一本木神明神社
『新編武蔵風土記稿・一本木条』において「東西十町、南北五町」と記載されている。「町(ちょう)」とは日本固有の尺貫法における長さ(距離)または面積の単位として使用されていて、長さの単位として使用される場合、条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 mを11町と定めた。したがって1町は約109 mとなる。
上記の計算方法で「東西十町、南北五町」を計算すると「東西1090m、南北545m」となり、現在の行政区画では、東西で長い所が1200m程、南北400m弱程なので、東西はほぼ同じ長さではあるが南北で若干の違いがあり、時代が下るごとに区域面積の変更が生じたのであろう。
ともあれこの地域の西側で、周囲は一面の田圃が広がっている中に一本木神明神社はひっそりと鎮座している。
・所在地 埼玉県比企郡川島町一本木83
・ご祭神 天照大神
・社 格 旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0007255,139.4603359,17z?hl=ja&entry=ttu
上八ッ林氷川神社から埼玉県道74号日高川島線を西行し、「上八ッ林」交差点を右折する。同県道76号鴻巣川島線合流後400m程北上し、十字路を左折すると進行方向右斜め方向に円泉寺、その西隣に一本木神明神社の社叢が見えてくる。
実のところ県道から左折して350m程進んだ民家の間の細い路地を右折すると、社の正面に到着できるのだが、その道は使わずに、その手前150m付近のT字路を右折して道なりに進む。左カーブ上になる農道を暫く進むと、社の後ろ側に到着し、そこの路肩を一時的にお借りして急ぎ参拝を開始した。
一本木神明神社正面
鳥居の左側に立つ社号標柱
境内左側に聳え立つご神木の銀杏の木(写真左・右)
ご神木の根本付近に祀られている富士塚
「埼玉の神社」によると、富士嶽神社」「一本木村社中」と刻む石碑は、元来は氏子の松本政雄家の敷地内に富士向き(東向き)に祀られていたものが、昭和の初めごろに移されてきたといわれている。
拝 殿
神明神社 川島町一本木八三(一本木字神明町)
一本木の地名は、村内を東西に通過する街道の村外れ(北園部との境)の道脇にかつてそびえていた榎の大木に由来するという。
この街道は、大宮から上尾の平方を経て東松山に至る古い道で、当社の鳥居も街道に面しており、ここから参道が始まる。また、古くからの集落も街道に沿ってある。
当社の創建は江戸初期のことであると伝えられる。その背景には、慶長十九年(一六一四)に大神宮様が同じ伊勢国の野上山に飛び移ったという託宣を機に諸国に流行した伊勢踊りの影響が考えられよう。
『風土記稿』一本木村の項には「神明社村の鎮守なり、円泉寺持」と載せられている。これにみえる円泉寺は、入間郡今市村法思寺門徒で、慈眼山と号する真言宗の寺院であり、当社に隣り合って本堂を構えている。
神仏分離により円泉寺の手を離れた当社は、明治四年に村社となった。同三十九年に履屋・拝殿・幣殿を再建し、昭和十二年には本殿を再建した。
なお、現在境内にある富士塚(「富士嶽神社」「一本木村社中」と刻む石碑が建つ)は、元来は氏子の松本政雄家の敷地内に富士向き(東向き)に祀られていたものが、昭和の初めごろに移されてきたといわれている。
「埼玉の神社」より引用
社殿左側に鎮座する合祀社 合祀社の右隣に鎮座する境内社・御嶽社
左から天神宮・稲荷社・愛宕社・八幡宮
社の東側には用水が静かに流れている(写真左・鳥居の左側に用水は流れている。写真右 その拡大写真)。川島町内の社にはこのように「水」との関わりが深い。古来、蛇は水神の化身とされ、主祭神の素戔嗚尊がその蛇(八岐大蛇)を退治した神話に因り、水を治める神とされた氷川神社が多いのはこの為であろうか。
川島町は県内のほぼ中央に位置し、四方を荒川(東)、越辺川・都幾川(西)、入間川(南)、市野川(北)と5本の河川に囲まれた輪中となっている。北側で市野川を境に東松山市、吉見町に接し、東側で荒川を境に北本市、桶川市、上尾市に接し、南側で入間川を境に坂戸市に接している。地名のとおり「川に囲まれた島」のような地形となっている。
荒川や荒川系河川の流域であることから町内は荒川低地となっており、立地を生かした農業が盛んで田園地帯が広がっている。勿論、近代的な建物も多く建てられている場所も随所にあるが、全体的にのんびりとした昔懐かしい風景がそこかしこに垣間見られるこの地域での社散策は充実感もあり、楽しい時間を過ごすことができた。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「川島町HP」「Wikipedia」等