大芦氷川神社
昭和30年頃に洪水対策の為、太い鋼管パイル製の橋脚を持つ木製桁の冠水橋が完成するまで橋はなく、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいて、渡船場には1803年(享和3年)頃開設された「大芦の河岸」が併設され、大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。
荒川はこの橋付近を扇端とする扇状地形である「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも呼ばれる)が形成されていて、橋より下流側は縦断勾配1/1000以下の緩やかな流れとなる。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられていて、その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできていて、左岸土手上にある「コスモスアリーナ ふきあげ」ではその時期になると盛大なイベントが開催され、コロナ禍以外の年では多くの客で賑わっている。
・所在地 埼玉県鴻巣市大芦1031
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧大芦村鎮守 旧村社
・例 祭 祈年祭 3月上旬 お獅子様 7月1日 夏祭り 7月18・19日
秋祭り 11月23日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0986363,139.4448734,17z?hl=ja&entry=ttu
大芦氷川神社はJR高崎線吹上駅から直線距離で700m程、南西方向の住宅街に囲まれた中にひっそりと鎮座している。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下、最初の交差点を右折し、埼玉県道307号福田鴻巣線との交点で左折し、県道合流後は荒川・大橋橋方向に進む。「富士電機」の敷地を通り過ぎてから2番目の十字路を左折し、道幅の狭い道を直進すると、T字路にぶつかるが、その左側に大芦氷川神社が鎮座している。県道から左折後、道幅の狭い道を通る時には、対向車量や徒歩の方々には注意しながら、安全に進むように心がけてもらいたい。
適当な駐車場はないので、通行に支障にない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
大芦氷川神社正面
一の鳥居の先には、 一の鳥居の先に設置されている
参道に対して横切るように一般道が通る。 案内板
大芦氷川神社 御由緒 鴻巣市大芦一〇三一
□御緣起(歷史)
当地は元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。また、かって当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えた。村の開発の年代は明らかでないが、慶長十ニ年(一六〇七)十月の「足立郡箕田村内大芦村御検地水帳」(堀ロ家文書)が残る。
当社は大芦村の鎮守として祀られてきた社で、『風土記稿』大蘆村の項には「氷川社 医王寺の持、稲荷社」とある。江戸期に別当であった医王寺は真言宗の寺院で、開山賢秀の没年は明らかでないが、ニ世の僧秀栄は貞享三年(一六八六)に没したという。
当社は『明細帳』によると、明治六年に村社となり、同ニ十八年に本殿を再建し、同四十年には字田向の雷電社、字土橋の稲荷社とその境内社八坂社、字三人野の稲荷社・諏訪社、字新在家の蠶養社・雷電社・神明社、字永川の電電社・大天白社・神明社、字台の浅間社、字中内出の塞神社の計十三社を合祀した。ただし、新在家の雷電社と中内出の塞神社は今も祠がそのまま残されている。
なお、社蔵の算額は嘉永三年(一八五〇)四月に関流の小林要吉郎勝栄一門が奉納したもので、一門は広く大芦、明用、今泉、吹上、和名、登戸、多門寺、箕輪などの各村にわたる四六人で、算法上達祈願を込めたもの である。
□御祭神と御神徳
・素戔嗚尊…災難除け、安産、家内安全
案内板より引用
参道左側には震災記念碑、表忠塔、戦利兵器奉納碑等が並ぶ。
写真左側の震災記念碑は昭和6年9月21日に発生した西埼玉地震に関する碑。 真ん中の日露戦争の表忠碑の上には 戦利品と思われる砲弾が立った状態で飾られている。右側の石碑は日露戦争での戦利兵器奉納ノ記。
清掃等行き届いた清潔感ある参道 参道左手には「大芦氷川神社の算額」案内板あり
鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和三十四年一月十六日指定
大芦氷川神社の算額
算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
この算額は、当初に住む関流(関孝和の流派)の和算家小林要吉郎勝栄一門が嘉永三年四月に、算法上達祈願のためにこの大芦氷川社に奉納した。
大芦・明用・今泉・吹上・和名・登戸・多門寺・箕輪等の各村にわたる一門四六人の連名となっている。
和算は、中国の影響を受けて我が国独得の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。
しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合い、その解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。
参考:嘉永三年(一八五〇) 鴻巣市教育委員会
案内板より引用
二の鳥居前にある手水舎 二の鳥居
拝 殿
鴻巣市内には、地域毎に継承される伝統行事として、「獅子舞」や「棒術」が現代まで継承されている。原馬室獅子舞・棒術は、埼玉県無形民俗文化財に指定されているが、この他にも、大芦、小谷、広田、登戸地区にも獅子舞が伝承されている。
【大芦ささら獅子舞】
・昭和38年4月1日無形民俗文化財指定(市指定56号)
・太鼓、笛、ささらなどの伴奏で舞・踊る獅子舞は多くその伝承を明らかにせず、大芦の場合も300年程前、東吉見辺りより伝授したとされる。村内の斎藤家を家元としつつ、村の寺社の祭りと共に発展し、村人の無病息災と五穀豊穣、さらに国家安泰を祈りながら、今日まで受け継がれてきたとされる。
・登録団体:大芦ささら獅子舞保存会
「鴻巣市公式HP」による記述を引用
本 殿
社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社。 社殿右側に鎮座する境内社・これも稲荷社。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鴻巣市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」等