古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

原島八坂神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市原島262
              
・ご祭神 素盞鳴命
              
・社 格 旧原島村久保ヶ谷戸鎮守
              
・例祭等 謡初 11日 夏祭り 71314日 
                   厄神除け 
726 
 熊谷警察署がある国道407140号線と同国道17号線が交わる「熊谷警察署前」交差点を利根川方向に1.6㎞程北行する。その後、「くまピア入口」交差点を左折、埼玉県道83号熊谷西環状線に合流後、400m程進んだ「くまぴあ」の立看板が見える交差点を左折し、暫く道なりに進むと、進行方向左手奥手に原島八坂神社のこんもりとした社叢林が小さく見えてくる。
        
                 原島八坂神社正面
 ポツンと佇む小さき社。路地を左折した、道幅の狭い道の突き当たりにあり、一面は民家と畑が混在している中に鎮座していて、地元の人々でも氏子以外は参拝することが滅多に無いのではと思われる社である。
 古来、原島には鎮守が三社あり、それぞれ別の廓(村組)の人々によって祀られてきたという。原島八坂神社は旧窪谷戸(現久保ヶ谷戸)の鎮守社で、久保ヶ谷戸の東のはずれに位置している。
             
                           ご神木の如く聳え立つイチョウの大木
        
                    拝 殿
 八坂神社(てんのうさま)  熊谷市原島二六二(原島字久保ヶ谷戸)
 かつて当社は牛頭天王を祀り、「天王社」と呼ばれていたことから現在も「天王様」の通称で親しまれており、鎮座地の字名も当社にちなんで「天王」という。境内は、原島の廓(集落)の一つである久保ヶ谷戸の東のはずれに位置し、その周囲には民家と畑が混在している。今では、境内には樹木はほとんどないが、太平洋戦争が激化するまでは鎮守の杜と呼ぶのにふさわしく、鬱蒼とした杉が林を成し、社殿の脇には「御神木」と呼ばれていた椋榎の大木もあった。しかし、この神木は戦時中、社殿の後方に軍の防空監視哨が設置された時に、監視の妨げになるという理由で伐採され、杉も戦後に枯死してしまった。
 当社は『風土記稿』に「天王社 窪谷戸の鎮守なり」とあるように、創建以来、久保ヶ谷戸の鎮守として祀られている。ただし、だれがいつごろ、どういう経緯で祀ったものなのかということについては、残念ながら何も伝えが残っていない。なお、当社は江戸時代には真言宗の吉祥寺によって管理されており、古風な趣を持った一間社流造りの本殿の中には、そうした神仏習合の名残で牛頭天王画像が納められている。
 明治になると、吉祥寺の管理を離れ、祭神は素盞鳴命、社名は現行の八坂神社に改められた。更に明治十四年には、久保ヶ谷戸の大火で被害を受けた拝殿も氏子の力によって再建された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 氏子の間に伝わる参詣方法は、他の所とは少し違っていて、まず拝殿の正面で一回拝んだ後、社殿を一周してから再度拝むという者である。また、普段はこの所作を一回だけ行うだけであるが、特に強く祈願する必要がある時は、これを何度も繰り返すことになっている。昭和40年頃まで行われていた雹祭り(3・4月の任意の時)・天乞い(夏の日照りが続いた時)・風祭り(9月初めの任意の日)などの際には、氏子全員がこの所作を三回繰り返したという。
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
              

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奴伊奈利神社

「奴稲荷」の通称と共に当社は子育ての神として名高く、地元の熊谷市はもとより、遠くは横浜・本庄・高崎など各地に崇敬者がおり、その霊験はあらかたであるという。
 かつて、当社には、「稲荷様の奴(ご家来)」と称し、病弱な子供は三年とか五年とかの期限を決めてその間月参りを欠かさず行えば必ず丈夫になるといわれ、その期間中は稲荷様に奉仕している印としてもみあげ(当地ではこれを奴と呼ぶ)を伸ばし、満期になるとそれを切って奉納する習慣があった。大東亜戦争以後この習いは廃れてしまったが、奴稲荷の名の起こりとして覚えておきたいものである。
「埼玉の神社」より引用。

        
             
・所在地 埼玉県熊谷市仲町43
             
・ご祭神(主)倉稲魂命 (合)徳川家康公
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 38日 例祭 48日 新嘗祭 128
              
*祭日に関しては『大里郡神社誌』を参照。
 熊谷では老舗の百貨店で、創業から2017年には実に120年を迎えたという八木橋百貨店は、埼玉県内初の百貨店として、また熊谷市内では最大の店舗面積を持つ。まさに地域密着型の百貨店と言って良い。
 この八木橋百貨店の裏手で、熊谷寺に隣接して鎮座しているのが奴伊奈利神社である。
        
                 
奴伊奈利神社二の鳥居
         一の鳥居は隣接している
熊谷寺に近すぎて正面から撮影できず。
         不思議と参道は駐輪所として数多くの自転車が置かれている。
  
 奴伊奈利神社は、熊谷次郎直実の守護神(弥三左衛門稲荷)として、元久2年(1205)熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に創建した。江戸時代には徳川家康より三十石の朱印があり、享保4年(1719)には、正一位の神階を受けている。その後、明治2年(1869)の神仏分離令により熊谷寺から離れ、同じく熊谷寺にあった東照宮を合祀の上、鎌倉町八坂神社境内に遷座したが、明治31年(1898)旧社地である当地に再び遷座し、村杜(明治7年申立)として厚く信仰されるようになったという。
 昔から熊谷三社参りと称して、稲荷木伊奈利(銀座)・高城神社(宮町)・当社の三社を巡拝することが盛んに行われた。現在でも篤信家により行われている。
「埼玉の神社」によると、国道17号号の新道開通によって交通量が激増したため、「交通安全稲荷」として崇められるようになったというのも、自転車置き場として開放されている理由の一つであろうか。
              
             「熊谷奴稲荷大神」と刻まれている石碑
            よく見ると石碑の上の神狐の像の頭部分が無い。
        
                   境内の様子
『新編武蔵風土記稿 熊谷町』
 熊谷寺 稻荷社 熊谷弥三左衛門稻荷と号す。境内の守とす

『大里郡神社誌』
 伊奈利神社  大里郡熊谷町大字熊谷字仲町乙三千五百三十三番地
神社所在地
 大里郡熊谷宿字旅籠町熊谷寺境内にありしを明治二年九月神佛混淆改正に依り東照宮(熊谷寺境内)を合祀して同町大字熊谷字鎌倉町愛宕神社境内に遷座し同七年二月村社申立濟同三十一年字仲町(舊社地)乙三千五百三十三番準市街地百六十九坪を神社地として遷座大正十一年社殿改築の際隣地十二坪四合五勺を增加す
神社名稱
 舊名稱熊谷彌三左衛門稻荷又は奴稻荷大明神と稱せり明治二年九月伊奈利神社と改稱す 崇敬者は今
ほ奴稻荷と通稱す
 
    境内に設置されている趣ある手水舎        奴伊奈利神社の由来等が記された案内板
       
                    拝 殿
 伊奈利神社(やっこいなり)  熊谷市仲町三五一一-二(熊谷字仲町)
 奴稲荷もしくは熊谷弥三左衡門稲荷の名で知られる当社は、市の中央部で、本町に続く商業地域である仲町に鎮座している。仲町は、地内に熊谷直実開山の熊谷(ゆうこく)寺があることで知られ、その近辺は門前町として発展してきたといわれており、当社の境内はこの熊谷寺の山門のそばにある。
 社記によれば、当社の創建は元久二年(一二〇五)で、次のような話が伝えられている。日ごろ稲荷神を深く信仰していた熊谷直実は、戦場で危難に遭っても、必ず熊谷弥三左衛門という武士によって助けられ、勝利を得た。余りの不思議さに直実が弥三左衛門にその素姓を尋ねたところ「吾は汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがため熊谷弥三左衛門と現じける」と言い、忽然と姿を消した。その霊威に感じた直実公は、帰陣の後、祠を熊谷寺境内に設け、これを祀った。当社は弥三左衛門稲荷と呼ばれるようになったという。
 その後、慶長年間(一五九六- 一六一五)に熊谷寺中興幡随意上人が社殿を再建し、享保四年(一七一九)には正一位の神位を受けている。明治に入ると、神仏分離によって熊谷寺の管理を離れ、明治二年に鎌倉町の愛宕神社境内に一旦移転したが、仲町有志の奉賛と協力により、同三十一年には現在の境内が整備され、再び仲町に迎えられ、村社として人々から厚く信仰されるようになった。
                                    「埼玉の神社」を引用
 
                 本殿(写真左・右)
 「埼玉の神社」によると、当社は繁華街にあるため、商売繁盛の神としても古くから信仰されており、とりわけ花柳界の人々から信仰が厚かった。往時は毎月八日が縁日で、旧中山道から拝殿の前までずっと紅白の提灯を付けて、多くの人出があったものであるが、関東大震災の後は街並みが大きく変わったため、縁日は次第に行われなくなったという。
        
                 社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内案内板」等
  

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稲荷木伊奈利神社


        
             
・所在地 埼玉県熊谷市銀座346
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭 315日 秋季例大祭 915
 JR高崎線熊谷駅北口から駅前通りを北上し、歩道橋のある「筑波」交差点を右折、国道17号線を東行すること1.6㎞程にて、「銀座二丁目」交差点に達し、そのまま直進すると、すぐ左手に稲荷木伊奈利神社の入口の門が見えてくる。
 国道沿いに鎮座している社で、専用駐車場等は周囲確認してもなし。社の北側方向にコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
                稲荷木伊奈利神社正面の門
『大里郡神社誌』
 大里郡熊谷町大字熊谷字と通 
 無格社 伊奈利神社
 由緒 創立年月詳ならざるも古老に因るに文明十八年以後に係るものにして寛永元申年八月大洪水の為に社殿流亡同年再建す
        
                                 境内の様子
 商売繁昌・家内安全・交通安全の神として信仰が厚く、氏子だけでなく、市外からの熱心な参詣者もいる。戦前は、花柳界にも「袖引き稲荷」として信仰が厚く、毎日午後三時過ぎになると、芸者衆が縁起を担いで三々五々参詣に来たものであったという。
             
                            境内に聳え立つご神木
 嘗ては、利根川水系の湿地帯で、一面萱原であった当地は、熊谷の宿の中でも中山道から外れた所に当たる為、人家もまばらな農業地域であったという。当時、当社の前を通る道(国道17号線)は、行田街道とか忍街道と呼ばれる小道で、周囲には欅や杉が鬱蒼と茂って昼なお暗く追いはぎさえ出没するほどであった。また、当社の裏は丘となっており、狐や狸の住みかとなっていたともいう。
 ところが、昭和7年に国道17号線が開通すると状況は一変し、街道は立派な幹線道路にかわり、その両側にはたちまち家並みができていくようになる。居住者が増えてきたことにより、今まで属していた筑波町から独立し、その後、東京の銀座にあやかり、銀座と名付け、戦後に戦災から見事に立ち直った結果、銀座という地名にふさわしい街ができつつある。
        
                  稲荷神社らしく朱色の鳥居が数多く奉納されている。
    鳥居の右側には社号標柱があり、「正一位稲荷木伊奈利神社と刻まれている
    それに対して鳥居の扁額には「 稲荷木白髭伊奈利神社 」と表記されている。
 
   こちらも社殿の柱に掛けられている看板(写真左)と、扁額(同右)の表記が違う。

 伊奈利神社(とおかっきいなり)  熊谷市銀座三一四六(熊谷字と通)
 熊谷市街地の一角をなす銀座に鎮守する当社は、稲荷木(とおかつき)伊奈利神社という名で人々に知られている。この「稲荷木」という言葉については、はっきりとした伝えはないが、鎮座地周辺の古称と見られており、当社の創建とも深いかかわりがあると思われる。当社はまた、白鬚伊奈利神社とも呼ばれるが、そのいわれはわからず、祭神も倉稲魂命一柱であり、白鬚神社を合祀した記録もない。
『明細帳』によれば、当社の建立は文明十八年(一四八六)以降のことで、宝永元年(一七〇四)八月、洪水により流失し、同年に再建したと伝えられる。
 明治の初め、無格社となったが、その後、昭和十九年九月に村社に昇格したのもつかの間、翌二十年八月の空襲で街もろとも全焼してしまった。
 太平洋戦争後、奇跡的ともいわれる復興によって、熊谷の街も戦前に劣らないにぎやかさを見せているが、当社の再建もまた、こうした街の復興と歩調を合わせるかのように進められてきた。終戦直後、粗末な仮宮がぽつりと建てられているだけであった境内に、まず、昭和二十五年に社務所が再建され、同二十八年に稲荷神社から現行の伊奈利神社へ社名を改め、同三十四年七月には念願の本殿・拝殿の再建が果たされ同四十七年には鳥居も再建されて現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
「埼玉の神社」によると、「当社はまた、白鬚伊奈利神社とも呼ばれるが、そのいわれはわからず、祭神も倉稲魂命一柱であり、白鬚神社を合祀した記録もない」と載せており、「 稲荷木(とおかき)」の名称由来と共にそのいわれは全く不明だ。
        
                  社殿の向かって右側に祀られている境内社・八坂神社
               中に子供神輿を安置している。
 当社の氏子区域は、現在の銀座一・二・三丁目と高山町・住吉町・末広二丁目・銀八・熊谷団地の八区域で、氏子数は1600戸。これらの地域は、崇敬の念が厚い土地柄で、秋季例大祭や初詣には大勢の人出があり、毎年7月に行われる熊谷市最大のお祭りである「うちわ祭り」には銀座区として屋台と神輿を出している。
 熊谷在住の筆者にとって「うちわ祭り」は「荒川の花火大会」と共に熊谷市の最大のイベントだ。この祭りが近づくにつれて気持ちの高揚は抑えきれない。
        
                               社殿からの境内の一風景
        
      社の北側、道路沿いに設置されている「山車建造寄付者芳名」の掲示板
 山車建造寄付者芳名
 盛夏の熊谷が燃える八坂神社大祭うちわ祭りは、八ヶ町・石原本石を中心とした十二基の山車・屋台の巡行が圧巻であり、近時く関東一の祇園の呼称も内外に定着した。当銀座区は、大正十三年制作の屋台にてこの盛儀に参画していたのであったが、七十年の星霜は、屋台の老朽化を招き、新調は刻下の急務とされたのである。時あたかも平成五年、明けて年番を迎えるにあたり、山車新造の声澎湃として興り、区民挙げて浄財を寄せる議を決し、爾来一年計画は無事進捗し遂に完成に至った。ここに賛同各位の協力を多とし、地区の発展と祭文化の継承を期しつつ、芳名を刻し永く顕彰する次第である。
 平成六年六月二十七日(以下略)
                                      掲示板より引用


参考資料「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
        

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揚井白髭神社

 熊谷市揚井地域。この地域名「揚井」は、「やぎい」と読み、なかなかの難解地名の一つでもあろう。
 九条家延喜式裏文書・大里郡条里坪付に「楊井里、楊師里、楊田里、物部里」の地名があり、また明治6年和田村と原新田が合併したさい、新しく村名を『和名抄』に載っているこの地方の郷名“楊井郷”にちなんでつけられた。但し『和名抄』には「也木井」との註も載せている。
 当社は揚井地域の中でも南部の和田地区に属し、旧和田村鎮守社で、旧村一帯を一望できる小高い丘陵の一画に鎮座している。因みに旧和田村は、中央部を東西に流れる「和田川」の河川名の由来となっている。
 この楊井という地名は、嘗ての大里郡に所属されていた郡家(ぐうけ)郷・余戸(あまるるべ)郷・市田(いちた)郷と共に4つの郷の内の1つである楊井郷に由来するという説と共に、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である『武蔵七党』の一つである「私市(きさい・きさいち)」党に属した「楊井氏」によるともいう。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市楊井3
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧和田村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 12日 祈年祭 228日 春季例大祭 45
                                      
秋季大祭 1016日 新嘗祭 1128
 岡諏訪神社や妙安寺・上岡馬頭観音のある「上岡」交差点のある国道407号線を熊谷方面に1.4㎞程進み、「森林公園北口入口」のすぐ先にある丁字路を左折し、その後500m程道なりに西行すると、進行方向右側に揚井白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                                
揚井白髭神社正面
『日本歴史地名大系 』「和田村」の解説
 大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、一部は比企丘陵にまたがる。村の中央を和田川が東流し、西は原新田など。用水は丘陵を刻む小さな谷頭に築かれた五つの溜池を利用(郡村誌)。中世は和田郷に含まれていたとみられ、同郷は和田川流域に比定される。嘉慶三年(一三八九)二月三日の官宣旨(浄光明寺文書)によれば、北朝は「男衾郡内和田郷」を鎌倉浄光明寺の一円不輸の地とし、伊勢大神宮の役夫工米などの臨時公役を免除している。
『日本歴史地名大系』「原新田村」の解説
 大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、北は平塚新田、南は男衾郡野原村(現江南町)。名主園右衛門の先祖五郎兵衛が開発した新田で、元禄(一六八八〜一七〇四)の改では無高であったが、享保一八年(一七三三)の検地で高入れされた。
       
       鳥居の左側に建つ社号標柱    鳥居の右側には社の案内板が設置されている。
        
             鳥居の先で参道左側には庚申塔、及び青面金剛がある。
               庚申塔の奥に見える自治会館
        
                    社は揚井を一望できる丘陵上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 和田村』には「神明社 薬師寺持、天神社 常照寺持、白髭社 村の鎮守、持同じ」と三社を載せ、このうち当社が村の鎮守であった。江戸期の史料としては、宝暦七年(1757)に神祇管領から献じられた「白鬚大明神」の幣帛、「奉建立時天明五歳乙巳(1785)仲春大吉祥日 常正(照)現住宥範代当邑氏子中 大工村岡邑新井弥七造」と記される棟札がある。
        
    緩やかな上り坂の石段、途中踊り場を数カ所確認しながらその先の社殿に向かう。
       
                                      拝 殿
 白髭神社
 熊谷市揚井地区(旧揚井村)は、明治六年(一八七三)に和田村と原新田が合併し『和名抄』に記載された「揚井郷」の名称から旧村名となりました。揚井を一望できる丘陵上に「白髭神社」は鎮座しています。
 明治時代に編集された江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「白髭社」の名称が記されています。宝暦七年(一七五七)に献呈された「白鬚(髭)大明神」の幣帛があるほか、天明五年(一七八五)に村岡村の大区棟梁の新井弥七によって建立されたことを記す棟札が残されています。神社裏手には「目代坂」という字名があり、かつて和田氏を名乗る武将の館が所在していたと伝わっています。
 滋賀県高島市の白髭神社を総本社としている白髭神社は、明治時代の神仏分離令により旧常照寺の管理から離れ、明治七年(一八七四)に村社となりました。明治時代後半には、境内地に天満宮が合祀されています。また一方で、日高の高麗神社の祭神「若宮」に対する信仰から「白髭」の名が冠されたという伝承もあります。
 社名については、境内門の「髭」、社殿の「鬚」をはじめ、他に「髯」と刻まれる箇所があるなど標記の使い分けに興味深い点が見られます。
 白髭神社の祭神の一つである「猿田彦命」は、日本神話上の伝説から「導きの神」として信仰を受けています。祭礼では、無事安泰な日常生活へと導かれるように祈願され、年間を通じて各種の神事が行われています。
 白髭神社は、揚井地区の郷土文化や民俗信仰を現代に伝える貴重な歴史遺産として人々の崇敬を集めています。
 令和二年十一月  吉岡学校区連絡会
                                     社頭案内板より引用
 
 祭神である猿田彦命は“導きの神”といわれている。これは、猿田彦命が、天孫降臨の時に、皇孫を天八衢(あめのやちまた)にお迎えし、筑紫の日向の高千穂の槵觸(くしふる)の峰にお導き申し、更に皇孫は天鈿女命に送られて伊勢に至ったとの故事に基づくものである。
 因みに『天八衢』は「高天原(天)にある多くの分かれ道」、「天にあって、八方に通じている分かれ道」、「天にあって、分かれ道が多数集まっているところ」などと解釈されていている。
 なお『明細帳』には神楽殿があったことが記されており、嘗て春等の祭りには神楽の奉納もされていたのであろう。
       
            拝殿に隣接して祀られている境内社・天満宮
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 小名 目白坂 村の北なり、此邊布目瓦など掘出すことありと云、土人當所古へ和田一黨の住し地ならんといへど、たしかなることはしらず、
 神明社 藥師寺持、
 天神社 常照寺持、
 白髭社 村の鎭守 持同じ、
 藥師寺 禪宗曹洞宗、男衾郡野原村文殊寺末、光明山と號す、本尊藥師、
 常照寺 新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院末、彌陀山と號す、本尊地藏寺室に惠心の描し、彌陀一軸を藏せり、

       
            社殿の左側奥にひっそりと祀られている神明社

 揚井白髭神社の境内には「瀬戸山古墳群」またの名称を「楊井古墳群」と呼ばれている古墳群が存在している。この神明社の奥にも墳丘らしきふくらみが見られ、古墳と推測されている。
 この古墳群は、和田川と和田吉野川に挟まれた吉岡台地の東縁部緩斜面上、標高3235mに位置する。昭和34年(1959)から52年にかけて、円墳六基・前方後円墳一基が調査されている。円墳は径1032mで、主体部は凝灰質砂岩の切石を使用した胴張りもしくは直線胴の横穴式石室で、瀬戸山一号墳からは杏葉・雲珠が出土したという。
因みに、
『大里郡神社誌』において、所在地は「大里郡吉岡村大字揚井字瀬戸山に古より鎭座す」と載せている。この地は、歴史ある「瀬戸山」の地であるのだ。
        
                社殿から正面鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「熊谷Web博物館」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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田木小田原神社

 田木小田原神社は前面一帯に広がる水田を見守るかのように祀られている。社名は、「小田原」すなわち平野部の湿田に坐す神を表すと考えられる、恐らく平野部を耕地として開くに当り、その成就を願って慈眼寺境内に祀られ、その後鎮守として崇敬されるようになると、現在地が鎮座地として選ばれたのであろう。『明細帳』で祭神を国土経営の神である大己貴命としているのは、そうした経緯を物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市田木662
             
・ご祭神 大己貴命
             
・社 格 旧田木村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 421日 例祭 1017
                                    報告祭 1221
 毛塚神明神社の北側を東西方向に走る「並木通り」に一旦戻り、西行すること約700m。「田木」交差点を右折しすぐ先にあるY字路を右方向に進むと、田木小田原神社の赤い鳥居が進行方向左手に見えてくる。
 実はこのY字路を左方向に進むと、社の背後付近に広い空間があり、駐車スペースにも思えたのだが、看板等もなく、個人所有の土地とも思えたので、鳥居の近くに路駐し、急遽参拝を行った。
        
                 
田木小田原神社正面
     社は越辺川の高坂台地の南斜面にあり、越辺川の左岸低地を見守るように鎮座している。
『日本歴史地名大系』 「田木村」の解説
 [現在地名]東松山市田木・桜山台・白山台・旗立台・松風台
 毛塚村の西、越辺川の左岸に位置し、村域は同川に沿う自然堤防・低地から高坂台地の南斜面にかけて展開する。岩殿丘陵・高坂台地からの水を集める急流九十九川が東部を南流し、越辺川に入る。九十九川のタキ(滝)が地名の由来であろうか。
 松山領に属した(風土記稿)。田園簿によると田高二二四石余・畑高一九三石余、旗本横田次郎兵衛(述松)家・同横田甚右衛門(胤松)家の相給。元禄一一年(一六九八)述松領は旗本三間領となる。翌一二年当村名主孫左衛門などが地頭会所へ提出した訴状(久保田家文書)によると、旧地頭横田氏は名主に対して伝馬を貸与し、名主免三町は諸役一切御免であった。
 
石段を上り終えた境内左手にある社号標と手水鉢  境内に植えられている招霊(おがたま)の木
 因みに、オガタマノキ(招霊木)は、モクレン科モクレン属に属する常緑高木の一種である。和名は、招霊(おきたま)が転じて「オガタマ」になったともされる。
 和名の「オガタマノキ」は、神道思想の「招霊」(おぎたま)から転化したものといわれる。日本神話においては、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際に、天鈿女命がオガタマノキの枝を手にして天岩戸の前で舞ったとされる。神社によく植栽され、神木とされたり、神前に供えられたりする。神楽で使われる神楽鈴は、オガタマノキの果実が裂開して種子が見える状態のものを模しているともいわれている。

        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 田木村』
 小田原明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持、
 慈眼寺 新義眞言宗、入間郡上野村醫王寺末、普門山知勸院と云、本尊不動を安ず、中興の開山を秀榮と云、元祿四年示寂す、
 鍾樓 正徳四年、鑄造の鐘を掛く、


 小田原神社  東松山市田木六六二(田木字宮本)
 社伝によると、当社は寛永三年(一六二六)に観定僧都により地内の真言宗慈眼寺の境内に勧請されたことに始まる。観定僧都とは、慶長年間(一五九六〜一六一五)に慈眼寺を開基した僧である。
 その後、享保十年(一七二五)に至り、自然堤防上の慈眼寺境内から耕地を隔てた高台の現在地に遷座した。
『風土記稿』には「小田原明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、慈眼寺持」と載る。
明治六年に村社となり、同四十一年には字田木山の神明社と字赤城の朝崎稲荷神社の無格社二社を合祀した。神明社は元和年間(一六一五〜二四)に本山派修験の常覚なるものが創建した社と伝える。朝崎稲荷神社は宝暦十四年(一七六四)に妙安寺九世の日定法印が勧請した社と伝え、昭和三十年代に入って旧氏子赤城地区の人々の要望により元地に復している。
 昭和三十三年には、境内林を用材に社殿を改築すると共に鳥居・参道石段の改修を行い、更に氏子の山口実一氏により土地の寄附がなされた社地が広まり、景観は一新した。
 なお、当社境内にある最も古い石造物は、安永七年(一七七八)の手水鉢で、これには「中嶋観音組 田木村講中」と刻まれている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      社殿を横から撮影              境内社・神明社
 祭りに関して、421日に行われる春祭りは、かつて塚越(現坂戸市塚越)の神楽を境内で行っていたため、今でも通称を「お神楽」と呼んでいるという。例祭は、氏子から「お九日(おくんち)」あるいは「お日待」と呼ばれている。12月の報告祭は五穀豊穣に感謝する祭りで、各家から初穂米を集め神前に供えるのが習いであるが、近年は農家の減少に伴い、米の代わりに現金で納める家も多くなっているとのことだ。
        
              一段高い境内から鳥居方向を撮影
        
                 田木小田原神社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「Wikipedia」等


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