古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

稲子諏訪神社

 『羽生市HP 羽生昔がたり』
 ネネゴ
 稲子の東はずれに「ネネゴ」といわれる淋しい所があります
 むかし、そう二百六十年も昔のおはなしです
 その年は、どうしたことか雨が多くくる日もくる日も雨が降っていました。そしてついに八月十日午前二時ネネゴの奥の土手が百八十メートルも切れてしまいました。村中の人々が力を合わせ土手の修理にかかるのですが水の勢いは少しも弱くならず、トウトウと家・田・畑を押し流していくのです。どうしても切所がふさがらないので、昔からのいい伝え通り「女の人柱をたてねば駄目だ」という事になってしまいました
 丁度その様な時、何もしらない「おたまさん」は赤坊を背負って「ネンネンヨー」とあやしながら、なかなかふさがらない切所を見にやって来たのです。それを見つけた村人達は、「それっ」とばかり泣きわめき、暴れ叫ぶおたまさんを捕まえて、赤坊を背負ったまま切所に投げこんでしまいました
切所はふさがりました。水も引きました……。
 でも、そこには、夜な夜な恐ろしいほど悲しげな、うらめしげな女の声が聞こえる様になりました。
 「ネンネンヨー」「ネンネンヨー」……。
 人々は恐ろしがって、この辺りを「ネネゴ(*赤ちゃんのこと)」と呼び、あまり近寄らなくなってしまいました。そばにはいつだれが建てたのか、「ガキ(*子供のこと)つか」という石塚がポツンとあったそうですが、今はもうどこにも見当たりません。
 このような悲しい昔話のある稲子地域に鎮座する稲子諏訪神社は、古くは明神様と呼ばれ、ネンネコ伝説のある旧境内地にあったイネゴ塚(餓鬼塚)と習合し、治水の神として信仰されていたという。
        
              
・所在地 埼玉県羽生市稲子1241
              
・ご祭神 健御名方命
              
・社 格 旧稲子村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
 国道122号線を北上し、埼玉用水路を越えた直後の「別所橋」交差点を右折する。この用水路沿いに東西に伸びた道路を3.5㎞程東行した先の丁字路を左折すると、進行方向左手に綺麗に整備されている稲子諏訪神社が見えてくる。
 
 境内の東側隅にある社号標石から社殿を撮影        稲子諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「稲子村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置する村。「いなこ」は砂の入交じった土の意で、同川沿岸の地味をさすという(埼玉県地名誌)。西は同川堤に沿って上流の本川俣村と接する。利根川岸に河岸があった。検地は承応三年(一六五四)幕府領代官が実施したほか、
新田分につき貞享四年(一六八七)、享保一八年(一七三三)と延享元年(一七四四)にも実施されたといわれる(風土記稿)。田園簿によると田高一三八石余・畑高五一八石余、幕府領、ほかに野銭永一貫六〇〇文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領。同藩領は寛文元年(一六六一)からで宝永元年(一七〇四)上知(「寛政重修諸家譜」など)。
『日本歴史地名大系』 「稲子河岸(いなごがし)」の解説
 江戸時代の稲子村利根川岸にあった河岸。元禄三年(一六九〇)の関東八ヶ国所々御城米運賃改帳(千葉県伊能家文書)によると、江戸まで水路二七里、二分七厘(百姓から六厘足す)が定められている。問屋株は稲子村喜右衛門の持分であったが、寛保二年(一七四二)には同村新助が預り勤めることになった(「稲子河岸場并問屋役預証文」栗原家文書)。安永年間(一七七二―八一)と推定される利根川沿岸絵図(群馬県前橋市立図書館蔵)に問屋としてみえる源右衛門は、前掲新助と同家。近世後期に至ると江戸十組奥川積問屋仲間として江戸小網町二丁目利根川屋多吉の配下となった(文化八年「十組奥川積問屋場所附」東京都立中央図書館蔵)。
        
              綺麗に整備されている境内や社殿
 社殿手前にある「移転授業記念碑」によれば、当社は、国土交通省の利根川堤防拡幅事業により境内地の一部が事業対象となり、移転することが決まり、令和2124日に竣功することとなったという。
        
                    拝 殿
 諏訪神社(みょうじんさま)  羽生市稲子一二四一(稲子字諏訪)
 当所の歴史は利根川決壊との戦いといっても過言ではない。地名の由来についても、昔、堤防の決壊が何度も続き、ついに村の貧しい家の女が人柱にされることとなり、女は赤子を背にして犠牲となった。以来この所に夜な夜な「ネンネンコ、ネンネンコ」の声を聞くといわれ、ネンネコ転じてイナゴとなるという。
 当社の創建もまた治水にかかわる。一説に草分けの諏訪氏(別当大教院先祖)が天正年間この地に来た時、利根の治水を祈請し、生国の氏神を勧請したと伝え、また、一説には寛永年間幕府の代官某がその父祖の地である信州諏訪明神を祀り、治水に功をなすと伝える。 祭神は健御名方命である。
 享保二十年九月九日、卜部兼雄より正一位の神階を受けている。
 造営は社記によると棟木に万治二年七月再建の墨書を見るとあり、現存棟木は延享元年甲子年再建と天保一〇年修復の二枚あり、現在の一間社流造りの本殿は、延享元年のものと思われる。
 旧社地は北に八〇メートルほど利根川寄りであったが、昭和三四年の堤防改修により現在地に移転した。
 明治五年に村社となり、同四〇年には字神明の神明社を合祀した。
 神仏分離以前の本地仏は、二三センチメートルの普賢菩薩の木像であり優れた作である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は、塚原・前稲子・三本木・諏訪・道原の五耕地であり、主に米麦と養蚕を営み、往時から裕福な土地柄であったという。このうち、塚原耕地は昭和三〇年代から他所からの転入があったが、その他の耕地はほとんど移動がないため、高度経済成長期に石尊講・三峰講・榛名講等の代参講などは廃されたが、春日待(327日)・神明様のお祭り(お日待 1015日)には今も、春は草餅、秋はあんびん餅を作ることが行われ、比較的古い習慣が今でも残している地域であるという。
        
        境内から道を隔てた北側に纏めて祀られている石祠・石碑・庚申塔
 前列左から石碑(羽黒山神社・月山神社・湯殿山神社)、石碑(小御嶽神社・浅間神社・邇ゝ藝命)、(?)、庚申塔。中列左から太々御神楽碑、日露戦争戦没記念碑、(?)。後列左から合祀記念碑、石碑(湯殿神社・月山神社・出羽神社)、(?)。
        
                   社殿左側に祀られている境内社・石祠
「埼玉の神社」には移転前の境内図が載せられているが、移転後は配置が変わっているので、詳細は不明であるが、それでも左から二番目は稲荷大明神、4番目は石碑(天満宮・伊奈利神社)。
        
                  現在の境内の様子
          社号標柱の左側に置かれている石2ケは力石と思われる。
 また孤高の如き屹立する松の位置と、グーグルマップの過去の画像を確認すると、以前の社殿と参道はこの松の左側にある道路と思われ、その先にある土手手前に社殿が鎮座していたと思われる。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP」「埼玉の神社」
    「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内記念碑文」等
 

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