下阿久原有氏神社
古代、児玉郡大寄郷若泉庄の阿久原(現・神川町の南部)には官営牧場があり、朝廷よりの派遣官人、つまり阿久原の別当(管理者)として惟行は赴任して来た。当時は有道 遠峰 維行(ありみち・こだま・これゆき)と称した(後に児玉惟行と呼ばれる)。しかし、任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化したと伝えられている。
尚この下阿久原地域は、宮内若宮神社でも紹介した『雨乞屋台』で紹介した昔話にも「別当が赴任した場所」として出てきており、何かしら関連性もあるようである。
・所在地 埼玉県児玉郡神川町下阿久原34
・ご祭神 有道惟行(ありみちこれゆき)
・社 格 不明
・例 祭 盤台祭り 11月19日
下阿久原有氏神社は神川町下阿久原地区北部に鎮座する。国道462号線と埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線が交差する「新宿」交差点を左折し、神流川に沿って南下する。その後22号は神流川西側方向に移動し、同線は埼玉県道・群馬県道289号矢納浄法寺線となるが、そのまま600m程南下すると進行方向右側に下阿久原有氏神社のこんもりとした社叢と案内板が見えてくる。
下阿久原有氏神社 社叢風景
規模は大きくないが、境内は綺麗で、こじんまりと纏まっている印象。
県道沿いにある「有氏神社の舞台祭り」の看板 案内板詳細
有氏神社の盤台祭り
所在地 埼玉県児玉郡神泉村(現神川町)下阿久原三十四番地 有氏神社
指定 平成四年三月十一日 埼玉県指定無形民俗文化財
有氏神社は、武蔵七党の一つである児玉党の祖、有道惟行(ありみちこれゆき)をまつると伝えられている。地元では、有氏は有道の転訛であるといい、祭りを称して「アリッツァマの祭り」とか「裸祭り」とも呼んでいる。この祭りは正徳三年(一七一三)に始まったとされ、 祭日は陰暦九月二十九日であったが、現在は十一月十九日に行われている。
祭りの特色は、氏子が毎年交代で祭り番となり、祭りに関するすべてを行うことにある。(これを頭屋制という)。祭り当日は、頭屋宅で赤飯(小豆飯)とシトギ(水で浸しておいた粳米を臼でついたもの)を作り、赤飯は大きな盤台に盛り付けておく。準備が終わると、神官を先頭に神社に行き、社前で祭典を執り行う。
祭典後、氏子たちはふんどし姿になって盤台を高々と持ち上げ、「上げろ、下げろ」の掛け声も勇ましく神輿のようにもんで境内を練りながら、盤台の中の赤飯を四方八方に撒き散らす。参詣者は争ってこの赤飯を受け取り、オミゴクと称していただく。この間、四、五分の短い時間であり、赤飯をまき尽すと、手じめをして祭りは終わる。
なお、この赤飯を食べるとその年の災厄からのがれることができ、お産は安産ですむという。このため、この祭りは安産祈願、子孫繁栄、疫病退散のお祭りだと云われている。
案内板より引用
県道より奥の場所にある木製の鳥居
鳥居の右脇には「県指定文化財有氏神社盤台行事」の標柱あり。
下阿久原有氏神社から南西方向1㎞程の場所には上阿久原地区があり、そこに丹生神社が鎮座しているが、嘗てこの区域近郊の台地上の場所には、児玉氏の祖であった児玉惟行の居館があったといわれていて、その館址は「政所」と呼ばれている。
上阿久原は、中世の阿久原郷に含まれ、その郷内には阿久原牧があった。阿久原牧(阿久原牧跡は埼玉県指定旧跡)とは、承平三年(933年)四月に勅旨をもって官牧となった国有の牧場で、武蔵七党児玉党の祖・有道惟行(ありみちこれゆき)が別当(管理責任者)として赴任した。
惟行は平安時代後期、朝廷よりの派遣官人としての任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化し武将として、武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する児玉党(武士団)となる。尚児玉党本宗家は3代目児玉家行(惟行の孫)以後、庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。
惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
拝殿というべきか、本殿ともいえる小さな社。
破風部位には,児玉氏特有の「軍配団扇」紋があしらわれている。
お社を中心にして境内社、石碑等が横一列に並べられている。社の右側には「有氏神祠碑」があり(写真左)、明治26年建立の石碑。左側には境内社や石祠が鎮座(同右)している。左端にある「大貴己命」の石碑以外は詳細不明。
社のほぼ正面にある紙垂等が巻かれていたであろう石柱
石神の類だろうか。
社から道路側にある「有道氏の祖廟」の看板
有道氏の祖廟
武蔵野の開拓者、さらには、関東武士の元祖、として有名を馳せた児玉党の開祖である有道一族の祖廟は、詳らかでない。しかれども、有道惟行が朝廷の命により長官を勤めた阿久原の牧近くには、有道氏を祭る有氏明神があり、古くより地域の住民によりお祀りされている。日本古来の宗教観では、先祖霊や特別な功績を上げ尊敬される人々の霊を人格神として祭るのが自然である。阿久原地区には、古くより「有氏明神に隣接した北の位置にありし古い石塔を東北に移転した際に、人骨が発掘されこれは阿久原牧時代の有道氏一族の墓であろう」との言い伝えがあり、しかも、「有氏神社には御神体が存在しない」などのことより、有氏神社は、有道氏一族の霊域(墓地)に祠を建て、祭り始めたものであり、古くは霊域の重要な位置を占めたと推定される有氏明神に隣接した東北部の畑の中にある古石塔(地下に眠る遺骨)こそ有氏明神の御神体であるとの説がある。この石塔は、児玉党もしくは近在の有道氏一族の関係者によって、室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定されるが、品格の高い見事な石塔である。
今回、古石塔及び周辺土地の管理者であり、長年に渡り秩父瀬地域住民の中心となって有氏神社をお祀りしてきた児玉党の流れを汲む浅見家21代当主新一氏のご尽力により、古石塔が整備復元されたことは、惟行生誕1000年を迎えるにあたり、誠に意味有るものといえよう。今後児玉党並びに有道氏に関係する方々はもとより、その恩恵を受けている地域の方々は、時に参拝し、武蔵野の開拓と土地生産性に基盤を置いた武家政治の確立に貢献した先祖の方々の往時を偲び、明日への活力としていただければ幸いである。
平成14年正月 記 児玉党末裔
案内板より引用
室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定される「石塔」
参考資料 「神川町 HP(県指定の文化財)」「Wikipedia」等