高柳三嶋愛宕神社
昔身馴川(現小山川)に雌雄2匹(もしくは1匹)の大蛇がいて、あたり一帯の沼地を我が物顔に暴れまわっていたのを、征夷大将軍・坂上田村麻呂が成敗した話である。退治した大蛇の骨をこの地に埋めたので、骨畑(骨波田)の名前がついたという。また別説では、大将軍が大蛇を退治した後、辺り一帯に天災や疫病が流行して村人が大変困っていると、どこからか高僧がやって来てお祈りをしたところ、付近の沼地一帯に大蛇の骨が浮かび上がり、沼は大きな波が立った。これを丁寧に供養すると、以後は祟りや天災は無くなったといい、骨波田の由来はこの大蛇の骨と沼地が波立ったことによると云う。どちらの伝説にしても洪水で荒れ狂う身馴川を大蛇に例えた伝説と考えられる。
また近隣には「江ノ浜・虚空蔵尊」という地名もあり、これらも伝説によると云われている。身馴川の傍に入り江があり、江ノ浜と呼ばれているが、ここには昔一本の大きな柳の木があり、大将軍の坂上田村麻呂はこの柳の木に向かって大蛇退治の祈願を行い、願いが叶うならこの柳に桜の花を咲かせてほしいというと、突然暗夜となり振動して、すぐ明るくなると柳は満開の桜が咲いたという。大将軍は喜び、この地に虚空蔵尊を建立して、この地に柳の大木があったことから高柳の虚空蔵尊というようになったという。
因みに「長泉寺」には埼玉県指定天然記念物に指定されている、樹齢約650年の『骨波田の藤』が有名で、東国花の寺百ケ寺、児玉三十三観音霊場第三十一番にもなっている。
・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳138
・ご祭神 大山祇命・火産霊神
・社 格 旧村社
・例 祭 新年祭 1月7日 新穀感謝祭 11月23日 大祓 7月21日、12月29日
高柳地区の大半は山地と丘陵地よりなっていて、南側を小山川が流れており、地区中央を南西方向に県道が通っている。
高柳三嶋愛宕神社は、埼玉県道44号線秩父児玉線を児玉町市街地から元田地区方向へ進む。その後小山川に沿った進行方向となり、右側にはコンビニエンス、左側には「こだま千本桜」と言われる桜並木が並ぶ信号の内交差点から150m程過ぎたT字路を右折し、道なりに進んでいくと正面方向に高台が見え、高柳三嶋愛宕神社の鳥居が見えてくる。
社は高柳公会堂に隣接していて、高台の南側には「観音堂」という寺院があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
高柳三嶋愛宕神社正面鳥居
写真左側には「観音堂」の墓地が並び、その南側に駐車スペースあり。
鳥居の右側にある社号標柱 鳥居を過ぎると拝殿に通じる石段がある。
拝 殿
拝殿の手前左側に設置されている案内板
三嶋愛宕神社 御由緒 本庄市児玉町高柳一三八
□御縁起(歴史)
江戶前期に上野笠懸野(現群馬県新田郡)を開き、寛文元年(一六六一)からは上野・下野・越後国の幕府代官として活躍した岡登景能の生地として知られる高柳は、身馴川(小山川)に沿った細長い形の村である。その地内にある曹洞宗の長泉寺は、文明三年(一四七一)に関東管領上杉顕定が開基となって創立した寺院であるように、室町時代には既に相応の村落を成していたことがうかがえる。
三嶋愛宕神社の名が示すように、当社は三嶋神社と愛宕神社の合殿である。三嶋神社は元々現在の社地に鎮座していた神社で、高柳の上の鎮守として祀られ、『風土記稿』高柳村の項によれば村民の持ちとなっている。一方、愛宕神社は現在の社地からやや東に離れた所に鎮座していた神社で、下の鎮守として崇敬され、『風土記稿』によれば観音寺の持ちとなっている。したがって、この両社は信仰の上では格差はなく、旧社格はいずれも村社であった。
しかし、両社の位置が比較的近かったためであろうか、政府の合祀政策を受けて明治四十年に愛宕神社は三嶋神社に合祀されることになり、これに伴って三嶋神社の社号を三嶋愛宕神社に改めた。更に、この際、愛宕神社の境内社であった稲荷・天手長男の両社及び字川原の社日神社をはじめとする地内の無格社六社を当社の境内に移して末社とした。このような経過を経て、当社は現在の形になったのである。
□御祭神 大山祇命・火産霊神…防火防災 五穀豊穣
案内板より引用
案内板に登場する岡登景能(おかのぼり かげよし、1629年(寛永6年)? - 1688年1月5日(貞享4年12月3日))は、江戸時代前期の武士、通称は次郎兵衛。
武蔵国児玉郡高柳村(現在の埼玉県本庄市)の農家白井家に生まれ、岡上家の養子となる。養父景親の跡をついで幕府代官となり、1668年(寛文8年)足尾の銅山奉行をかねる。越後国魚沼郡、上野国新田郡笠懸野などの用水路整備や開墾に尽力した。用水路建設の費用に年貢米を流用してしまったなどの理由により江戸に召喚され、その道中の1688年1月5日(貞享4年12月3日)、駕籠の中で切腹し死去した。通称は次郎兵衛。上野笠懸野の用水路は今でも岡上用水と呼ばれている。景能の苗字は「岡上」であるが、通称「岡登」の苗字で言及されることもある。
社殿の右側、丘陵地斜面手前に並んで鎮座する社日神等の石祠群。
景能は貞享元年より上州新田郡へ本拠地を移し、自刃する同四年迄居住し、妻子は生家の高柳村へ帰郷したようだ。武蔵国児玉郡誌に「岡登次郎兵衛景能の妻は武州高柳村斎藤六兵衛の女にして、景能の男八郎兵衛を生む。景能の子八郎兵衛父自刃の後に母と共に生地高柳に帰り来りて住居したるに、明治の初、八代の孫幸作の時に至り家屋を他に売却せりと云ふ、(以下略)」との記載がある。
児玉記考に「旧家岡登幸作、先代を八郎兵衛と通称し、名主役を勤続し苗字帯刀を許されたる旧家なり」と見えるように、その子孫はこの地に根を下ろして代々酒造業を営んでいたという。
石祠群の並びに聳え立つご神木
風土記稿高柳村条に「那賀郡駒絹村の民友七所蔵の文書に、吉橋和泉、弟高柳因幡守と見え、且つ吉橋氏は永禄元亀の頃、信玄に属し、近郷の戦に屡々功ありしかば、榛沢郡の内大塚、賀美郡の内長浜にて、十貫文づゝの地を宛てられし事もあれば、舎弟高柳因幡守も当村に住し、在名をもて氏とせしにや」と記載されている。
また駒衣村吉橋文書に「天正五丑年十月九日、村岡河内守分、両人に出置候、早々罷移、彼本領可致知行候、右之足軽其外同心衆の家まで、村岡より可請取之者也、吉橋和泉殿、和泉弟高柳因幡守殿、(北条氏邦印判状)」と見え、吉橋氏は、児玉郡高柳村を所領として高柳氏を称し、木部村(那賀郡木部村)に屋敷を構えたらしい。
社殿から鳥居方向を撮影
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等