古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

普済寺愛宕神社

 深谷市(旧岡部町)普済寺地域は、櫛挽(くしびき)台地から利根川沖積低地への漸移地帯に位置し、『日本歴史地名大系』での 「普済寺村」の解説によれば、東は岡部村で、村の中央を中山道が通っている。また、「風土記稿」にはもと岡部村に含まれ、のち分村した時に曹洞宗普済寺の寺号を村名とした。
『新編武蔵風土記稿 普済寺村』
「古へは岡部村に属せしが、後年代詳ならず分村せしとき、村内にある寺號をもて村名となせりと云」
 なお、地域名「普済寺」は、当地にある普済寺の寺伝によると建久二年(一一九一)に岡部六弥太忠澄が栄朝を招請して創建、忠澄の法号を寺名にしたとされている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市普済寺1536
             ・ご祭神 火産霊命
             ・社 格 旧村社(明治59月村社申立済)
             ・例祭等 夏祭り 724
 国道17号線を深谷市街地を越えて、旧岡部市街地方向に進み、「普済寺」交差点を左折、そのままJR高崎線に達する「学校通り踏切」の手前で進行方向右手に普済寺愛宕神社は鎮座している。愛宕神社の基壇部となっている古墳は、愛宕山古墳または前原愛宕山古墳と呼ばれ、137m・高さ5.5mの方墳というが、塚の可能性もあるという。古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられている。
 この古墳は、1983年(昭和58年)920日付けで岡部町(当時)指定史跡に指定。2006年(平成18年)11 - (旧)深谷市、岡部町、川本町、花園町が合併し、新たに深谷市となり、同日市の指定史跡となった。
        
                 普済寺愛宕神社正面
        
           鳥居・社号標柱の右側に設置されている案内板
          普済寺愛宕神社の案内板は深谷市と合併前の旧岡部町時代のもので、
                            文字は薄れほとんど読めない状態。
 愛宕神社
 創立年代は不明であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く、火防の神として崇敬されたと伝えられている。当社周辺は、往古より火難が多く、住民はこれに苦しみ、広大な山林中唯一の大塚上に愛宕明神を勧請し、火産霊命を祀ったと伝えられている。
 江戸時代にはいると、岡部藩主安部氏は当社を火防の守護神として崇敬し、陰暦七月二十四日は家来に至るまで、肉食・魚食を禁じ、氏子中においても、この日精進祭という神事を行った。
 また、当社が祀られている大塚は、愛宕神社古墳と呼ばれ、町指定文化財となっている。本古墳は、一辺三七メートルの方形をなし、高さ五メートル五○センチを測る。葺石、埴輪の有無は不明であるが、形態からして、古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられる。本古墳は、方墳という特殊な形態を有しているが、この形態の古墳は関東地方においても数少ないものである。
 平成三年三月 埼玉県 岡部町
                                      案内板より引用
        
           一の鳥居のすぐ先にある朱色を基調とした二の鳥居
        
       参道右側にある「愛宕神社再建奉納記念碑」と「狛犬奉納記念碑」
 愛宕神社再建奉納記念碑
 当社の創立年代は不詳であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く火防の神として崇敬されたと伝承されている。従前当社周辺は火災による被害が多く、氏子はこれに苦しみ、普済寺の郷豊かで自然の中でも唯一の此の大塚上に愛宕大明神を勧請し、火産霊命を鎮座された。
「敬神愛郷」いにしえより建立された社殿は、長い年月を経て、雨風を凌ぎ老朽化したため、此度愛宕神社建設委員会を設立し、本殿・拝殿を改築する運びとなり、平成二十五年三月十五日に本殿遷座祭並びに竣工奉祝祭が厳粛なうちに斎行された。大神様の限りない大御心と、愛宕神社にお寄せ戴く氏子の皆様のひとりひとりのお心が一つになり、此の社殿改築事業を進める事が出来た。
 折りしも本年伊勢神宮に於いては、第六十二回式年遷宮が斎行され、同年に当社再建が行われる事は幾重にも喜ばしく、茲に当社の歴史・伝統を後世に伝え、又、本事業にご協力御奉賛賜る多くの氏子・崇敬者・工事関係者各位の御芳名を記し、感謝の誠を捧げ此の記念碑を建立する。
(以下略)
                                                                       奉納紀年碑文より引用
            
              石段上に鎮座する普済寺愛宕神社
             冒頭に説明した通り、古墳の墳頂上に社殿は建つ。
 
  石段の途中に祀られている境内社・石祠群。   左側三基の石祠は不明。右側は皇大神宮
       
                    拝 殿
 愛宕神社  岡部町普済寺一五三六(普済寺字前原)
 当地は、弘化四年(一八四七)の『普済寺縁起』に「岡部の原といえる所は、彼(かの)六弥太と云し武士の旧跡なりと。近代合戦に数万の軍兵討死の有し所にて、人馬の骨をもって塚に築今に古墳余多侍りき」とある。更に、これは宗祇の「なきを問、おかべの原の古塚に秋のしるしの松かせそふく」を載せている。古くから、当地の広野には、多くの古墳が点在し、格別の風情があったのであろう。
 当社が村の鎮守となったのは、江戸初期のことで、中山道沿いに居住していた本村の人々が、南側の岡部野原と呼ばれる雑木林を開墾して新田を開き、火防の神である愛宕大神を祀ったのである。愛宕大神を祀った理由は、本村の家並みがかつて火災に見舞われたことから、分村した人々も村の火防のために、この神を鎮祭したのであると伝える。ちなみに、当社境内には、元禄年間(一六八八〜一七〇四)に建立した庚申塔があり、これには「武刕(州)半沢郡新田村」とあることから、このころには、既に本村から移住した新田村(前廓)の人々の営みがあったことがうかがえる。
 鎮座地は『普済寺縁起』に載る古墳の一つである愛宕塚古墳(古墳後期の方墳)にある。ここは、日ごろから神社景観を保護しようとする氏子の熱意により、適宜(てきぎ)、植林が施されているため、現在、形の良い社(もり)が形成されている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                  社殿からの眺め
 普済寺愛宕神社の夏祭りは724日に行われ、俗に「愛宕精進」と呼ばれる。精進とは、祭事の前に心身を浄めて行いを慎み、肉食を避けて菜食をする事である。
 祭りの起こりは、当社の氏子が村を開発した当初、火災や疫病にならぬように、ひたすら愛宕大明神に祈りを捧げたことに始まる。これには、不浄であるとの理由から女衆は一切参加できないのが例であったという。
        
         境内にある如意輪観音や青面金剛・二十二夜待塔・庚申塔等



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「境内案内板・記念碑文」等
 

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