古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長沼八幡宮


        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市長沼町231
             
・ご祭神 誉田別命(第15代応神天皇)
             
・社 格 旧長沼村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭(元旦) 節分祭 2月上旬 春季例祭 43
                  
水神祭 7月中旬 例大祭 1017日 秋葉祭 1123
 国道462号線を本庄市街地から北上し、利根川に架かる「坂東大橋」を渡り、群馬県に入る。その後、「八斗島町」交差点の先にある信号のある十字路を右折し、1㎞程東行したのち、十字路を左折する。暫く道なりに進み、韮川に架かる「八幡橋」のすぐ先に長沼八幡宮は鎮座している。
        
                  
長沼八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「長沼村」の解説
 下道寺(げどうじ)村の南にあり、北方を韮(にら)川が東流する。西は八斗島(やつたじま)村、南に武蔵国児玉郡上仁手村(現埼玉県本庄市)があり、南東部は烏川に面する。寛文二年(一六六二)以降は利根川(のちの七分川)が地内を貫流していた。中世には首切(くびきれ)沼という河跡沼があったが、のち長沼と改めたという。明暦年間(一六五五―五八)川南の地五六町余を開発、向長沼(むこうながぬま)と称したという(伊勢崎風土記)。
        
           鳥居を過ぎた参道右側に設置されている案内板
 長沼八幡宮は康平5年(1062年)に源頼義が奥州平定のおり、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をし、後鳥羽天皇の建久6年(1195)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると社殿を造営した。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住み、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。その後時代が下るなかで、郷土鎮護の神として氏子の方々に崇敬されたという。
 創建当初は長沼邑字四ツ矢に鎮座していたのだが、天明3年(1783)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座したとの事だ。
 
     参道を進んだ左側にある神楽殿     参道を挟んで神楽殿の向かい側にある手水舎
        
                    拝 殿
 八幡宮由緒書
 祭神 誉田別命(第十五代応神天皇)
 当社の創建は、後冷泉天皇の御代、康平五年(一〇六二)源頼義が奥州鎮定の途中、山城国石清水八幡宮の御分霊を祀り戦勝祈願した地といわれ、後鳥羽天皇の建久六年(一一九五)、源頼朝家臣大江広元の庶子掃部輔那波政広がこの地の領主となると神威を畏み社殿を造営したと伝わる。その後、藤原秀郷六代の足利太郎兼行(渕名太夫)の子長沼太夫孝綱がこの地に住むに当たり、社殿を修復して郷民の安泰を祈願した。さらに、正親町天皇の天正十一年(一五八三)皆川山城守広照が長沼城を築いたときに社殿の大修理が行われ、皆川氏滅亡の後は、郷土鎮護の神として崇敬されることとなった。
 当社はかつて長沼村字四つ矢という地に鎮座していたが、天明三年(一七八三)の浅間山大噴火による利根川洪水のため土地流失し、現在の地に遷座された。
 明治八年(一八七五)に村社となり、同四十一年(一九〇八)に字八幡道下の八幡宮(分社)を合祀し、大正三年(一九一四)には社殿の回収が行われた。
 昭和四十七年(一九七二)には社殿、神楽殿、水舎の回収と鳥居、社務所が新築され、同六十二年(一九八七)に境内社秋葉神社の遷座祭が斎行され今日に至る。
 八幡道下の遺跡には、明治十二年(一八七九)に産土神と神武天皇陵の遙拝所として、天明の大洪水で流れついた溶岩により築かれた養気山がある。住民の敬神崇祖融和団結の象徴として今日までその遺風は守られ、昭和五十四年(一九七九)十一月三日には創築百年祭が盛大に執り行われた。傍らにには、速秋津姫命を祀った水神宮の小祠があり、水神祭はここで斎行される。
 祭日
 一月  一日  歳旦祭
 二月  上旬  節分祭
 四月  三日  春季例祭
 七月  中旬  水神祭
 十月 十七日  例大祭
 十一月二十三日 秋葉祭
 境内社
 秋葉神社 火産霊命
 稲荷神社 宇迦之御魂命
 飯玉神社 宇気母智命
 熊野神社 櫛御気野命
 伊 宮   大日孁命
                                    境内案内板より引用
        
             拝殿向拝部等を飾る彫刻は江戸時代の名匠河内守弥勒寺音八の作
 河内守弥勒寺音八(音次郎ともいう)は旧長沼村の出身で、天保14年京都白川王殿に謁し、弥勒寺河内守の称を授けられたという。透し彫りの名人で、晩年郷土の安泰を祈願し、畢境の妙技を凝らして竜の透し彫を作り、八幡宮に奉納したという。
        
       拝殿正面に掲げる「八幡宮」の奉額は、幕末の書家三井親和の筆墨
                  厳然たる風格が漂う。
       
                    本 殿

 社殿左側奥に祀られている境内社・秋葉神社    秋葉神社の奥に祀られている石祠四基
秋葉神社の左側並びの建物は物置となっていた。        詳細は不明。
       
             石祠四基の並びに祀られている大黒天
       
                   境内の様子 
 長沼八幡宮の鎮座する地から1㎞程南側に「養気山」と呼ばれる溶岩に覆われている高さ8m程の築山がある。この溶岩は天明3年(1783)の浅間山大噴火で噴出した溶岩をこの地に集めてできた小山ということのようだが、この公園は「養気山公園」というそうだが、八幡宮外苑という別名を持っていて、嘗て長沼八幡宮が鎮座していた地であるといわれている。氏子の方々もこの「養気山」に対する崇敬の念は今でも健在で、毎年春季例祭において、「養気山」の参拝を欠かさず行っているという。



参考資料「日本歴史地名大系」「境内案内板」等 

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