田木小田原神社
・所在地 埼玉県東松山市田木662
・ご祭神 大己貴命
・社 格 旧田木村鎮守・旧村社
・例祭等 元旦祭 春祭り 4月21日 例祭 10月17日
報告祭 12月21日
毛塚神明神社の北側を東西方向に走る「並木通り」に一旦戻り、西行すること約700m。「田木」交差点を右折しすぐ先にあるY字路を右方向に進むと、田木小田原神社の赤い鳥居が進行方向左手に見えてくる。
実はこのY字路を左方向に進むと、社の背後付近に広い空間があり、駐車スペースにも思えたのだが、看板等もなく、個人所有の土地とも思えたので、鳥居の近くに路駐し、急遽参拝を行った。
田木小田原神社正面
社は越辺川の高坂台地の南斜面にあり、越辺川の左岸低地を見守るように鎮座している。
『日本歴史地名大系』 「田木村」の解説
[現在地名]東松山市田木・桜山台・白山台・旗立台・松風台
毛塚村の西、越辺川の左岸に位置し、村域は同川に沿う自然堤防・低地から高坂台地の南斜面にかけて展開する。岩殿丘陵・高坂台地からの水を集める急流九十九川が東部を南流し、越辺川に入る。九十九川のタキ(滝)が地名の由来であろうか。
松山領に属した(風土記稿)。田園簿によると田高二二四石余・畑高一九三石余、旗本横田次郎兵衛(述松)家・同横田甚右衛門(胤松)家の相給。元禄一一年(一六九八)述松領は旗本三間領となる。翌一二年当村名主孫左衛門などが地頭会所へ提出した訴状(久保田家文書)によると、旧地頭横田氏は名主に対して伝馬を貸与し、名主免三町は諸役一切御免であった。
石段を上り終えた境内左手にある社号標と手水鉢 境内に植えられている招霊(おがたま)の木
因みに、オガタマノキ(招霊木)は、モクレン科モクレン属に属する常緑高木の一種である。和名は、招霊(おきたま)が転じて「オガタマ」になったともされる。
和名の「オガタマノキ」は、神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したものといわれる。日本神話においては、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際に、天鈿女命がオガタマノキの枝を手にして天岩戸の前で舞ったとされる。神社によく植栽され、神木とされたり、神前に供えられたりする。神楽で使われる神楽鈴は、オガタマノキの果実が裂開して種子が見える状態のものを模しているともいわれている。
拝 殿
『新編武蔵風土記稿 田木村』
小田原明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持、
慈眼寺 新義眞言宗、入間郡上野村醫王寺末、普門山知勸院と云、本尊不動を安ず、中興の開山を秀榮と云、元祿四年示寂す、
鍾樓 正徳四年、鑄造の鐘を掛く、
小田原神社 東松山市田木六六二(田木字宮本)
社伝によると、当社は寛永三年(一六二六)に観定僧都により地内の真言宗慈眼寺の境内に勧請されたことに始まる。観定僧都とは、慶長年間(一五九六〜一六一五)に慈眼寺を開基した僧である。
その後、享保十年(一七二五)に至り、自然堤防上の慈眼寺境内から耕地を隔てた高台の現在地に遷座した。
『風土記稿』には「小田原明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持」と載る。
明治六年に村社となり、同四十一年には字田木山の神明社と字赤城の朝崎稲荷神社の無格社二社を合祀した。神明社は元和年間(一六一五〜二四)に本山派修験の常覚なるものが創建した社と伝える。朝崎稲荷神社は宝暦十四年(一七六四)に妙安寺九世の日定法印が勧請した社と伝え、昭和三十年代に入って旧氏子赤城地区の人々の要望により元地に復している。
昭和三十三年には、境内林を用材に社殿を改築すると共に鳥居・参道石段の改修を行い、更に氏子の山口実一氏により土地の寄附がなされた社地が広まり、景観は一新した。
なお、当社境内にある最も古い石造物は、安永七年(一七七八)の手水鉢で、これには「中嶋観音組 田木村講中」と刻まれている。
「埼玉の神社」より引用
社殿を横から撮影 境内社・神明社
祭りに関して、4月21日に行われる春祭りは、かつて塚越(現坂戸市塚越)の神楽を境内で行っていたため、今でも通称を「お神楽」と呼んでいるという。例祭は、氏子から「お九日(おくんち)」あるいは「お日待」と呼ばれている。12月の報告祭は五穀豊穣に感謝する祭りで、各家から初穂米を集め神前に供えるのが習いであるが、近年は農家の減少に伴い、米の代わりに現金で納める家も多くなっているとのことだ。
一段高い境内から鳥居方向を撮影
田木小田原神社遠景
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
「Wikipedia」等