青山氷川神社
かつて社の境内には、子供六人が抱えるほどの杉の大木があり、神社の目印として村人に親しまれていたが、落雷により枯死してしまった。それでも境内は山の斜面のために樹木も多く、青山全域の総鎮守にふさわしい社の景観を呈していて、また、氏子の方々もこの青山全域の総鎮守としての意識は強く、地内の人々の心の拠り所として崇敬の念は厚い。
ご祭神は健速素戔嗚尊・奇稲田姫尊・大己貴命で、氏子の間では農耕の神として信仰が厚く、「有難い神様」と崇敬している。そのためか、毎年三月十五日に行われる祈年祭は通称を「田起こし」といい、農業が主体であったころは、氏子の各戸ではこの日に変わり物を作って祝ったものであり、豊作を祈る予祝の祭りでもある。
・所在地 埼玉県比企郡小川町青山1312
・ご祭神 健速素戔嗚尊 奇稲田姫尊 大己貴命
・社 格 旧青山村総鎮守
・例祭等 元旦祭 祈年祭 3月15日 例大祭10月15日
新穀感謝祭(新嘗祭) 11月23日
青山愛宕太神社から埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、「青山陸橋(西)」交差点を左折する。その後、小川郵便局の先にある信号を斜め左方向に進路変更し、更に500m程進むと、進行方向左手に青山氷川神社の鳥居が見えてくる。
青山氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「青山村」の解説
槻川を挟んで小川村の南に位置し、南は日影村(現玉川村)。玉川領に属した(風土記稿)。田園簿では田高二五五石余・畑高二二〇石余、ほかに紙舟役永一貫三〇〇文が課せられ、幕府領。元禄郷帳では高七二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本四氏の相給、ほかに円城寺領があった。「風土記稿」成立時にも同じく旗本四氏の相給。検地は寛文八年(一六六八)に行われた(同書)。文化一四年(一八一七)には高七二〇石余、反別は一〇四町九反余、家数二二〇・人数一千一四、うち一〇八軒で紙漉を行っており、前出紙舟役のほかに紙売出役銭一〇二文を納めていた(「村書之控」横川家文書)。
鳥居を過ぎたすぐ左側にある「芭蕉碑」
参道右側に設置されている緑泥石片岩のベンチ
この境内に置かれている石板は「緑泥石片岩」であり、元々は、神社入口の用水路に架かる橋として使われていたものである。昭和58年頃の道路拡張工事に伴い、今ある場所に移して、ベンチとして利用されているという。
境内に設置されている社の森の案内板
小川町指定天然記念物 青山氷川神社の森
昭和六三年二月一四日指定
氷川神社內 氷川神社内
氷川神社內
氷川神社の森は、北向きの斜面の山裾から山腹にかけて広がる、照葉樹林「ふるさとの森」です。この神社林の中にはヤブツバキ・シラカシ・クスノキ・ケヤキの大木や、シロダモ・アラカシ・アオキ等も多く生育しています。参道の入り口にあるヤブツバキは、照葉樹林を象徴する木ですが、樹高八・四メートル、幹の周囲一・七一メートルの大樹で、県内でも珍しいものです。このような大木を保ってきた森は、学術的にも大変価値の高いものです。
森の中のひときわ大きなクスノキは、樹高ニ六メートル、胸高直径一・二九メートル、最大周囲三・四八メートル、枝張り南北一九・ニメートル、東西二四・九メートルを測ります。
平成四年二月一日
小川町教育委員会
案内板より引用
趣のある手水舎 手水舎の先に祀られている天神社
社への石段がかなり急勾配で、所々苔むしているので気をつけて登る。
石段を登り終えたすぐ左手にある稲荷社の石祠 稲荷社の反対側に祀られている氏神
拝 殿
氷川神社(みょうじんさま) 小川町青山一三一二(青山字根木)
青山は、外秩父山地一角、小川盆地のほぼ中央に位置する。地名の青山は、鉄を産する地から名付けられたとする説がある。『地誌青山村』には「鉱山 村ノ南方鉱山、往古何年頃ナリシカ採掘セシコトアリシモ中絶シアリシガ維新ノ後更ニ採掘ヲ試ミタレトモ十分ノ結果ニ至ラズ中途ニシテ廃絶ス今ハ只試掘痕ノ存スルノミ」と載る。また、地内には、鍛冶の神として崇められた愛宕神社(当社に合祀)がかつてあり、その裏山を「神名」という。神名は、俗に「鉄穴」であるということから、やはり採掘とかかわりがある。当地一帯は、外秩父山地を抖擻した修験者が活躍している。各地の鉱山が、山間の知識を十分に蓄積した修験者により発見されていることから、当地の鉱山も在地修験とかかわりがあったことと考えられる。
当社の創建は、社記によると、永享元年(一四二九)で、当初、三峰大明神と号したと伝える。三峰大明神を祀る本社、すなわち現在の三峰神社は、秩父山塊にある標高一一〇〇メートルの大滝村三峰に鎮座している。江戸期は、京都聖護院直末、天台宗本山派修験で、別当観音院が支配している。三峰大明神の勧請は、恐らく在地修験により行われたのであろう。
三峰大明神の史料としては、寛文八年(一六六八)の『武州比企郡青山村御縄打水帳』があり、「田九畝拾八歩 三峰大明神」と記されている。この江戸初期の史料は、比較的早期の三峰信仰を知る上で貴重なものである。
当社の社家である土岐家には、修験関係の許状、補任状が残る。この内、古いものでは、正徳元年(一七一一)の大常院の「袈裟着用許状」、次いで享保九年(一七二四)の青山坊の「僧都補任状」、泉蔵院の「袈裟、貝緒両緒着用許状」などがある。浄学院と号した土岐家に、これら坊・院の許状があるということは、恐らく当社の別当が次々と退転したことを示しているのであろう。
この中で、当社は、享保十年に、社号を「三峰」から「氷川」へ変更している。これは、かつて三峰大明神を祀っていた大常院が退転し、その後、恐らく青山坊か泉蔵院が当社の祭祀に当たるに及び、新たに氷川大明神を勧請したのであろう。これらは、氷川神社とかかわりのある修験であったかもしれない。
土岐家、すなわち浄学院の許状は、宝暦七年(一七五七)以降のものが残されている。浄学院は、本山派修験で、青岩山と号し、西戸村山本坊配下であった。また『風土記稿』には、氷川社の別当が浄学院であることを載せている。浄学院は、明治初年の神仏分離に際し、復飾して神職となった。
「埼玉の神社」より引用
社殿の奥にひときわ高く聳え立つクスノキのご神木(写真左・右)
石段上からの眺め
因みに石段の向かって右側にある建物は神楽殿
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等