吉田林日枝神社
吉田林地域の中央部は児玉町市街地と生野山に挟まれた南北に細長い地域で、昔は荒れ地で小山川(旧身馴川)の氾濫源の一部だった可能性がある。北部の水田地帯は九郷用水を引水し、江戸時代にはこの九郷用水組合22ヶ村に含まれる村であった。吉田林地域北部の水田地帯は児玉条里に含まれるが、度々の氾濫により条里区画は大きく乱れている。
吉田林という地名は「きたばやし」と読み、珍しい地名の一つだ。古代における郷名「黄田郷」(『和名抄』)から当てる説もあったが、『和名抄』の異本には「草田郷」とあり、本庄市教育委員会の発掘調査で、草田郷の銘文のある紡錘車が出土したことから、黄田郷は草田郷の写し間違いで、吉田林の名は黄田郷に由来するとは言えなくなった。或いは吉田林地域は児玉の北部に位置し、小山川の氾濫原の一部と考えれば「吉田=きた」は「北」で、北の林を意味する地名かもしれない。
・所在地 埼玉県本庄市児玉町吉田林字山王山925
・ご祭神 羽山戶神
・社 格 旧指定村社
・例 祭 新年祭 1月31日 春祭り 4月10日 秋祭り 10月15日
新嘗祭 12月10日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1954711,139.1386354,18z?hl=ja&entry=ttu
吉田林日枝神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折し、国道254号線に合流、北西方向に進路をとる。1㎞程進み、「児玉教育会館(南)交差点を左折し、最初のT字路をまた左折する。道幅の狭い道路で、上り坂ではあり、民家等はないが、対向車には気を付けながら150m程進むと、左手に吉田林日枝神社の小さな木製鳥居が見えてくる。
鳥居を越えてから進行方向に対して左手に、社の境内に通じる道があり、その道を進んだすぐ右側に駐車可能なスペースも確保されていて、そこに停めてから参拝を行う。
吉田林日枝神社正面
駐車スペースから参道正面まで、一旦西方向に階段を下り、改めて参拝を行う。吉田林日枝神社が鎮座する場所は、生野山の低山を含む残丘が西側に広がり、その西端部に位置するため、正面参道から社殿まで、なだらかな上り坂斜面が続く。
一の鳥居からの参道の眺め。意外と長い。
上り坂の階段の奥に二の鳥居が見える。
二の鳥居
二の鳥居の右側に設置された案内板
日枝神社 御由緒
□御縁起(歴史) 本庄市児玉町吉田林九二五
吉田林は、『和名抄』に見える黄田郷の遺称地といわれる。
当社は、吉田林の東南端、生野山丘陵の西斜面上に鎮座する。『児玉郡誌』には「当社初め御年社と称す、創立は後冷泉天皇の御宇、治暦二年(一〇六六) なりと云ひ伝ふ、一説に児玉党支族宮田某の勧請なりとも云ふ、その後永禄年間(一五五八-七〇) に至り、八幡山の雉岡城の神将山口修理亮盛幸、該城守護のために近江国日枝山(比叡山)より山王権現を遷して御年社に合祀し、是より日吉大権現と称せり、社領は山口修理より神田若干を寄附し、その後地頭菅沼氏より屡神田を寄進せられたり」と記される。御年(歳)社は、『延喜式』神名帳に、大和国(奈良県)葛上郡に二社が見え、特に葛城御年社は従一位の名神大社であった。
当地に御年社が勧請された経緯は不明であるが、城跡から見ると当社は北東の方向に鎮座しており、後に城の鬼門除けとして山王権現が合祀されたのであろう。
『風土記稿』吉田林村の項には「山王社 村の鎮守にて西養寺の持、社内に東照宮及び諏訪を祀れり、末社八幡三島」とある。
明治初年の神仏分離により、当社は別当西養寺を離れて、村社となった。一間社春日造りの本殿は、延享三年(一七四六)の再建で、外宇は明治二十二年の改築である。内陣には、青と赤に彩色された雄雌一対の石製猿像(高さ一六センチメートル)が奉安されている。
□御祭神 羽山戶神(はやまど)…五穀豊穣、健康良運
案内板より引用
ところで「吉田林」の地名は中世まで全く史料に見られない。今日の吉田林地域は中世初期においては、独立した児玉党系の「氏」を擁する地域ではなく、おそらく八幡山地区と一体をなす「児玉庄」の中核域として、「庄氏」の領有内に含まれていて、中世後半以降に吉田林として分村したのではないかと思われる。
というのも、天正18年(1590)後北條氏が滅亡し、その後徳川家康が関東に入国、家臣の松平家清が一万石で八幡山城(雉岡城)主になるが、翌年天正19年(1591)にこの松平氏の所領を示す資料「武州之内御縄打取帳」に「八幡山・児玉・金屋・長興(沖)・保木野・宮内・飯倉・高柳・塩野屋(谷)・沼上」等の地名は見られるが、「吉田林」は載っていない。
その後松平氏は慶長6年(1601)三河に転封し、短期間幕府直轄領の期間を経て、旗本戸田氏、大名山口氏に与えられている。山口氏は大久保忠隣の事件に連座し失脚、また暫し幕府直轄領となり、小菅氏が代官となり、その支配下となっていた。下真下の関根家には書簡があり、小菅氏は下真下村と吉田林村に所領がある事が記載されていて、そこで初めて「吉田林」という地名が登場する。
二の鳥居から更に階段を上り、登りきった先に南北に広い境内が広がる。
拝殿覆屋
拝殿に掲げてある「日枝神社」の扁額 拝殿の左側に鎮座する境内社・八幡神社
日枝神社 春・秋まつり 吉田林獅子舞
日枝神社の春・秋の祭典の行事として吉田林獅子舞(市指定文化財)が奉納されます。
江戸時代の中頃、この地域に日照りや干ばつが続き作物がとれず、村に悪い病気が流行して多くの人が亡くなるなどしました。この惨状を見た当時の殿様が、悪霊払いのため獅子頭3頭を奉納したことに始まり、その後、獅子舞が行われてきたと伝えられています。
現在、獅子舞は春と秋の祭典で舞われています。
本庄市観光協会公式HPより引用
八幡神社の左隣には境内社・八坂神社 八坂神社の北側奥には社務所がある。
等の石祠が鎮座する。
八坂神社の左側にある「記念碑」 記念碑の奥にある「富士浅間大神」
「小御嶽大神」の石碑
社殿の奥に並んで鎮座する末社群の石祠 こちらは社殿の右側に並ぶ末社群の石祠
社殿の右隣に聳え立つご神木
一の鳥居の左側にある石碑。「藤池碑」か。
吉田林地域は、北部の水田地帯には「九郷用水」を利用して水田の生産に充てていたが、それ以外の南部の水田は天水による溜池灌漑であった。そのため溜池も多く存在していて、地域内の小字にも「鼠池・松池・藤池・女池」等その名残りが残っている。現在残っているのは「朝鮮池」のみで、松池・藤池・女池は埋め立てられて消滅、鼠池は所在すら解っていない。
藤池は日枝神社に藤池碑が立っている。これによれば、池の名前の由来は、池辺には紫色の藤が多くあったからと記されている。身馴川の水が地下を通って、この藤池で湧水となり、枯れることなく用水に利用できたという。
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「本庄市観光協会公式HP」
「Wikipedia」「境内案内板」等