西五十子大寄諏訪神社
鎌倉時代正和3年(1314)の「関東下知状」では、武蔵国本庄内生子屋敷を巡って、本庄左衛門太郎国房と由良八郎頼久が争ったという。ここに記されている「本庄内生子屋敷」の詳細は分かっていないが、当時の本庄地区が北堀と栗崎付近を中心とした地域といわれていることから、隣接地である「五十子」もその候補地に含まれていたかもしれない。
またこの史料は「本庄」地名が資料に初めて登場した例で、本庄左衛門太郎国房も児玉党・本庄氏の武士で、五十子の地も児玉党・本庄氏の重要な所領の一地域だった可能性もある。
「本庄市の地名」を引用
・所在地 埼玉県本庄市西五十子647
・ご祭神 建御名方神 菅原道真(天満宮)
・社 格 旧指定村社
・例 祭 祈念祭 2月第3日曜日 夏祭 7月15日
例大祭 10月第3日曜日 新嘗祭 12月第2日曜日
西五十子大寄諏訪神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに600m程進むと、東五十子若電神社が鎮座する地に到着する。そのまま進む続け、JR高崎線の踏切を通過し、北泉保育所を過ぎると左手に西五十子大寄諏訪神社の社叢と社の看板が見える。
社の西側から南側にかけて囲むように本庄総合公園や多目的グランドがあり、そこの駐車場の一角に停める。東側にある「多目的グランド」北に隣接する「わんぱーく」脇にある道沿いにすすむと左手に社叢並びに鳥居が見えてくるので、そちらからのアプローチをお奨めする。
西五十子大寄諏訪神社 正面鳥居
正面東側は「わんぱーく」という子供達の遊び場があり、まるで社が子供たちを守り、その成長を暖かく見守っているかのような位置関係だ。
鳥居の右側には社号標柱あり 社号標柱の右脇には御手長神社と秋葉神社が鎮座
鳥居のすぐ右側にはご神木が聳え立つ(写真左・右)
案内板
大寄諏訪神社 御由緒 本庄市西五十子六四七
□御縁起(歴史)
当社の由緒は、社伝によると天慶二年(九三九)常陸国(茨城県) を占拠した平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で、信州諏訪の地から出陣した大祝貞継が五十子に陣をかまえ、この地に諏訪大社のご分霊をお祀りしたことによる。平将門の乱後、下野・武蔵国の国府の長官となった藤原秀郷は、神社の社殿を整え、新田を寄進した。
寛正年中(一四六〇- 六六)、室町幕府鎌倉府の上杉兵部太輔房顕が社殿を再興する。
天正十八年(一五九〇)、信州(長野県)諏訪大社の当主であった諏訪小太郎頼忠は、徳川家康から領地を与えられた際に、当社の由緒をただした社殿を修繕し、修験の理聖院に仕事をまかせた。その後、明治維新の際に、理聖院は復職して、諏訪大角と名乗り、当社の神職となった。
昭和三年(一九二八) 本殿改築、幣殿拝殿新築。平成十五年に手水舎、平成十六年に社務所新築。平成十九年墓地を新設し、分譲をはじめている。
なお、境内に「学問の神様」である菅原道真公をお祀りする天満宮もあり、広く信仰をあつめている。
案内板より引用
綺麗に整備されている参道
参道途中には手水舎 手水舎の先にある神楽殿
拝 殿
案内板に記されている上杉兵部太輔房顕が社殿を再興した寛正年中は、「享徳の乱」といわれる古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いの最中であり、関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に五十子陣を構え築いた頃に必勝祈願の為、この社を再興したと考えられる。
拝殿向拝部(写真上)、木鼻部位(写真下左・右)の彫刻が素晴らしい。
この五十子地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は3~7mになる。
拝殿に掲げてある扁額
鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る。古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。
東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。
境内社 天満宮
金鑽神社 蚕養神社
社殿の右側にある合祀群。詳細不明 合祀社の隣には二宮神社が鎮座
「いかこ」という地名の由来としては、洪水の起こりやすい平地、低湿地帯を意味するという他に、江戸時代の古語用例集である『雅言集覧(がげんしゅうらん)』や幕末から明治期にでた近代的国語辞書である『和訓琹(わくんのしおり)』等に、「五十日をイカと読むのは、子生まれて50日目に祝事となる為」とあり、『源氏物語』にも見える。
この社が鎮座する地に隣接し、このようなお子様たちが楽しめる空間を設けた理由として、もし行政側がこの「五十子」の歴史的な地名由来を理解して、意図してこの地に作ったものであるならば、かなり歴史に深く精通された方々の存在を感じざるを得ない。