古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西古里矢弓神社

 岩松氏は、新田義重孫女と足利義康の孫義純との間に生まれた時兼が祖で、岩松郷(尾島町岩松)を本拠として岩松氏を名乗り、新田本宗家没落後、新田荘を支配するようになる。
 岩松満純(いわまつ みつずみ)は、室町時代前期の武将で、上野新田荘の国人領主。正平23/応安元年(1368年)に戦死した新田義宗のご落胤と云われ、本人もそのように自称した。幼名は容辻王丸、法名は天用入道。新田本宗家の血筋は義貞⇒義宗⇒貞方⇒貞邦と継続しているが、応永16年(1409年)722日、鎌倉七里ヶ浜で貞方・貞邦親子は共に刑死し、直系の新田本宗家の血筋はここで事実上断絶した。因みに新田義宗を実父とする説が事実ならば、貞方と満純は兄弟となるが、同母兄弟かどうかは不明。
 大里郡寄居町西古里地区に矢弓神社は鎮座している。新田氏一族の岩松直国が、当社参詣の際、新田義宗の遺児と出会い、その遺児を長子満国の嫡嗣岩松満純と名乗らせ、随一の弓取りとなることを願って矢弓神社と改号したともいう。
        
            ・所在地 埼玉県大里郡寄居町西古里124-3 
            ・ご祭神 日本武尊
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 春祭り417日、秋祭り1017

 西古里矢弓神社は本田八幡神社の南3.5㎞程、埼玉県道69号深谷嵐山線の道路沿いに鎮座している。鎮座地は県道に対して左側に面する高台にあり、駐車場は社の北西側で、社号標柱の手前に数台停められるスペースがある。当日は小雨が降る中での参拝となったが、風情もあり、事前には新田氏関連の社としての由緒等も確認していたので、厳かな気持ちで参拝に臨めた。
        
                                 西古里矢弓神社正面
             
               雨の為に濡れている社号標柱
      名前は似ているが、東松山市の箭弓稲荷神社とは直接関係は無いようだ。
 
   石段の先には鳥居があり(写真左・右)、その先に西古里矢弓神社社殿が見えてくる。
       県道沿いであるので、車両の往来は多いが、この空間は静か。
    参拝が夏時期でもあり、雑草等が多く、小雨の中湿度も高く、蚊等の小虫も多い。
        
                    拝殿覆堂
(男衾郡西古里村)弓矢明神社
 當村及び鷹巣村の鎮守にて、兩村の持なり、相傳ふ當社は往昔日本武尊東國下向の時、憩息の古跡へ當社を勧請す、其後岩松治部大輔直國、足利家へ仕へて、鎌倉へ往来の折から、去し頃討死せし武蔵守義宗の事など思ひ合せ、當社へ参拝して丹誠をこらせしに、折ふし前庭に女ありて、小童を抱て立り、是を問へば義宗朝臣の忘形見にて妾は朝臣に召仕はれし女なり、義宗朝臣去し頃、越後國村松の邊にて討死したまひしより、亂を避てこの山里に忍び住るよし答ふ、直國悦て上州に伴ひ歸り、生長の後己が嗣子として、岩松治部大輔満純と名乗しむ、是より社號を矢弓と號すと云々、村老の傳ふる所かくの如し、今岩松家系附考を按るに、新田義貞滅亡の後、新田の地に殘る所の同姓の内、岩松治部大輔直國、始て足利直義に仕へてより以来、尊氏に從ひ別て基氏へは昵近して屡加恩あり、直國の子岩松左馬介満國、相續きて好く基氏に仕ふ、其嫡子治部大輔早世して、養子治部大輔満純を以て名跡を立、此萬純實は新田武蔵守義宗の子にて、童名容辻王丸と稱す、今【鎌倉大草紙】に據て考ふるに左馬介満國は本新田一家の人なり、如何なる心にや敵方の義宗が子を竊に養ひ置しに、一子治部大輔早世の後、彼容辻王丸を己が實子と披露し、岩松治部大輔満純と號して、家を相續せしめしと云、已上の説によりて考れば、満純を養ひて嗣とせしは、直國のこ満國にて、直國にはあらず、是土俗の傳へ誤れるなり
                                 新編武蔵風土記稿より引用
      
 矢弓神社 寄居町鷹巣三五三(西古里字屋敷附)
 当社には、二つの由来がある。一つは『風土記稿』に述べられている。当社は日本武尊が東国下向の途次休息した地に勧請した。下って、新田氏一族の岩松直国が鎌倉へ向かう時、同族新田義宗の死を悼み当社に参詣した。すると境内に不思議にホ赤子を抱く女が現れたので、直国がその女の素姓を問うと「私は亡き義宗公の侍女で、この子はその忘れ形見です。戦を逃れてこの山里に身を潜めております」と答えた。直国は、この出合いを神の思召しと思い、侍女と赤子を上州に連れ帰り、赤子を自らの嫡嗣として岩松満純と名乗らせた。これにより、満純が随一の弓取りとなることを願い、当社を矢弓神社と号した。ただし、この話に登場する直国の嫡嗣満純は、実もう一つは『大里郡神社誌』に述べられている。
 創建は『風土記稿』と同様に日本武尊東征伝説により語られているが、社号は、新田義重がこの地で流鏑馬を行った際、用いた弓矢を当社に納めたことから矢弓神社と称するようになったとある。また、初めは鷹巣字明神の地に鎮座していたが、正保年間
(一六四四-四八)に西古里村の千野某と横瀬某の両氏が相計って西古里と鷹巣境に遷座し、更に明治四十年(実際は大正六年)に今の地に移転したといわれる際は直国の子満国の嫡嗣である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
          社殿手前左側にある「肇国二千六百年聖地巡拜記念碑」
      
 岩松満純は『系図纂要』には、義宗と満国の妹との間に生まれたとあるが、前半生ははっきりとはわかっていない。兄に満氏がいたが、早くに亡くなったため、満純が岩松氏の後継となった。 後に犬懸上杉家出身で関東管領となる上杉禅秀の娘を娶る。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では舅の上杉禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏追放に功績を挙げた。この際に義宗の落胤として新田姓を自称したという。
                                                    社殿から鳥居、参道方向を撮影

 しかし、翌年持氏が室町幕府の援助を受けて反攻してくると、新田荘に敗走した。しかし隣の佐貫荘の国人領主舞木持広の追討を受け、武蔵入間川の戦いに敗れて捕縛され、応永24年(1417年)に鎌倉の竜の口で斬首された。
 満純の動向に対して、父の満国は同調せず静観したままで、満純が処刑された後に、突如に満純の甥でもある孫の持国(満純の弟の満春の子)に家督を譲って、その後を継がせ、もうひとりの孫の家純(満純の子)は、祖父によって廃嫡された挙句に出家させられた。

 後に、家純は祖父の死後に6代目将軍の足利義教(義持の同母弟)の後盾を得て、還俗して勢力を持ち、岩松氏は家純流(礼部家)と持国流(京兆家)に分裂したという。


資料参考・「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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今市兒泉神社

        
              ・所在地 埼玉県大里郡寄居町今市460
              
・ご祭神 木花開耶姫
              
・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、吉野川を越えた先のY字路を斜め右方向に進む。埼玉県道184号本田小川線に合流後、暫く道なりに直進し、関越自動車道を越えてから「今市地蔵」交差点を直進する。今度は埼玉県道296号菅谷寄居線に合流直後のY字路を斜め右方向に進むと、市野川に沿って続く道路があり、そのまま200m程進むと、今市兒泉神社鳥居が右手に見える。
 道幅は狭い道路の為、駐車スペースは周辺見当たらない。鳥居前の路肩がやや1台分ほど駐車できそうなので、そこに停めて急ぎ参拝を行う。
                          
               社号標柱      昭和56年建立の「今市地区土地改良記念碑」
        
                  今市兒泉神社正面
 地形を確認すると、市野川左岸は右岸に比べて標高が高い。右岸の平均標高は約78mに対して、左岸に鎮座する今市兒泉神社の標高は約86mと、一段高い場所にある。
 社の西側には舗装されていない掘割状の細い道(小道というよりは廃道のようである)があるが、嘗て鎌倉街道上道(かみつみち)に比定されている。また「今市」という地名は、嘗て鎌倉街道が主要街道だった時代、この市が立てられたことに由来するという。
        
                              鳥居より参道を望む。        
「今市地区土地改良記念碑」
 今市土地改良総合整備事業は、昭和五十四年八月地区関係者総意のもとに、農業近代化と市野川改修を合わせ実施する事を目的に発足した。地区内は道路用排水の不整備の上、狭い小田畑が多く、これらの悪条件の為生産性が極めて悪く、その上、毎年集中豪雨により厳しい災害に悩まされて来た。本事業の実施については、当地区では長い間の願望であった町の基本構想に基づき、男衾地区での土地改良事業第一号として、国県並びに町当局の積極的な指導のもと、地区内地権者、役職員一体となり、此の事業に取り組み、総面積四四.ヘクタールを改善、整備した。(中略)本事業の実施により、農業重労働から解放され、効率的で明るい近代的農業への脱皮に成功したことは、地域一同限りない喜びである。この歴史的な完成に当り、関係ご当局に対して謹んで感謝申し上げると共に、地権者一同の卓見とその共同精神をもたたえ、こヽに事業碑竣工を記念して記念碑を建立して末永く後世に伝えんとするものである。
                         記念碑文より引用  一部句読点は筆者で加筆
        
                奥深い森林が周囲を包む静寂な空間。参道の先に社殿が見える。
             
                参道途中左側にある記念碑
 神林取得記念
 男衾村今市字富士山一一八三番の二は村社兒泉神社の境内神社なる淺間社の旧境内引裂上地林なりしを大正六年十二月十四日拂下げの手續をなし農商務省より買受け七年一月七日兒泉神社基本財産として登錄するを得たり氏子等再び神林となりしを抃ち欣び協力して記念せん為めに花崗岩鳥居一基を建設し且事由を記して不朽に傳ふるものなり
                                      記念碑文より引用

        
                                         拝 殿
 児泉神社 寄居町今市五九九
 当地は、かつて鎌倉古道にあった宿駅の一つで、物資を江戸方面へは隣村の奈良梨村、上野方面へは赤浜村へ継ぎ送った。地名の今市は中世新たに設けられた市にちなみ名付けられた。現在、宿駅の中央には当社と高蔵寺が、宿駅の二つの入口にはそれぞれ地蔵堂・薬師堂が祀られている。また町並みの南西には物見山がある。
 社伝によると、当社は、物見山の尾根続きの地に、こんこんと湧き出る泉に坐す神を、児泉明神として祀ったことに始まる。また、口碑によれば、鎮座地は、初め明神台という地であったが、江戸期、別当を務める天台宗高蔵寺住職が、祭祀及び氏子の参拝の使を図り、寺の西一〇〇Mほど離れた現在地に社を移したという。明神台の地については、現在、どこを示すのか明らかでないが、物見山の麓の泉立寺近辺が、かつて湧き水がよく出た地であったことから、この辺りにあったことが考えられる。
 当社には、児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政期(一八〇四-三〇)に高蔵寺に移されている。現在、本殿には、白幣を奉安している。
『明細帳』によると、明治四十年五月に字冬住の冬住神社、字富士山の浅間神社、字天神原の天神社の無格社三社を合祀している。

                                   『埼玉の神社』より引用
 
 社殿手前左手に鎮座する今市兒泉神社境内合祀社(写真左)。左から手長神社、冬住神社、天満神社、稲荷神社、浅間神社、天照大御神。また社殿奥右側には石祠(同右)あり。詳細不明。


 ところで今市兒泉神社の北東近郊には「高蔵寺」がある。天台宗の寺で十一面観音菩薩像が祀られていて、嘗て児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政年代(180430)に高蔵寺に移されている。
 高蔵寺から東側近郊の地蔵堂に祀られてる地蔵様には「いぼとり地蔵」という昔話が伝わっている。

 約800年前源頼朝の妻、北条政子は行基菩薩の作といわれる6体の小さな地蔵尊を本尊とし、いつも持ち歩いていました。ある年、政子は病気になり、伊香保の温泉に湯治に出かけ温泉で病気が治り、近くのお稲荷さんにお礼参りをしていました。
その時ふと思いついたのが「自分のおでこにある大きなイボを取ってもらいたい」それから毎日お参りにいった満願の7日目のこと、大事にしてる6体の地蔵尊の1体が夢に出てきて、お告げをしました。「帰り道の鎌倉街道沿いの宿場町に桜の大木がある。その木で私と同じ姿の地蔵を彫れば、願いをかなえてやろう」って・・・。次の朝早く、鎌倉街道に急ぎ今市の宿の白坂の茶店で店の主人に尋ねました。「のう、主。この宿場に桜の大木はあるか?」。すると主人は「その先の地蔵窪にありますよ!立派な桜の大木が・・・。」と行って見るとそれは立派な桜の大木が・・・。
「これに間違いない」。政子は鎌倉から彫り師を呼び地蔵尊を彫らせた。その地蔵尊の胎内に自分の大事な地蔵尊を納め、地蔵堂を建てそこに祀りました。すると政子の大きなイボは跡形も無くなったのです。それから人々はこの地蔵尊を『いぼ取りの一体地蔵』と呼ぶようになったということです。今じゃ『子育て地蔵』とも呼ばれたくさんの白いよだれかけが壁に掛けられてるそうです。

 日本各地に「いぼとり地蔵」なるものが多数存在していて、1000か所以上とも言われている。不思議とお地蔵様の近くには「こんこんと湧き出る清水」があって、その清水の効能(?)により、いぼが完治するような説話が多くみられる。


 またこの地域は室町時代中期、同族同士が戦いを繰り広げた地でもある。この戦いは『長享の乱』と言う。長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の同族の間で行われた戦いの総称である。この戦いの中に長享2年(14881115日武蔵国の現在の比企郡小川町高見・大里郡寄居町今市辺りで「高見原の合戦」と呼ばれる合戦があった。
 上杉定正(修理大夫・相模国守護・扇谷上杉家当主)が2000余騎を率いて、高見原へ出兵した。それを上杉顕定(関東管領・上野、武蔵、伊豆守護)が3000余騎の兵で対陣し、戦いは15日にも及んだが、顕定が敗れて山内上杉氏は鉢形城に敗走したという。
 今市地区には「首塚」という小字があり、『新編武蔵風土記稿』によれば、「村の北にあり、高二三尺の小塚にて、上に稲荷の小社あり、村民の持、此塚を掘ば髑髏多く出る故此名ありと云(中略)此塚は当時討死せしものの骸を、埋めたる印なるべし」と生々しく当時の惨状を「首塚」という地名で後世に残している。



資料参考・「埼玉の神社」「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等
     

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牟札熊野神社

 寄居町牟札地区。またもや変わった地名である。『新編武蔵風土記稿』では、「富田村は正保のものには、無礼村を合て富田牟礼村と載す、其後元禄度の改めには、各別村となれり」とあり、富田村合併以前は「無礼村」、合併後「富田牟礼村」になったとの記載がある。
「牟礼」地名は、東京都三鷹市牟礼、長野県上水内郡飯綱町牟礼、兵庫県赤穂市有年牟礼、香川県高松市牟礼町牟礼、山口県防府市牟礼等全国各地に存在し、主な地名由来として
○人や集落を表す「群れ」
山・森・小高い盛
「埼玉の神社」では、「古語で山を示す場合と、村を示す場合とがあるが、当地では前者を「牟礼」と表している」と「山」由来を記載している。
古代朝鮮語の「mori,more=山」
Wikipediaも全国の「牟礼」地名の由来を「古代朝鮮語で山や丘を意味するmoroが日本語に転じて『むれ』となったとされる」と紹介している。
 古代朝鮮語由来なのか昔からの和語なのかの断定は難しい。字数の関係で詳しく解説できないが、結論として、和語でも高くなった状態を「盛り上がる」「山盛り」などと表現するので、古の時代は和語でも朝鮮語でも「山」のことは「ムレ・モロ・ムロ・モリ・ムラ」と呼んでいたのではなかろうか。
        
            ・所在地 埼玉県寄居町牟札460
            ・ご祭神 家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 お日待417日 道饗祭723日 八坂祭725
                 
秋祭  1017日 手長祭121日
 牟札熊野神社は寄居町東部・牟札地区に鎮座する。埼玉県道274号赤浜小川線を小川町方向に進み、市野川を越え、「おぶすまトンボの里公園」の道を隔てた反対側の丘陵地斜面上に社は鎮座している。
 牟札地区は南北約2.7㎞、東西(地区南部)約1.7㎞の歪な縦長の地形で、中央には市野川が流れる。市野川は牟札南界付近の溜池が水源域として、初めは北流し、次第に北東そして南東に方向を変える。地形上市野川がこの地区を東西に分けているようにも見え、古代からこの河川がこの地域にとっての命の源ともいえよう。
             
                    社号標柱
        
                 斜面上に鎮座する牟札熊野神社                    
 
       石段の先にある鳥居           鳥居を越え、右側にある境内社
                                詳細不明
 牟札熊野神社は、享保年間(1716-1736)に当地の修験小菅刑部が熊野大権現を勧請し祭祀したという。牟礼村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年字金山の金山神社、字駄木所の白髭神社、字柳沢の琴平神社、字新井の稲荷神社、字台の天神社、外根木の八幡神社を合祀している。地形を見ると南方には鎌倉古道が通っていて、その古道を見下ろせる要衝の地ともいえる。因みにこの地域では「ムレイ」と発音されているようだ。
        
                     拝 殿
                     30段ばかりの石段を登った小高い山上に鎮座。
 熊野神社 寄居町牟礼四六〇
 当地は、寄居町東方の山間部にある。地名「ムレイ」は、古語で山を示す場合と、村を示す場合とがあるといわれるが、当地では前者を「牟礼」と表している。『風土記稿』富田村の項には「富田村は正保のものには、無礼村を合て富田牟礼村と載す、其後元禄度の改めには、各別村となれり」とあり、元禄年間(一六八八-一七〇四)には一村として独立している。
 鎮座地は、地内の物見山西麓にある小高い山上にある。また、この南方には鎌倉古道が通っている。
 口碑によると、享保年間(一七一六-三六)、当地の字台に住む小菅刑部なる修験が、紀州から熊野大権現を勧請し、日夜祭祀に励んだという。この小菅刑部は、享保七年(一七二二)四月二十九日に当社境内において即身成仏したと伝えられる。刑部の死後、地内の天台宗長昌寺が神仏分離まで神勤を行った。
 祭神は、家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神の三柱で、『風土記稿』には本地仏として薬師・観音・地蔵を安置し、相殿には津島天王を祀るとある。
『明細帳』によると、明治四十年五月十八日、字金山の金山神社、字駄木所の白髭神社、字柳沢の琴平神社、字新井の稲荷神社、字台の天神社、外根木の八幡神社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿左側手前には石碑、石祠あり。      石碑・石祠の隣には
境内社合殿あり。
      石祠の詳細は不明。             こちらも詳細は不明。
        
                                        本 殿
 
  本殿左側には境内社八坂神社と金山石祠     本殿右側には神輿庫と天之手長男神社

 新編武蔵風土記稿 男衾郡無禮村
 熊野社 村ノ鎭守ナリ津嶋天王ヲ相殿トス又藥師觀音地藏ノ三體ヲ安ス村持

「埼玉の神社」によると、牟札地域内には「字金山」があり、金山神社を祀っていたという。市野川の上流部にあたるらしい。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者の信仰を集めたようである。同時に「金塚」の字もあり、「金山」は隣地今市、高見地域にも同名字がある。また近郊には塚田地域もあり、室町時代から戦国時代にかけて「武州塚田・鋳物集団」が存在していた。
       
                  昼であるにも関わらず社叢林に囲まれた境内は薄暗い。   
 旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。
 赤浜地区の南東部に位置する塚田地区は、嘗て鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたといい、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だという。この地域は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世(室町時代頃)に鋳物業が盛んであったと伝えている。
        
                               鳥居周辺にある馬頭観音石碑

 新編武蔵風土記稿赤浜村条には「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」と記載されている。
 畠山重忠配下の武将で、赤浜関守の大沢半左衛門が直轄していた地域であり、塚田地域には半左衛門の墓もある。赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。
 室町時代から戦国時代にかけて、塚田地域に存在していた金属精錬「武州塚田・鋳物集団」が活躍していたという箏は、その周辺には鋳物を製造する原料が豊富にあった事を意味する。それより100年程前、畠山氏の部下であった大沢氏がそのことに全く気が付かなかったとは到底考えられない。当然資源豊富な地域であったと認識して、この地に「関守」として常駐させたと考えたほうがより理論的ではなかろうか。
 高見地域にもその関連集団の痕跡が残り、牟札地域内には市野川上流に「金山」地名がある。「武州塚田・鋳物集団」と何か関連がありそうと筆者は勝手に考えているのは、自己都合的な見解だろうか。
 

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般若日本武神社

 兎角「般若」と聞くと、「般若の面」でも馴染の恐ろしい形相の鬼の面を思い浮かべる人が多いと思うが、本来の般若とは仏教用語で、全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のことという。
 仏教瞑想の文脈では、すべての物事の特性(三相、すなわち無常、苦、 無我)を理解する力であるとしている。大乗仏教においては、それは空(シューニヤ)の理解であるとしている。菩薩が悟りに達するために修める六波羅蜜のうち、般若波羅蜜は他の五波羅蜜を成り立たせる根拠として最も重要な位置を占める。(Wikipedia参照)
 今回参拝した社は「日本武神社」というが、その住所地は「般若」。「鎌倉雲頂庵文亀元年(1501)十一月二十七日文書」に「般若村」と記載があり、室町時代からある由緒ある地名でもあり、仏教色の強い秩父地域らしい名前である。同時に神仏習合の時代には、天台修験に関係した社でもあった。
        
             ・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町般若629-1 
             ・ご祭神 日本武尊・保食大神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例大祭 3月第2土曜日
 般若日本武神社は小鹿野町般若地区にあり、埼玉県道209号小鹿野影森停車場線沿いに鎮座する。
『新編武蔵風土記稿』般若村条において、「般若村」の名の由来として以下の記載がある。「般若村は郡の中央にあり、矢畑庄に属せり、或いは武光庄と今とらず(中略)村名の起り般若院十六善神より起こると云、又は札所三十二番の観音堂を、般若堂とよびしより起とも云、又は長留村の別郷にて、牛谷と云しより、寺を般若となづけたるなり。既に十六善神を安置したるより今其所を十六とよびて、小名となるがごとしと伝へり。土人の説かたがたをのすといへども、【園通傳】による時は、法性寺の観音堂へ異儈来て、大般若を書寫せしより、堂を観音堂と云、村をば般若村と云。般若守護の為に十六善神を安置せしとあれば、この説近からむか(以下略)

 この社は天台修験に関係した時代が長く、別當般若院所蔵の大般若経の守護神が十六善神であるところから、大般若十六善神社(十六様)と呼ばれていたという。
        
                       般若日本武神社正面
 
   重厚な雰囲気を醸し出す木製の鳥居         鳥居上部にある社号額
 
         参道右手には神楽殿           拝殿手前左側にある手水舎
 この神楽殿で、小鹿野町指定無形民族文化財の御神楽・奉納県指定文化財の小鹿野歌舞伎等が上演されるのだろう。
 十六様【神楽・歌舞伎】
・大般若経の十六善神を祭神にする日本武神社。3月の第二土曜日の例大祭には歌舞伎や神楽が奉演され、地元民の健康祈願も催される。歌舞伎奉演。
                                小鹿野町観光協会HPから引用

            
                御大典紀念社殿改修記念碑
 御大典紀念社殿改修記念碑  檀原神宮 司 廣瀨和俊篆額
 日本武神社は人皇第十二代景行天皇の御代第二皇子日本武尊が東夷平定後、御凱旋の砌当地を御通過あそばされた。その際、里人は御神徳を欽仰し、産土神として保食神並びに日本武尊を奉祀したのが起源となっている。
 当神社は天台修験に関係した時代が長く、別當般若院所蔵の大般若経の守護神が十六善神であるところから、大般若十六善神社(十六様)と呼ばれ、長い間地区民の心のよりどころとして崇敬されて来た。
 明治元年神佛分離令により社名も日本武神社と改め、旧長若村の村社として毎年春盛大に例大祭がとり行われて来た。御祭礼には小鹿野町指定無形民族文化財の御神楽の奉納県指定文化財の小鹿野歌舞伎等が上演され、由緒ある神社に彩りを添えると共に老若男女の大きな楽しみに もなっていた。
 しかしながらもとの神殿は百有余年の歳月を経て腐朽著しく、又狭小のため長年にわたり改築が検討されて來た。今回県道改修のため神楽殿の移転に伴い平成の御大典記念事業として、社殿及び神楽殿その他の移築造営が計画されるや神社の改築資金をもとに旧村 村外の氏子・崇敬者各位の御賛同を得て多額の浄財が奉納され、平成五年九月より四年六ヶ月を経て、宿願の社殿・神祭殿・社務所の造営を始め境内の整備を充実することが出来た。
 こゝに神明の御加護と氏子崇敬者並びに関係者各位の敬神崇祖の誠心が結集され、平成の大事業が竣工したことを心からの喜びとするものである(以下略)
                           記念碑文より引用(*句読点は筆者加筆)
        
                                       拝 殿
 日本では古来から森羅万象に神が宿ると信じられ、その対象物の一つに山もあり、山は神様の住むところ、または神様唯一と信じられてきた。俗にいう神道・別名惟神道(かんながらのみち)とは、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。この神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念とも言えよう。
 その神道的な面を含んだ山岳信仰と、後代に日本に渡ってきて発展した仏教が習合し、また道教・密教・陰陽道等の要素も含まれ確立したのが修験道という日本独特の宗教である。日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力(げんりき)」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教と言われている。この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから「修験者」、または山に伏して修行する姿から「山伏」と呼んでいる。
 修験道の修行の場は、日本古来の山岳信仰の対象であった大峰山(奈良県)や白山(石川県)など、「霊山」とされた山々であるが、中でも聖地は紀州の熊野、葛城、大和の金峯山(きんぷせん)が中心で、熊野を中心として活動した天台系グループを本山派といい、金峯山を中心に活動した真言系グループを当山派と言う。この2派が主流で、地方的組織として出羽三山、日光ニ荒山等を始めとして、霊山と呼ばれている全国各所で修験道の各派が生まれている。
 
      拝殿上部に掲げてある扁額              本 殿
 ところで秩父盆地は三峰山・武甲山・宝登山・両神山等、多くの山岳信仰の対象となった山に囲まれている。『新編武蔵風土記稿』によれば近世末には本山派修験241、当山派修験148、羽黒修験39、合計428ヶ寺の修験寺院が存在していた。なかでも三峰神社は近世中期以降、江戸町人の豊かな経済力を背景とした三峰参詣の流行によって隆盛を極め、現在もなお広範囲な信仰圏を有しているという。
        
                             本殿に向かって右側に境内社が鎮座。
   左から御神社・神武社・愛宕社・稲荷神社・天満宮・八幡神社・産體神社・詳細不明。

 日本武尊の伝説は,三峰神社を初めとして,武州御嶽神社,宝登山神社などの縁起に共通してみられる。この共通性がどうして生じたのかについては、まだ解明させることは難しいが,『日本書記』の日本武尊に関する記述が参考となる。
「日本武尊が信濃の山中で道に迷ったとき、白い狗(狼)が現れ、その案内によって尊は事なく美濃の国に出ることができた」との記述である。
 硯在も秩父地域では、山犬(狼)の札や御脊属を、火難・盗難を防ぎ畑地や山地の猪等の四足獣を避け、さらに養蚕地帯では蚕の敵である鼠を退治してくれるものとして信仰する習俗が広く認められる。こうした日本武尊伝説や山犬信仰の起源や成立に関する明確な見解は今のところえられていないが、秩父地域において修験道が展開していく過程で成立していった可能性も一つとして推測される。
        
                           般若日本武神社  拝殿側から参道を撮影
 中世以来、秩父地域に定着し山岳霊場を拠点として勢力拡大を図った修験者が日本式尊の事蹟を説話化し、寺社の縁起に取り入れることによって山の霊験値をさらに高め、寺社の信仰的基盤を強化していったとの考察も出来るのではなかろうか
 そして地域社会に定着した修験者が、山そのものに対する在来信仰を基盤として新たな宗教要素を加えることにより、一般民衆の心理をつかみ、教化を進めていった結果と考えることもできよう。


(参考資料・新編武蔵風土記稿 Wikipedia等)

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両神薄諏訪大明神

「両神薄」は「りょうがみすすき」と読む。変わった地名だが、この「薄」は「スズキ(鈴木)」の別名で、「薄」の佳字ともいう。薄(うす、うず)は渦(うず、うづ)の佳字にて、ススキに転訛し、最終的に「スズキ(鈴木)」に変わったという。
 この薄(すすき⇒うす)は、渦(うず、うづ)、巴(うず、うづ)の意味で、海洋民の集団を指していて、海岸部に多く、本来内陸部に少ない苗字だ。
『新編武蔵風土記稿』薄村条には「古へ薄(ススキ)多く茂れる村なれば、唱へしと云う」とも記載され、ススキが多く茂る風景を地名由来としている。
 秩父地方の神流川流域の児玉地方を本拠地とした武蔵七党の一つである「丹党」。第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔を称する武士団である。諏訪神社は全国規模で祀られているが、嘗て秩父の地の多くは中村氏、薄氏等、丹党一族の氏神として祀られた。鎌倉時代以前から室町時代後期の間、小鹿野町にある国民宿舎「両神庄」(秩父郡小鹿野町両神小森707)の地には、丹党薄氏の館があったと云い、備前国に移住した後は須々木に変えた。
=Wikipedia参照=
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町両神薄8240向い
            ・
ご祭神 建御名方神
            ・社 格 不明
            ・例 祭 不明
 両神薄諏訪大明神は小鹿野町両神薄地区に鎮座する。途中までの経路は小鹿神社を参照。小鹿神社からは國道299号を西方向に進み、「黒海土バイパス」交差点を左折し、埼玉県道37号皆野両神荒川線に合流し、暫く進む。赤平川等河川が合流する地点で右折し、埼玉県道279号両神小鹿野線を5㎞程進むと「両神薄ダリア園」が左側にあるが、その県道の反対側にひっそりと鎮座している。                                 
            
             道路沿いに鎮座している両神薄諏訪大明神
        
                                  拝 殿
 丹党薄氏は秩父郡薄村より起こっている。
 ・武蔵七党系図には「武経(領秩父郡)―武時―二大夫武平(又曰武峰、天慶年中、故ありて、武州に配流され、秩父郡、加美郡、一井、加世等を押領す。後免されて上洛)―薄二郎長房―四二郎能房―能行、能房の弟織原丹五郎泰房―薄小二郎能直―薄弥二郎能国―小五郎行貞(弟に四郎時国、五郎有能)―弥二郎行有、弟彦二郎宗行」
 ・秩父神社文書に「延慶四年三月三日、名字書立、井戸惣領弥九郎、薄四郎次郎、支恒惣領吉田五郎次郎、久永惣領小畠平太跡」
        
                         拝殿前に聳え立つ「夫婦杉」
 諏訪大明神の夫婦杉
 諏訪社(祭神・タケミナタカ)は、「狩猟の神」「農耕の神」「武の神」と言われ、全国に沢山あるが、秩父地方の多くは、中村氏、薄氏など、丹党一族の氏神として祀られた。
 鎌倉時代以前から室町時代後期にかけて、現在の国民宿舎両神荘の地には、丹党薄氏の館があった。日影地区も薄氏の勢力下にあり、この諏訪大明神もその関係で建立されたものと思われる。
 丹党·薄氏は、西暦一五二〇年頃にはこの地から転出するが、諏訪大明神や社殿前の夫婦杉(めおとすぎ)は、後継の一族や地域から大事にされ、今日に至っている。
 夫婦杉の樹高は、三六mと三一・五m。 胸高周囲は、四・三六mと三・四〇mであり、樹齢は五〇〇年を超えると推定される。
諏訪大明神 氏子中
                                      案内板より引用
 
      拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
                        本殿や境内社が並列して祀られている。

 拝殿内部の「再建寄附」奉納板を確認すると、氏子名で「黒沢・黒澤」姓が目立つ。
 黒沢・黒澤(くろさわ)
 現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中国磐井郡黒沢村が起源と謂われている説や、平姓・葛西氏流、安倍氏、清和源氏等の流派もある。関東では武蔵国秩父郡・上野国甘楽多野郡・信濃国佐久郡の三国の国境地帯及び常陸国にも多く、この両神地区にも多く存在する。
・新編武蔵風土記稿薄村
「旧家蔵之助、黒沢を氏とす。先祖を黒沢馬之助と云ふ、是れも鉢形の臣なるべし。古くより此の村に居ると云ふ。今多比良勘解由が屋敷は住居の地なりとぞ、彼が先祖丹波が為に居を今の所に移すと云へり。近き年まで文書などありしと云へど、丙丁の災に憚りしと云ふ」
謙信公御代御書集
「永禄十二年十一月二十九日、氏邦は、黒沢右馬助を代官として越後へ送り、輝虎に柳酒三十と五種を進献す」
寄居村正龍寺文書
「七月二十九日、明日朔日御出馬治定候、黒沢右馬助殿、氏邦花押」


 両神薄諏訪大明神のすぐ西側には「日影集会所」があるが、その右側には「青石板碑」と案内板に表記された石碑群が存在する。
        
                                 「青石板碑」石碑群
        
                                  「青石板碑」案内板 
 青石板碑(室町・南北朝時代)
 青石とは緑泥変岩のことである。
 板碑は中世特有の信仰・文化遺産であり、重要な文献資料でもある。 鎌倉時代初期から室町時代末期まで全国的に建立された。
 秩父産の青石板碑は、丹党・岩田氏の所領であった現在の長瀞町野上地区で生産・加工・搬出された。
 一三三六年、楠木正成らは、湊川の戦いで足利尊氏に敗れ、後醍醐天皇は吉野に南朝政権を開く。正成の一族には、両神薄へ落ちのびたものがおり、黒沢姓を名乗った。やがて、藤差(ふじさす)地区に移り住むが、家名を復活させるのは、ずっと後のことである。
 この板碑(塔婆・とうば)には、貞治五年(北朝の年号で一三六六年)と阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれている。
 日影地区に建立されたこの青石板碑に込められた思いは何か。それについては、様々な推察が出来よう。諏訪大明神 氏子中
                                      案内板より引用


 楠(楠木・以後は楠木氏で統一)氏は謎が多い一族である。通説では河内国を中心に、南北朝時代に活躍した南朝方の武家であり、正成・正行親子は「大楠公・小楠公」とも尊称され、戦前の教科書では忠義の臣として明治
13年(1880年)には正一位を追贈された。また2人共に湊川神社の祭神(主祭神・配祭神)となっている。
 しかし冷静に考察すると楠木氏は日本各地に存在する苗字である事も確かで、珍しい名ではない。
 調べてみると、クスノキ(楠)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。別名クス。暖地に生え、古くから各地の神社などにも植えられて巨木になる個体が多い。材から樟脳が採れる香木として知られ、飛鳥時代には仏像の材に使われた。台湾、中国、朝鮮の済州島、ベトナムといった暖地に分布し、それらの地域から日本に進出し、日本では、主に関東地方南部以西から本州の太平洋側、四国、九州・沖縄に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
 楠の材そのものに防虫作用があり、タンスを作ると防虫性が高いともいう。古代の丸木船の中には楠を使ったものがあるという。大型の丸木船を作るために大木が必要であったことと、腐りにくいことがあったのかも知れない。
 楠木という苗字はこの常緑高木である「クスノキ」と無関係ではあるまい。
        
                             両神薄諏訪大明神 遠景

 楠木正成は日本では大変著名な人物であるにも関わらず、出自不詳で、加えて自称は橘氏後裔という。通説では『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたというが、氏族として先祖代々からその地に住み着いていたかどうか、その文面を見る限り判明はしない。
 一説によれば、楠木氏は元々武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)であり、霜月騒動で安達氏の支配下にあった河内国観心寺は得宗領となり、得宗被官の楠木氏が代官として河内に移ったともいう。『吾妻鏡』には、楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている。
 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に「くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん」という落首が記録されている、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされる。
 はっきり言うと、これらの文献資料に登場している「楠木氏」が正成と同一氏族であるとする根拠はどこにも無いのだ。

 武蔵国郡村誌にも、「楠木氏は元黒沢氏を名乗り北条氏邦に仕えていた武士であったが、鉢形落城の時本村に移り天明のころ楠と改姓した。」と記載されているが、この楠木正成の子孫の話だかどうかの記述はなく、真相は不明だ。

 両神薄地区にある「青石板碑」に記載されている「楠木氏」は、正成の一族かどうかは分からない。ただ「楠木」姓の関東地区にいた御家人はかなりいたことも確かなようだ。
さて真相は如何に。
 

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