古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

妻沼台白山神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市妻沼台331
              
・ご祭神 菊理媛神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
 国道407号線を熊谷警察著から北上し、刀水橋の南に位置する、「登戸」交差点を左折する。埼玉県道45号本庄妻沼線合流後、すぐ先に同276号新島尾島線に分岐する交差点があるが、その手前の細い十字路を右折し、まっすぐ走って行くと左手側に白山神社が見えて来る。
 残念ながら専用駐車場、社務所等は無い。神社脇に路駐し、参拝を急ぎ参拝する。
 
            妻沼台白山神社正面        参道を進むと右側にある「土地改良之碑」

 社の参道は東向きにあるが、行き止まり地点で右側、つまり北側に直角に曲がり、その正面に社殿が鎮座している配置となっている。

「土地改良之碑」
 本地区は妻沼町のほぼ中央北部に位置して東に国道四〇七号を控え北は利根川南に登り戸西は台を隔てて男沼門樋悪水路に囲まれた肥沃な沖積台地で一部陸田を含む畑地より成り受益面積は四十八.二ヘクタールである。此処台若宮耕地は古くより排水の便が悪く圃場は形状不規にして道路が狭曲し常に照れば旱魃降れば堪水の害に悩まされ永く農家経済安定の障碍となる。為に予ねて関係者相集い土地改良の推進協議計画中の処昭和四十六年十月備前島賢順助役の指導により団体営畑地帯総合整備事業に採択され幾多の困難を経て同四十七年十二月土地改良区を設立し工事に着手す。爾来組合員一七〇余が総力を結集し二か年の歳月と一億円の巨費を投し四十九年三月良く此の大事業を完遂し地域発展の基盤が確立されたことは慶びに堪えず。茲に関係各位に深く謝意を表し併せて此の感激を碑に刻し後世に伝える(以下略)。
                                     「碑文」より引用
「土地改良之碑」は決して社と直接的に関係する内容の碑文ではないが、この地域の歴史の一端を垣間見る貴重な歴史的な遺産でもある。境内にはこの碑の他に「開田の碑」もあり、そこにも「大里郡旧男沼村大字台並びに旧妻沼町の一部耕地は粘土質壊土横層である為に降雨には堪水し旱魃には乾枯し」とも記載があり、地域一帯は肥沃な沖積台地にあるのも関わらず、排水の便が悪いため、長年農作業に携わっている方々の苦労を軽減するため、土地改良事業を実施した経緯が刻まれている。
              
                              
南向きの鳥居
               また右前には「塞神」の石碑がある。
        
                                   境内の様子
 妻沼の地は、嘗ては利根川の乱流地帯であった。口碑によると、利根川が繰り返し流れを変えるうちに、上下に同形の大きさの沼が生じ、上に男体様を祀っていたので「男沼」、下に女体様を祀っていたので「女沼」、と称するようになったと云われている。
 一方、妻沼聖天宮の縁起によれば、昔、伊弉諾・伊弉冉の二柱の神の鎮座により、「女沼」・「男沼」と称したという。因みに「女沼」は古い表記であり、その後「目沼」、「妻沼」となったと考えられ、一方「男沼」は「お泥沼(おどろぬま)」が名称が変化したといわれている。
 
また女沼と男沼という二つの沼の間には、「台」と称する微高地が伸びているが、これは利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所であり、妻沼台白山神社が鎮座する周辺地域をいう。

 伝説では、
「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに祀られ、白山社は両社の中間にあって南向きに祀られている」
 と云われている。
 女体様は白髪神社(妻沼1038)、男体様とは男沼天満宮(男沼225)のことと推定される。

 この辺りの神社は、女沼・男沼・利根川など水に対する信仰から生まれたものと見るのが自然と考えられる。
        
                     拝 殿
 白山神社  妻沼町台二七九(台字大明神)
 台は、利根川の自然堤防上にあり、周囲よりやや高い所である。伝説では「昔、妻沼に女体様が、男沼に男体様が住んでおられた。この二神は夫婦神で仲睦まじく、男体様が女体様を訪ねられる時は、女体様が途中にある高台の当地まで出迎えられ、お帰りは見送られて、この高台を休み台に別れを惜しまれていた。それから当地を台と呼ぶようになり、また男体様の社は東向きに、女体様の社は西向きに把られ、当社は両社の中間にあって南向きに祀られている」という。女体様は白髪神社、男体様とは神明社のことであろう。
『風土記稿』は「白山社、蔵王権現社、以上二社、共に村の鎮守にて円満寺持」と載せている。この白山社が当社のことで、蔵王権現社は中島にあり、明治初期に曾登神社と改称し、明治四十一年に当社に合祀している。ちなみに、円満寺は天文三年(一五三四)、僧良栄の創建との伝えがある。
 口碑によると、古くは当社内陣に、青い小さな像が祀られていたが神仏分離調査の折に持ち去られたという。また、本殿の下に大きな石が据えられていて、これが昔の神体であるとも伝えている。
 曾登神社は、当社に合祀され境内に祀られているが、一方、旧地でも権現様と呼んで跡地に社殿を建て、古くからの神像を祀り現在に至っている。この神像は室町初期の作と推定される蔵王権現像である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
              拝殿右側に鎮座する境内社・曾登神社

「熊谷デジタルミュージアムHP」には、熊谷市指定有形文化財である彫刻「蔵王権現像」が紹介されていて、そこには以下のように記載されている。

・所在地 妻沼台
・所有者(管理者) 曽登神社
・時代 室町時代
・法量 像高40.0cm
 檜の寄木造りの立像。かつて妻沼台の白山神社に合祀されていましたが、里人の要請により現在地に移されました。焔髪が逆立ち、振り上げた右手に三鈷杵を持ち、右足をあげた形をしています。色彩はあせていますが、雄渾な作品で、力強さとバランスを供えた優品です。
・指定年月日 昭和34417



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷デジタルミュージアムHP」等

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榎戸伊奈利神社


        
              
・所在地 埼玉県鴻巣市榎戸1127
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧榎戸村鎮守 旧村社
              
・例 祭 春祭り3月中旬 芋っ葉灯籠71718日 新嘗祭 1128
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1059743,139.4435886,19z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号線を旧吹上町市街地方向に進み、「鎌塚(北)」交差点を右折、埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に合流後500m程先の「榛名陸橋(北)」交差点を右折する。元荒川を越える手前で陸橋から左方向に分離する道路を進み、突き当たりを右折。JR高崎線に沿うような道路を350m程進み、踏切のある十字路を過ぎた最初のT字路を右折すると右側に「榎戸集会所」が見え、その東側隣に榎戸伊奈利神社が住宅街の中に隠れるように鎮座している。
 
榎戸集会所の駐車スペースの一角をお借りしてから、参拝を開始する。
        
           南北に伸びる参道、その先には朱色の鳥居あり。
 榎戸地域は旧吹上町の北西部に位置し、東西は500m程、南北800m程の細長い形で形成されており、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。榎戸伊奈利神社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、嘗て民家は全くなく、楢の林が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であったという。
        
                               
榎戸伊奈利神社 正面鳥居
        
                     拝 殿
        
               拝殿の左側に設置されている案内板
伊奈利神社  御由緒 吹上町榎戸一-一
□御縁起(歴史)
町の北西部に位置する榎戸は、元荒川の右岸に広がる農業地域の一角を占めている。当社は、その中央部を通る中山道の街道から北に少し離れた所に鎮座しており、昭和二十年代に耕地整理が実施されるまでは、中山道まで一直線に長い参道が続いていた。また、境内の周囲は、今でこそ住宅が建て込んでいるが、かつては民家は全くなく、楢の林、が当社と宝性寺を包み込むように広がる閑静な場所であった。
この榎戸で最も力を持っていた家が、「榎戸の殿様」と称されていた横田家で、かつては当社の祭事の経費の半分は同家が負担していた。横田家は、一三代ほど続いた後、昭和二十年代半ばに絶えてしまったが、当社の参道の脇には同家の墓所があり、町指定文化財になっている。ちなみに『風土記稿』榎戸村の項にも、同家は「旧家半十郎」として載り、「降奥国会津郡」から寛永十一年(一六三四)に当地に来て土着したと記されている。
当社の由緒については、『風土記稿』に「稲荷社 村内の鎮守とす、弁財天社 天満宮」と載る程度で、創建についての詳しい事情は知られていない。しかし、右記のような状況から考えると、社殿の建立や境内の整備についても、横田家が大きくかかわっていたと思われる。また、『風土記稿』には別当についての記載がないが、立地から見て、当社に隣接していた宝性寺が祭祀に関与していた可能性が高い。
□御祭神と御神徳
・倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用

「新編武蔵風土記稿足立郡榎戸村条」には「旧家半十郎、村民にて眼療を業とせり、氏を横田と云ふ。古は陸奥国会津郡の民なりしが、寛永十一年、当所に来りて土着せり。其の家系を閲するに、山内五郎左衛門尉俊綱が後胤にて、俊綱より六代横田兵部大輔俊治、はじめて横田を氏とす。其の子刑部大輔頼俊は又山内を称せり。此の人より六代越中守俊泰の次男を横田左馬助光弘と云ふ。これ半十郎が祖先なり。それより、左馬助長房、左馬助光房、丹波守隆房、安芸、兵庫、善九郎など連綿と記したれど、事跡、年代等すべて詳ならず。たゞ善九郎は天正十八年に流浪せし由見ゆれど、何れに仕へしかは載せず。それより後はすべて伝を失へり。又祖先の持ちしものとて槍一筋を蔵す」と記されている。
        
                 境内社・天神社と辨天社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等

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ブログ記事を新たに再編集いたしました。

ブログ記事を新たに再編集いたしました。


熊谷市内に鎮座する以下の神社を再編集しています。
飯塚太田神社
西城大天獏神社
上奈良豊布都神社
柴八幡神社
上川上伊弉諾神社
上新田諏訪神社
池上古宮神社
御正新田雷電神社
新堀新田八幡神社
久保島大神社
下恩田諏訪神社
高本高城神社
中曽根南市田神社
基本的には記事の内容は変わっていませんが、写真以外で以前参拝当時と現在で変った箇所、内容等には、*点を記してあります。

また名称変更もありまして
・古宮神社⇒「池上」古宮神社
・南市田神社⇒中曽根南市田神社
と「地名」をつけて案内しています。

今後とも宜しくお願いいたします。



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大芦氷川神社

 旧吹上町大芦地域は、元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。『新編武蔵風土記稿』において、「村の広さは、東西十二町餘、南北十五町、東は明用、南は荒川を限り対岸横見郡上砂村、大里郡小八ッ林・玉作の三村界ひ、西も大里郡久下村にて、北は榎戸・吹上の二村なり」と記述され、東西1.3㎞程、南北1.6㎞程のやや縦長の地域である。南側は荒川が境となっているが、一部現在の「大芦橋」付近が突出部となっていて、嘗て当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えたという。
 昭和30年頃に洪水対策の為、太い鋼管パイル製の橋脚を持つ木製桁の冠水橋が完成するまで橋はなく、八王子千人同心道(日光脇往還)に属する「大芦の渡し」と呼ばれる官設の渡船で対岸を結んでいて、渡船場には1803年(享和3年)頃開設された「大芦の河岸」が併設され、大正時代には渡船場の川上側に仮橋が架設されていた。
 荒川はこの橋付近を扇端とする扇状地形である「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも呼ばれる)が形成されていて、橋より下流側は縦断勾配1/1000以下の緩やかな流れとなる。河川敷は左岸(鴻巣市側)に広くとられていて、その広い河川敷を活用した農地の他、運動場や軽飛行機の発着場等のレクリエーション施設がある。毎年秋には左岸堤防(荒川花街道)や河川敷でコスモス祭りが行われ、開花期は行楽客で賑わう。春季はコスモスが植えられていた場所にポピーの花を見ることもできていて、左岸土手上にある「コスモスアリーナ ふきあげ」ではその時期になると盛大なイベントが開催され、コロナ禍以外の年では多くの客で賑わっている。
        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市大芦1031
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧大芦村鎮守 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 3月上旬 お獅子様 71日 夏祭り 71819
                  秋祭り 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0986363,139.4448734,17z?hl=ja&entry=ttu
 大芦氷川神社はJR高崎線吹上駅から直線距離で700m程、南西方向の住宅街に囲まれた中にひっそりと鎮座している。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下、最初の交差点を右折し、埼玉県道307号福田鴻巣線との交点で左折し、県道合流後は荒川・大橋橋方向に進む。「富士電機」の敷地を通り過ぎてから2番目の十字路を左折し、道幅の狭い道を直進すると、T字路にぶつかるが、その左側に大芦氷川神社が鎮座している。県道から左折後、道幅の狭い道を通る時には、対向車量や徒歩の方々には注意しながら、安全に進むように心がけてもらいたい。
 適当な駐車場はないので、通行に支障にない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
        
                           大芦氷川神社正面
 
       一の鳥居の先には、          一の鳥居の先に設置されている
  参道に対して横切るように一般道が通る。           
案内板

 大芦氷川神社 御由緒 鴻巣市大芦一〇三一
 □御緣起(歷史)
 当地は元荒川と荒川に挟まれた低地に位置し、集落は旧河道の自然堤防上にある。また、かって当地南西の荒川には大芦河岸があり、古くから日光脇往還の渡船場としても栄えた。村の開発の年代は明らかでないが、慶長十ニ年(一六〇七)十月の「足立郡箕田村内大芦村御検地水帳」(堀ロ家文書)が残る。
 当社は大芦村の鎮守として祀られてきた社で、『風土記稿』大蘆村の項には「氷川社 医王寺の持、稲荷社」とある。江戸期に別当であった医王寺は真言宗の寺院で、開山賢秀の没年は明らかでないが、ニ世の僧秀栄は貞享三年(一六八六)に没したという。
当社は『明細帳』によると、明治六年に村社となり、同ニ十八年に本殿を再建し、同四十年には字田向の雷電社、字土橋の稲荷社とその境内社八坂社、字三人野の稲荷社・諏訪社、字新在家の蠶養社・雷電社・神明社、字永川の電電社・大天白社・神明社、字台の浅間社、字中内出の塞神社の計十三社を合祀した。ただし、新在家の雷電社と中内出の塞神社は今も祠がそのまま残されている。
 なお、社蔵の算額は嘉永三年(一八五〇)四月に関流の小林要吉郎勝栄一門が奉納したもので、一門は広く大芦、明用、今泉、吹上、和名、登戸、多門寺、箕輪などの各村にわたる四六人で、算法上達祈願を込めたもの である。
 □御祭神と御神徳
 ・素戔嗚尊…災難除け、安産、家内安全
                                      案内板より引用
        
             参道左側には
震災記念碑、表忠塔、戦利兵器奉納碑等が並ぶ。
 写真左側の震災記念碑は昭和6921日に発生した西埼玉地震に関する碑。 真ん中の日露戦争の表忠碑の上には 戦利品と思われる砲弾が立った状態で飾られている。右側の石碑は日露戦争での戦利兵器奉納ノ記。
  
             
     清掃等行き届いた清潔感ある参道         参道左手には「大芦氷川神社の算額」案内板あり

 鴻巣市指定有形文化財(絵画) 昭和三十四年一月十六日指定
 大芦氷川神社の算額
 算額とは、和算家が和算の問題と解答を木版に描き、神社仏閣に奉納したもので絵馬の一種である。
 この算額は、当初に住む関流(関孝和の流派)の和算家小林要吉郎勝栄一門が嘉永三年四月に、算法上達祈願のためにこの大芦氷川社に奉納した。
 大芦・明用・今泉・吹上・和名・登戸・多門寺・箕輪等の各村にわたる一門四六人の連名となっている。
 和算は、中国の影響を受けて我が国独得の高度な発達を遂げた数学である。江戸時代には関孝和らによって研究が深められ、西洋数学と遜色のない水準に達したが、応用技術と結びつかなかったために科学としての研究は深められなかった。
 しかし、地方人士の間で一種の知的競技として難問を出し合い、その解答を算額にして公開することが流行した。算額は、当時の人たちの知的水準の高さの一端を窺い知る貴重な資料でもある。
 参考:嘉永三年(一八五〇) 鴻巣市教育委員会
                                      案内板より引用
 
       二の鳥居前にある手水舎              二の鳥居
        
                     拝 殿
 鴻巣市内には、地域毎に継承される伝統行事として、「獅子舞」や「棒術」が現代まで継承されている。原馬室獅子舞・棒術は、埼玉県無形民俗文化財に指定されているが、この他にも、大芦、小谷、広田、登戸地区にも獅子舞が伝承されている。
【大芦ささら獅子舞】
・昭和3841日無形民俗文化財指定(市指定56) 
太鼓、笛、ささらなどの伴奏で舞・踊る獅子舞は多くその伝承を明らかにせず、大芦の場合も300年程前、東吉見辺りより伝授したとされる。村内の斎藤家を家元としつつ、村の寺社の祭りと共に発展し、村人の無病息災と五穀豊穣、さらに国家安泰を祈りながら、今日まで受け継がれてきたとされる。
登録団体:大芦ささら獅子舞保存会
                             「鴻巣市公式HP」による記述を引用
        
                                   本 殿 
 
   社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社。    社殿右側に鎮座する境内社・これも稲荷社。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鴻巣市公式HP」「Wikipedia」「境内案内板」
       

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前砂氷川社


        
             
・所在地 埼玉県鴻巣市前砂656
             
・ご祭神 素戔嗚尊 稲田姫尊
             
・社 格 旧前砂村鎮守 旧村社
             
・例 祭 春祭り 224日 例大祭 79日 秋祭り 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0948433,139.4606188,17z?hl=ja&entry=ttu
 前砂氷川社は旧吹上町の市街地から東側端部に位置し、一面田園風景が広がる中に静かに鎮座する、正に地域の「鎮守様」である。JR吹上駅(南口)からのルートでは、駅前ロータリーから駅南口通りを南下し、最初の交差点を左折、「花みずき通り」を線路に沿って東方向に進む。その後コスモス通りと交わる十字路を直進、その後旧中山道である埼玉県道365号鎌塚鴻巣線に路線名は変更となるが、そのまま道なりに直進すると、吹上町南部の地域道である「富士見通り」に合流する「前砂」交差点に到着する。この交差点を右折し、荒川の土手方向に進み、2本目の十字路を左折し、突き当たりを再度左折すると前砂氷川社の鳥居がある場所に到着できる。
 
社の東側隣には「前砂町内会館」があり、そこの駐車場の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                                 
前砂氷川社正面
 鴻巣市「前砂」地域は元荒川右岸の自然堤防上に位置している。北側は元荒川の旧河道跡地を公園化した「水辺公園」がその境となり、東側においてJR高崎線以北では元荒川が、西側から南側にかけては荒川(現在は元荒川)の嘗ての流路跡を改修した「足立北部排水路」がその地域境となっている。およそ南北約1.7㎞、東西で長くても約900mのややひょうたん型を変形した地域であり、河川、またはその河川跡を利用した排水路がその四方の境を形成する地域である。

 この地域は北部と南部では地域の特徴が異なり、北部、特に旧中山道である埼玉県道365号線以北では、住宅地や商業施設・工場が多くあるのに対して、県道から離れた南部は農村地帯であり、一面の田園風景が広がる。また荒川の土手もすぐ南側に目視できる長閑な場所でもある。 
   寛文九年(1669)銘が刻まれている鳥居          参 道
        
         参道の両側にある石灯篭の右手前に設置されている案内板。
 氷川社 御由緒 吹上町前砂六五六
 □御縁起(歴史)
 当地は元荒川右岸の自然堤防上に位置する。慶長十二年(一六〇七)には「足立郡箕田内前砂村御検地水帳」(江原家文書)が作成されており、村の開発は江戸時代以前にさかのぼると思われる。
当社の創建は詳らかではないが、境内には「江原又左衛門惣氏子」と刻まれた寛文九年(一六六九)の石鳥居があり、このころ既に前砂村の鎮守であったことが知られる。恐らく、当社は村の開発と前後して当地に勧請されたと思われる。ちなみに、江原又左衛門は当村の名主を累代務めた家柄で、現在の江尻家がその後裔に当たるという。
『風土記稿』前砂村の項には「氷川社 村の鎮守なり、宝蔵院持、 末社 神明熊野天神合社 稲荷客人諏訪合社」と記されている。また、宝蔵院は、同蓄によると、真言宗箕田村(現鴻巣市)の龍珠院の末寺で、氷川山と号したという。開基・開山などは不詳であるが、当社の北一〇〇メートルほどの所にあるその跡地(明治四年に廃寺)には観音堂や元禄八年(一六九五)をはじめとする法印墓石八基などがある。
 当社は、明治初年に別当の宝蔵院から離れ、明治六年に村社となった。祭神は素戔嗚尊と稲田姫尊の二柱である。また、当社の祭神は、白が嫌いなので氏子内に白塗りの壁もないし、白い鶏を飼ってもいけなかったという。
 □御祭神
 ・素戔嗚尊・稲田姫尊
                                      案内板より引用


 行田史譚に「前砂村、寛永年中(16241644)名主江原又左衛門、享保六年(1722)名主江原又左衛門、天保元年名主江原又左衛門」。氷川社延宝六年(1678)御神燈に江原又左衛門」と記載があり、案内板での石川家が前砂氷川社の創建に関わっているのも疑いないようにも思える。
        
                     拝 殿
 
 社殿左側に鎮座する境内社・天神神明熊野合殿。      社殿右側に祀られている境内社・合殿。
                       「新編武蔵風土記稿」に書かれている「稲荷
                            客人諏訪合社」であろうか。
 
         馬頭観音と稲荷大明神、塞神                 境内社・三峰神社
 

 前砂地域は明用地域に鎮座する三嶋神社の西側に隣接する。嘗て荒川は瀬替え以前、元荒川と繋がっていた時期があり、その時期が56世紀にあたり、この明用三島神社古墳は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い見解もある。
        
                 拝殿から参道方向を撮影。参道の先には荒川の土手が広がる。

 最近の調査では元荒川が吹上町市街地の東南方面、前砂地域から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し(現在の足立北部排水路)、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その流路跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として一部改修されている。

 我々が普段何気なく使用している道でも、律令時代以前の古代にまでその淵源を遡るものもある。今回の社参拝には直接関係ない事項ではあるが、この地域の歴史の一片を知ることができたことは、大変有意義であったと心からそう思う。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」
                             

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