地質」「ウィキペディア(Wikipedia)」「城跡内案内板」等                            
        

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