古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

姥宮神社

   寄居の市街地から西に峠を越えたところに『風布』地域がある。『風布』、何と優美でありながらどこか神秘的な響き、そして名前だろうか。この『風布』という地名の由来ははっきりとしないが、山に囲まれた地形から暖かい空気が空中に漂い、風が布を引いた様になる現象がみられることから付いたものと言われている。またこのフウプ(フップとも読まれる)の名はアイヌ語とも言われていて、この地形から地域全体に強風がさえぎられ非常に温暖な気候だ。  
 この風布地域は秩父鉄道波久礼駅から風布川沿いに歩いて約1時間の小さな盆地で、日本におけるみかん栽培の北限地域の一つとされている。風布みかん栽培は天正年間(1573~92)まで遡り、時の領主である鉢形城城主北条氏邦が本拠地「小田原」からみかんの木をこの地に植えたのが起源で、400年以上の歴史を持つ。
  10月中旬から12月中旬までのみかん狩りシーズンには、この地区合わせて延べ4万人もの観光客で賑わうという。

 また地区の中央を、釜伏山を源とする「風布川」が流れていて、水源の水は大変おいしく甘い水で、「日本水(ヤマトミズ)」といわれ日本名水百選に埼玉県から唯一指定されている。その風布川流域で風布地域集落に鎮座する社が姥宮神社だ。

所在地   埼玉県大里郡寄居町風布125
御祭神   石凝姥命(いしこりどめのみこと)
         ※[別称]鏡作神(かがみつくりのかみ)
社  挌   不明
例  祭   不明
       
 姥宮神社は国道140号彩甲斐街道を長瀞方面に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折して寄居橋を渡るとT字路にぶつかる。そのT字路を左折して真っ直ぐ道なりに進むと15分くらいで右側に姥宮神社が鎮座する風布地域に到着する。本来ならば皆野寄居バイパスを利用して最初の寄居風布ICで降りたほうが時間は半分以下で着くことができたが風布の山林道の風景を楽しみたかったので今回は下の道路を使った。(金銭的な関係も勿論あるが、それより子供が小さかった十数年前にサワガニ取りやバーベキューを行うため、また後述するが名水である「日本水」に通じる一本道でもあるため、よくこの風布地域の清流に何度も足を運んだ思い出があった為だ。)

 姥宮神社は山間の谷間の神社で切り立った斜面に鎮座している為、これといった専用駐車場はない。但し神社の隣に社務所(?)らしい建物があり、その手前に車が駐車できるスペースがあったのでそこに車を止め参拝を開始した。

  
          姥宮神社正面鳥居                   屋根つきの立派な社号額
                                                                         貫には幾何学模様が彫られ、笠木には屋根があり、

                                                             更に額束を守るようにそこだけ取り付けられた唐破風

 この風布の地域は秩父の黒谷(和銅採掘)から連なる山なので、かじやの神様、石凝姥命を祀ったそうだ。石凝姥命とは、石の鋳型を使って鏡を鋳造する老女の意だが、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき、外へ迎え出すのに用いた「八咫(ヤタ)の鏡」(大鏡)を造ったのがこの命である。
 ちなみに姥宮と書いて「とめのみや」と言うらしいが、「姥」は「ウバ」とも読むので地元の人たちには「うばみやさま」ともよばれている。当地では、大蛙を蟇蛙「おおとめひき」、つまり「ヒキガエル」であり、当社の社名と同じ響きで、蛙が神使とされており、巨大なカエルの神使像が狛犬に代わって鎮座している。

 ウィキペディア「トベ」によれば、石凝姥を石凝戸辺とも書き、古くは「トベ」とも言ったようで、「トメ」(つまり後代の乙女)の語源で、ヤマト王権以前の女性首長の名称らしい。また「老」という字は、中世惣村では村の指導者(オトナ、トシヨリ)になり、江戸時代にも老中とか若年寄という職務になることを思えば、女の首長ならば姥の字を当てたのは十分納得できる。
 
  参道の石段を上ると両サイドにある神使の蛙で、写真には見えないが背には子供が3匹乗っている。
 
 姥宮神社拝殿の向かって左側には神楽殿(写真左)があり、拝殿の正面、石段の手前に不思議な石塊(写真右)があり、形状からさざれ石かもしれない。よく見ると石塊の両側には嘗て鳥居か石柱があったらしい礎石跡もあり、ある意味御神体だった可能性もある。風布地域の地形、また社殿の奥にある巨石群といい、姥宮神社の本来の御神体とはこのような石神だったのではないかと考えられる。
                        
                              拝   殿
         拝殿の屋根には十六菊の紋章がある。何故十六菊の紋章なのかは不明だ。

  この姥宮神社は元はうぶすな山という、風布みかん山のてっぺんの方にあり、そこから今の場所に移転したらしい。また宮司の姓は岩松氏という。歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。
           
                  
                                            姥宮神社拝殿の脇障子にある見事な彫り物
           
  拝殿部にも細やかで素晴らしい彫刻物が施されていた。見るとわずかに彩色が残り、往時の煌びやかな様子が偲ばれる。
          
 また社殿の向かって左側、神楽殿の隣にはこれもまた見事な御神木である「富発の杉」が存在する。
 最初は鳥居の先、石段の左側にある大杉を富発の杉と勘違いしたが、その石段左側にある大杉もまた見事だ。
     
  社殿の奥で、大杉の脇を通り、奥へ行くと胎内くぐり(写真左)という不思議な石穴があり、神潜りの岩穴と言われ、潜ると疱瘡や麻疹、罹患することはないという。胎内くぐりの岩穴の上に行くとそこにも巨石(写真右)がそこ彼処にもあった。 
   
 境内の右側、つまり道路側には境内社が存在する。2社あり、手前は稲荷社のようだが奥は判別できなかった。 
            
                        
  鳥居の左側にはこのような巨石(写真上)が。よく見ると蛙に見える。またその隣には「忠魂碑」がある(写真下)。この忠魂碑は何を意味しているのか。戦争中の戦死者を祀っているのか、それともそれ以前の明治時代のあの事件の関係か。あの事件の際にはこの風布の集落の全戸が参加し最後まで結束し勇敢に戦ったとある。考えてみると風布地区や金尾地区は今でこそ寄居町の一地区だが昭和18年に合併する以前は秩父郡であった関係で秩父と関わりが深いのもうなずけるところだ。

 この姥宮神社は決して広くない社だが、空間をうまく使って創られており、見どころも非常に多い。社の周囲は緑が生い茂り、川のせせらぎが聞こえるのどかな山里神社であるが、歴史的な重さも相まって参拝にも厳粛な気持ちで行うことができ、有意義な時間を過ごすことができた。 記憶に刻みたい素晴らしい社をまた一つ発見した、そんな思いだ。



  

 

 

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