古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宮内若宮神社

 本庄市(旧児玉町)宮内は金屋地区の西部に位置し、神川町二ノ宮と境を接している。宮内の大半は山地と谷間の谷戸田よりなり、東部にかけて児玉丘陵が続いている。宮内地区から現在の女堀川(旧赤根川)が流れ、東部塩谷地内へ流れる。集落は女堀川の両側の平場と丘陵部の両側に広がっている。北寄りで女堀川に沿って国道462号線が東西に通っている
 宮内の名の由来は、神社の存在から来ているといわれている。宮内地区内の小字天田には若宮神社が鎮座しており、その隣町の二ノ宮は旧金鑽村と云い、延喜式にもその名が見られる金鑽神社がある。この金鑽神社の東部国道わきには元森神社があり、金鑽神社の元の鎮座地とも言われている。金鑽神社は現在地に移るまでに、三度程移転しているといわれており、宮内地区の若宮神社も旧鎮座地ではないかと考えられている
 宮内の地名が歴史上始めて確認されるのは、暦応3年(1340)の安保光阿(光泰)譲状(『安保文書』)で、「児玉郡植松名内宮内郷」と見える。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町宮内1010
            ・ご祭神 田心姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 17日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                 新嘗祭 1210日

 宮内若宮神社は旧児玉町宮内地区に鎮座する。途中までの経路は塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を神川町方向に2㎞程進み、児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折する。200m程南下し、T字路を右折すると正面にのぼり幟ポールが見え、すぐ右側に宮内若宮神社が見えてくる。
 駐車スペースは、社の正面鳥居の道を隔てた反対側に数台駐車可能な空間が確保されており、そこの一角に停めてから参拝を行った。
        
                                                       宮内若宮神社正面

 児玉郡宮内村(児玉町)は暦応三年安保文書に児玉郡枝松名内宮内郷と見え、児玉党宮内氏は児玉郡宮内村より起こる。武蔵七党系図に「塩谷平五大夫家遠―太郎経遠―児玉二郎経光(奥州合戦討死)―四郎経高―宮内太郎左衛門経氏―児玉新三郎信経(弟に六郎光氏、七郎忠氏)―三郎光信(弟太郎光経)」と記載され、宮内氏は塩谷一族から分家した一族ということになる。塩谷地区と宮内地区は距離的にも近く、同じ一族というのも頷けるというものだ。
 若宮神社の創建年代等は不詳の事だが、当地は金鑚神社の旧地だとも伝えられ、また「若宮」の社号は、田心姫命が武蔵国二ノ宮金鑽神社の大神の娘であることによると云い、田心姫命が父神と喧嘩した時の云々から、当地では椿を植えることが禁忌という伝承もあり、金鑚神社と関わりの深い神社で、古くより鎮座しているものと思われる。
 
     宮内若宮神社 朱色の両部鳥居         鳥居の左側にある案内板

若宮神社  児玉町宮内一〇一〇
▢御縁起

宮内は、武蔵七党丹党の一族である安保氏の所領として既に南北朝期の文書にその名が見え、古くは若泉荘に属し、江戸時代には児玉郡八幡山領のうちであった。一方、天正十九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)よれば村柄(生産力の高さ)は「上之郷」と評価され、地味に恵まれた土地であったことがわかる。
当社は、この宮内の鎮守としてられて祀られてきた神社であり、『風土記稿』宮内村の項にも「若宮明神社 村の鎮守也、遍照寺持」として記されている。祭神は田心姫命で、「若宮」の社号は、この神が武蔵国二宮の金鑚神社の大神の娘であることによるものという。また、当社の鎮座地付近を「天田」というが、この地名については、昔、田心姫命が父神と喧嘩をした時、父神が椿の校を手に「このアマダ、アマダ」と打ちかかりながら田心姫命を追いかけて当地までやって来たことに由来するとの言い伝えがある。したがって、当社の氏子の間では椿を植えることが禁忌とされ、もし植えると神の怒りに触れて疫病がはやるとか、植えた家は身が立たないなどといわれている。
更に、『明細帳』には由緒として享保十三年(一七二八) 二月に正一位の神位を受けたこと、明治五年に村社となったこと、明治四十年に字滝前の六所神社を合祀したことが載る。
御祭神 田心姫命…厄災除け、五穀豊穣
                                      案内板より引用
       
               鳥居の先左側に聳え立つご神木
 
      参道左側に立つ社日神            社日の隣にある謎の石組
五穀豊穣を願う日本の社に比較的多い五角形の碑。
        
                                     拝 殿

 ところで本庄市児玉町宮内地区には、古くから『雨乞屋台』と言われる民話・伝説が存在する。宮内若宮神社にも関連する昔話である。

雨乞屋台
千年も前のこと。平安の時代、阿久原に牧があり、京から来た別当がいた。任期を終えた別当は京に帰ったが、時代が変わり扱いがひどく居場所がないので、阿久原に戻り、ここを一族の拠点とすることにした。息子の若宮の家をつくり、そこを宮内として開墾に精を出した。
ところが、先住の大蛇(ながむし)の一族が反対し、邪魔をするので難儀した。そこで若宮と別当は、尊敬する田心姫の力を借りることにした。田心姫は天下り、協力を約束した。金鑽様も面会に来たというその美しさには大蛇族も歯が立たず、和睦を模索した。そして、開発に協力するが、田心姫を大蛇族の司と結婚させてほしいと申し入れた。若宮たちは撥ねつけようとしたが、姫は笑顔で、術を比べて、天より持ち来た小さな手箱に入る術を司が示せば、結婚を承知しましょう、と言った。大蛇族は思わぬ朗報に夜通しのお祝いとなった。
あくる朝、姫への誠意と、美男子の司はただ一人指定の沼のほとりへ来、さっそく身を縮める術をもって、姫の手箱に入って見せた。しかしこれは計略で、姫は手箱に鍵をかけると、若宮に手箱を沼に放り入れさせてしまった。さらには、これは天の神の作戦であり、沼を埋め立てよ、と言う。
大蛇族は司が沼に沈んだのは神をおそれなかった結果仕方がないとしたが、せめて日照りのときは司の霊を呼び戻し雨を降らせるから、埋めるのは許してほしいと懇願した。そこで池を埋めるのをやめ、その周りを息をつかずに七まわり半できたら姿を現し司の霊を慰めよう、と田心姫は約束し、天へ帰ったという。
時代は過ぎ江戸のこと。大日照りが続いた。大蛇の話は皆したが、司の霊を呼び戻す方法が分からなかった。そこである年寄が、大八車に大蛇の姿を作って載せ、手箱池の周りを回ったらどうか、と思い付き、そのようにした。それで雨が降ったらお礼に若宮様へ雨乞屋台を奉納しよう、と。
そうして池を五回も回るともう雨が降り出し、大八車も操れぬほどになり、空だった手箱池も、たちまち道まで水浸しになった。村人たちはすぐに雨乞屋台を作り若宮に納めたという。今も御宝蔵にある雨乞屋台はこうした何百年もの物語を秘めて出番を待っている。

*児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会 『児玉郡・本庄市のむかしばなし 続』参照

 「雨乞屋台」と同じ昔話が「児玉風土記」にもあり、昔「てばこ」と呼ばれる小さい池があり、てばこ池(手箱池)の水が満ちた時に、池の周りを左回りに7回半、息をしないで回ると美しいお姫様が池から現れると言い伝えられていた。しかし実際には息をしないで7回半回れる人はいなかった為、お姫様を見ることはなかったようだ。
 本庄市児玉町宮内に鎮座される若宮神社と想定される「雨乞屋台」という民話。社の南方向には溜池のような池が沢山あるが、手箱池がどこに該当するか、そもそも現存するのかも不明だ。
 
  社殿左側で、謎の石組の隣にある石碑      社殿の隣に鎮座する境内社。詳細不明。
         
                    境内の様子

 風土記の昔の神話に近いフィクションの類と言ってしまえばそれまでの話だが、話の内容はかなり複雑であり、要約すると、大蛇(ながむし)という先住一族との抗争、そして和議と見せかけた姑息な計略でその民族を討伐する、なかなか辛辣な出来事である。今はまだこの話が正しく古代の何かを伝えるものなのか否かは断定できないが「大蛇族」というのは同児玉の南東に行って秋山(秋平)の方にも見え、一概に否定できないようにも感じる。


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「安保文書」「本庄の地名② 児玉地域編」「児玉郡・本庄市のむかしばなし 続」等                

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