根木勝丸稲荷神社
美里町・根木地域は北東方向から東側に流れる志戸川が、支流・天神川と合流する西側に位置し、沼上・阿那志・古郡・十条地域と接している区域で、今は一面長閑な田園風景が広がっている。
嘗て律令制度時期には、根木周辺地域は県指定史跡である十条条里遺跡が存在し、大化の改新の制により実施された班田収受法の遺跡でもある。条里は、古代に行われた地割制度のことで、広い土地を6町(654m)ごとに線を引いて、碁盤の目のように区画し、東西の線を「条」、南北の線を「里」と名付け、それぞれ区画された土地は、「何条」・「何里」で示している。
町内には、条里制に由来すると思われる地名がいくつもあり、南十条、北十条、十条堀(根木)、四条ヶ島(沼上)、十二町(下児玉)、五郎町(北十条)、八反田(南十条)などがあげられる。根木地域にも条里制による区画整理事業を行われていて、当時先進的な場所であるともうかがわせる。
・所在地 埼玉県児玉郡美里町根木337
・ご祭神 軻遇突知命 倉稲魂命 瓊々杵命 木花咲耶姫命
須佐能男命 菅原道真公
・社 格 旧村社
・例祭等 祈年祭 3月17日 例祭 4月15日 大祓祭 7月29日
新嘗祭 10月15日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1920552,139.1822689,17z?hl=ja&entry=ttu
根木勝丸稲荷神社は、埼玉県道75号線熊谷児玉線を美里町、児玉町方向に進み、「関」交差点を左折する。埼玉県道31号線本庄寄居線に変わり、3本目の十字路を右折。暫く道なりに進むと正面にこんもりとした社叢が道を隔てて2か所見える。埼玉県道31号線本庄寄居線を右折して4〜500m程にて、根木勝丸稲荷神社が右側に、嘗て愛宕山という直径30mの円墳の上に鎮座する。 因みに勝丸稲荷神社の南側に隣接した道灌山も古墳であり、名称は山頂に太田道灌供養塔が祀られていることに由来するようだ。
駐車スペースは道路神社側脇に舗装されていない路肩状部があり、そこに車を停めて参拝を行う。
根木勝丸稲荷神社南東の方から撮影
勝丸稲荷神社御由緒 美里町根木三三七
□御縁起(歴史)
当社は、大字根木の集落南端にある「愛宕山」と称する小高い塚に鎮座している。県道本庄・寄居線からは、田畑の中に浮かぶように鎮守の杜が望まれる。
この鎮座地には、元々は無格社の愛宕神社が祀られていたが、明治四十年に字勝丸の村社稲荷神社・字紫渡川の無格社二柱神社・字根木の無格社八坂神社・字向居の無格社菅原神社の四社を合祀の上、社号を勝丸稲荷神社と改めた。
愛宕神社は、口碑によれば、戦の火矢がもとで根木の集落が全焼した際に火防の神として勧請したという。『風土記稿』根木村の項には「愛宕社村の鎮守なり、積蔵寺持」とあり、更に積蔵院は「新義真言宗、栗埼村宥勝寺末、愛宕山地蔵院と号す、本尊地蔵を安ぜり」とあり、その山号から積蔵院の法印が当社の勧請にかかわった可能性が高い。ちなみに、積蔵院は神仏分離により廃寺となった。一方、社名の本になった稲荷神社は『児玉郡誌』に「当社創立年代は詳ならず、古老の口碑に天正十八年(一五九〇)当地の郷士猪俣党の旗下勝丸仁左衛門が稲荷明神の社殿を再興して、深く崇敬したるを以て、後ち勝丸稲荷大明神と称すと云ふ」とあり、『風土記稿』には村持ちの「稲荷社」として載る。従って、明治初年の社格制定の際には、鎮守が村の愛宕神社から稲荷神社に交代したことになる。
案内板より引用
○美里町史による勝丸稲荷神社の由緒
・勝丸稲荷神社
大字根木にあり、倉稲魂命ほか五柱を祀る。創建の年代・由来は不詳であるが、伝えによると天正18年、当地の郷士で猪俣氏の旗本であった勝丸仁左衛門が稲荷神社の社殿を修理して再興したといわれ、勝丸稲荷大明神ともいう。
根木勝丸稲荷神社 鳥居
拝 殿
御嶽大神・三笠山大神・八海山大神を祀る富士山のような塚
良く見ると真ん中のお地蔵様の首部がない。
根木勝丸稲荷神社は、勝丸稲荷神社古墳墳頂に鎮座しているが、路を隔ててほぼ反対側に位置する道潅山古墳で、古墳の名称の「道潅」は、墳頂に太田道灌が祀られていると言われているが、近づいて墳頂に行くことができない程の状況だ。
東西約42.5m、南北約43m、高さ約4.1m、5世紀前半築造の円墳(推定)。道潅山古墳と勝丸稲荷神社古墳のそれぞれの埋葬者は、どのような関係性を持った人物だったのであろうか。
道潅山古墳全景 近隣に位置する2基の古墳。
ところで、勝丸稲荷神社古墳や道灌山古墳の北方600m程に阿那志地区・堂山古墳が存在する。径40m 高5mの円墳で、発掘された周溝や木棺直葬又は粘土槨から推定築造年代は5世紀中旬~後半と言われ、勝丸稲荷神社古墳や道灌山古墳よりは新しいが、古墳の規模は大きくなっている。阿那志にこれだけ大きな古墳が築造された事は、南志渡遺跡の稲作が発展して、さらに人口が養える様になり村落が形成された事を意味するのではなかろうか。
阿那志地区・堂山古墳