古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上中条川北神社

 上中条川北神社が鎮座する「上中条」。「別府」「奈良」等にも同じ趣を感じ、どことなく上古的な印象で、遥かなる歴史を感じずにはいられない地名だ。地名由来には幾つか説があり、「上中条」の本来の名称である「中条」は、条里制によっておこったものとみられ、その遺構もある。条里制とは、大化の改新後しかれたもので、土地を区画するのに、縦の方向を里(り)、横の方向を条(じょう)とし、多くは北から南へ一条、二条・・・と数えた。この条が地名となり残っている説もあったり、武蔵七党横山党、中条氏の在所名で、源頼朝に仕えた法制家・中条家長の出身地とも言われたり、河原党中条氏、私市党中条氏、児玉党中条氏等にもその由来もあり、どれが定説であるか分かっていない。地形的に見てもこの地は荒川扇状地で、古代から人々が定住して開発された地域の一つであることは確かであろう。
 なお、初めは、“中条”であったが、いつの頃からか上中条・下中条の二つに分かれた。下中条は、現在行田市に属する。                                   
        
              ・所在地 埼玉県熊谷市上中条2500
              ・ご祭神 日本武尊、蔵王権現像
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 不明 
 上中条川北神社は埼玉県道303号弥藤吾行田線を妻沼・弥藤吾方面に進み、700m程北上し、T字路を右折する。その後「熊谷上中条簡易郵便局」のあるT字路を右折し、民家と水越別方寺会館の間に上中条川北神社の鳥居が見えてくる。
 水越別方寺会館には道路沿いに車両が数台分駐車できるスペースがあり、そこに停めてから参拝を行う。
              
                    社号標柱
        
                  上中条川北神社正面
        
             60m程の参道が続き、その先の社叢林中に社殿は鎮座する。
 
  参道途中右側に鎮座する境内社。稲荷社か    稲荷社の左手並びには石祠が3基。
        
                                       拝 殿
 川北神社 熊谷市上中条二五〇
 当社は、荒川扇状地にあり、古代から開発された所で、地名の中条は古代の条里制に由来する。『風土記稿』に「蔵王権現社 社領十石五斗、前と同年に(慶安二年・一六四九)付せらる、別当実相院 是も常光院の(天台宗)門徒なり、大塚山昌福寺と号す」とある。
この蔵王権現社が当社であり、社蔵文書の明治三年十二月「吉野神社明細書」に「字川北鎮守吉野神社、社号ハ元蔵王権現ト称来リ候処明治二已年十一月吉野神社ト改正仕候。従来天台宗実相院ニテ別当仕来候処、先般神社御見分ノ節、御出役様へ御伺済ノ上同村秋葉神社神主島田清美方へ奉幣ヲ頼ミ申候」とあり、社号改称と奉仕者変更を知ることができる。なお、島田家は、字荒宿の鎮守秋葉神社の別当を務めてきた当山派修験大学院が復飾したものである。
 神仏分離に伴い、祭神は日本武尊とされたが、内陣には現在も像高七二センチメートルの蔵王権現像が安置され、氏子に権現様と呼ばれて崇敬されている。この像を納める厨子には「宝永第四丁亥暦(一七〇七)九月吉日」の墨書銘がある。
 今日の社号川北神社は、明治四十三年五月二十日の改称であり、『明細帳』に「字荒宿無各社秋葉神社、字吉野無各社八王子社ヲ合祀シ、社号ヲ川北神社ト改称ス」とある。
                                  
「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
        参道右側にある竣功碑        竣功碑の隣には由来碑と思われる石碑あり
                           読み取ることが難しく断念

 上中条川北神社は嘗て「蔵王権現社」と共に「吉野神社」と号していた。中条地域周辺には「吉野」苗字が多い。苗字由来を調べると、成田氏族吉野氏に当たるらしい。
 成田氏族吉野氏は埼玉郡上中条村字吉野より起り、成田系図に「成田太郎助広―五郎助忠(寿永二年義経に従ふ)、弟六郎(彦、吉野三郎)」と見える。字吉野も吉野氏の館が嘗てあった名残として、字名に残っているという。

        

 上中条川北神社から南東方向に直線距離にして700m程に鎮座する三幸神社も上中条地域の鎮守社である。由来書によると、上中条の地内は、差鍋堀という用水を境に二分されており、その北側は、川北、南側は、川南と呼ばれていて、川北神社は文字通り川北地区に鎮守社、三幸神社は川南の鎮守社である。因みに上中条の総鎮守は川南の三幸神社である。
 三幸神社は川南の鎮守として、明治六年に常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性寺持ちの雷電神社の三社を合併し、更にそれを村のほぼ中央にあった女体神社の境内に設立された社である。

 差鍋堀という用水という境が存在するとはいえ、上中条という狭い区域に、川北神社・三幸神社がしっかりと鎮座している。この区域が古代から如何に生産力が高く、定住していた住民も多かった所だったという事なんだろう。


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