古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

塩谷諏訪神社

 旧児玉町塩谷地域は、嘗ては児玉郡塩谷村と云い、承久記に「しほのや」、紀州熊野那智山米良文書に「児玉の在所の御名字の事、しをのや」、天正十九年武州之内御縄打取帳に塩野屋、高柳村長泉寺寛文七年文書に塩野谷村と見える。
 また建武三年十二月十一日安保文書に「領地武蔵国枝松名内塩谷田在家」、暦応三年正月二十四日安保文書に「児玉郡枝松名内宮内郷事(児玉町)・児玉郡枝松名内塩谷郷事」とあり、塩谷村及び隣村の宮内村は枝松名と称していた。また埼玉郡長野村長久寺所蔵の明応七年七月二十五日大般若経奥書には「武州児玉郡塩谷郷阿那志村円福寺書写之(美里町)」とあり。此地は枝松名塩谷村とかなり遠方であり、塩谷郷は相当広い範囲を唱えていたらしい。
*埼玉苗字辞典を参照
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町塩谷599
             
・ご祭神 八坂刀賣命・建御名方命
             
・社 格 旧指定村社
             
・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 630日 例祭 1015
                  
新嘗祭 1215

 塩谷諏訪神社は旧児玉町西側・塩谷地区に鎮座する。旧児玉町駅前通りを西方向に進み、国道462号線との合流地点である「児玉駅入り口」交差点を左折、すぐ先に右折する地点もあるが、国道沿いに2㎞程直進すると左側に小高い丘が見え、その斜面上に塩谷諏訪神社は鎮座している。
 国道沿いに専用駐車場も設置されており、そこには数台分停められる。旧児玉町・塩谷地区は、児玉党塩谷氏の本貫地でもあるため、厳かな気持ちで参拝を行う。
         
               斜面上に鎮座する塩谷諏訪神社 
鳥居前で一礼、石段を仰ぎ見ると社殿が見える。    石段を登ると平地面に変わる。
                           参道の先に社殿が見える。

 児玉党塩谷氏は、武蔵七党系図に「児玉武蔵権守家行―塩谷平五大夫家遠―塩谷太郎経遠―小太郎高光―右衛門尉弘忠。○経遠の弟五郎維弘(奥州合戦討死)―三郎維盛(建暦乱和田一味〆被誅。弟五郎維定)―太郎維光(建暦三年五月二日父同討死)、弟三郎盛信―新三郎茂信(弟家綱出家、義行)。○維弘の弟民部大夫六郎家経(承久三年六月十四日関東方ト〆於宇治川流死、七十一)―太郎左衛門尉家朝(弟に左兵衛尉家範、四郎盛家、五郎経盛)―新左衛門尉定朝、弟刑部左衛門尉家氏―太郎盛家―刑部左衛門尉時家(弟又太郎家忠)―太郎家重(弟五郎貞家)。○家朝の弟五郎経盛(承久賞近江国中条拝領)―六郎経直(弟光経)―中条六郎太郎経村―又太郎宗実」と見え、この塩谷地域を本貫地としてきた一族である。
 不思議と系図を見ると、塩谷家経(承久三年六月十四日関東方ト〆於宇治川流死、七十一)塩谷経遠、塩谷維弘(通称五郎、奥州合戦で戦死)、塩谷家経(民部大夫、承久の乱で溺死)でも分かる通り、武功よりも勇ましい戦死や、戦闘中の溺死等が目立つ一族である。
        
                                     拝 殿
 
    拝殿に掲げてある「諏訪神社」の扁額     拝殿左脇に「塩谷家遠略伝」の案内板あり。

 塩谷家遠略伝 金屋村役場
 塩谷家遠は児玉党の祖・家弘の弟にあたり、児玉党の勇者である。源平時代(1150年代)、当所に居館をかまえ、以来子孫代々居住していた。館址は昭和18年縣史蹟の指定を受け、昭和28616日指定文化財の標柱を建立した。家遠は守護神として信濃国の諏訪神社に勧請して居館の三方に上下諏訪・稲荷の三社を創立し、一族の安泰を祈願するとともに、居館から当社に至る乗切り馬場を作って馬術を推奨した。現在当社拝殿前から西南にのびる帯状の台地は、当時の馬場の跡をとどめている。
                                      案内板より引用
 
 拝殿手前、左側に鎮座する境内社群(写真左)。左から皇大神宮・榛名神社・手長男神社・八坂神社の石祠。また拝殿左側奥にも境内社群(同右)があり、左から稲荷神社・山神神社・八幡神社・天神神社・厳島神社・金王神社の石祠が鎮座している。
        
                                社殿手前右側にある案内板

 諏訪神社 御由緒  本庄市児玉町塩谷五九九
 □御縁起(歴史)
 当社は児玉党塩谷氏の本貫地に鎮座し、祭神は八坂刀賣命・建御名方命である。塩谷氏は児玉庄太夫家弘(児玉党の祖とされる有道遠峯の曾孫)の弟家遠が塩谷平太夫家遠と称したことに始まり、字篠に館を構えたとされる。『吾妻鏡』には塩谷一族の名が散見し、館跡も現存している。
 社伝によると、建久年間(一一九〇~九九)に塩谷氏の祖塩谷平太夫家遠が武神の祖たる信濃国諏訪神社の大神を勧請したという。当社は初め下諏訪神社と称していたが、明治四十年二月七日に字上諏訪の上諏訪神社を合祀したことにより社号を諏訪神社に改めている。また同日に上諏訪神社に祀られていた八幡神社・稲荷神社・天神社、字上ノ台の皇太神社、字篠の厳島神社を境内社として移転した。境内社の天神社には明治四十年四月八日に字天神下の北野神社を合祀し、大正七年六月に社殿を改築した。更に昭和二年十月に字大平(大平山)の阿夫利神社を合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。しかし、現在氏子は「阿夫利神社(大山様)」とのみ呼称している。このほか境内社には手長男神社・山神社・金王神社が祀られている。諏訪神社の社殿は正徳二年(一七一二)に再建され、拝殿は明治二十年に再築、外宇は大正七年に新築された。また、平成四年に社殿・拝殿等の屋根瓦葺き替えを実施している。
 □御祭神 八坂刀賣命・建御名方命
                                      案内板より引用 

      
                        境内に聳え立つご神木

 塩谷諏訪神社の南側には児玉塩谷集会所、また隣接して阿夫利神社が鎮座している。当諏訪神社の境内社にあたる社である。
 
        
                   
阿夫利神社拝殿
 
         阿夫利神社 扁額          社の左側にある「阿夫利神社」石碑

 阿夫利神社
當社ハ古来ヨリ字大平ノ山頂ニ祀レルヲ大正七年諏訪神社境内ニ移轉ス山林九段二畝二十九歩ハ当村大場丈八氏管理ナリシヲ諏訪神社ニ寄進セリ
 昭和四年三月十七日  大字塩谷一同
                                      案内板より引用
        
                      国道沿いに静かに鎮座する社



参考資料 「埼玉苗字辞典」「新編武蔵風土記稿」「本庄市刊行・本庄市(旧児玉町)の地名」「武蔵七党系図」等。 

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