古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上須戸八幡大神社

 成田氏は平安時代から安土桃山時代にかけて武蔵国に栄えた一族である。実は出自のはっきりしない一族で、藤原氏説と、武蔵七党の一つ・横山党説がある。藤原氏説では『群書系図部集』所収の「成田系図」では藤原行成の弟藤原基忠の子孫という系図を載せ、『藩翰譜』では藤原道長の孫・任隆の末裔という系譜を乗せているが、そのように云われるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことは解っていない。一方、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。
 どちらにせよ、古くから幡羅郡に土着した豪族であったことは確かであり、その子孫が武蔵国の有力豪族か、中央貴族の一族との接点を通じて、その高貴な「姓」を獲得した可能性もある。
「熊谷市公連だより 平成2312月号」には、『斎藤叙用から五代後の越前権守・河合斎藤助宗の子・実遠が、康平五年(1062)「前九年の役」で、源頼義・義家親子の軍に散陣し、勲功を立て、恩賞として長井庄の庄士を拝命している。長井庄に赴任した実遠は「長井
斎藤」を名乗り、長井斎藤氏の祖となり、妻沼・西城を拠点とし、西城(長井城)に入城したと伝わっている』と記載されており、前九年の役で軍功のあった斎藤実遠が長井庄を与えられたため、成田助高は素直に城を引き渡し、隣接する太田荘成田郷上之堀に居を移し、成田太夫を称し成田氏の祖となったという。つまり、斎藤実遠が長井庄を与えられる前は、この地域一帯は成田助高が領有していたということになる。
 
なお、助高はこの西城を築いた際に、東の守りとしてとしての砦も築いており、以来、里人は西城を本丸、砦を東城(ひがしじょう)と呼び、これが地名の由来となったと伝わる。
 上須戸八幡大神社はまさに旧上須戸村小字東城に鎮座している。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市上須戸838
              ・ご祭神 
品陀和氣命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 祈年祭 3月18日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月7日
 上須戸八幡大神社の途中までの進行ルートは西城大天獏神社を参照。上須戸地区は、西城地区の東側に位置し、西城神社からは埼玉県道263号弁財深谷線を東方向に進み、同303号弥藤吾行田線と交わる交差点手前の道幅の狭い道路を左折、道なりに真っ直ぐ進むと上須戸八幡大神社に到着できる。
 社に隣接しているゲートボール場周辺に駐車スペースがあるようにも思えたが、周囲一帯ほの暗いので、そこまで車両を進める事に躊躇いがあり、また鳥居の手前に若干のスペースがあったので、そこに停めて参拝を行う。
        
                 上須戸八幡大神社正面
 社は社叢林一帯に覆われ、昼間の参拝で晴天の天候だったが、このようにほの暗く、また前日の雨が乾いていない為、湿度も何気に高いようだ。社近郊には「東城城跡」の遺構があるそうだが、平野部の社とは思えない一種神秘的な雰囲気を醸し出している。
 もしかしたら、昔の社はこのような社叢林に囲まれた、世間の喧騒等とは隔絶された別次元の世界を体現したものであったのかもしれない。参拝中、このような感慨を思わせる何かが、この社には存在する。
 
     鳥居上部に掲げてある社号額        朱の両部鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 
 二の鳥居を過ぎてすぐ左手に鎮座する合祀社  合祀社の傍に紀元二千六百年記念碑
         詳細不明
        
                     拝 殿
 『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とある
 
        本殿は高床、流れ造りで外壁は朱塗りで予想以上に凝った造り。
 
    社殿手前、左側には社務所がある。           社殿の左側に置かれている石祠群       
    歴史を感じさせてくれる雰囲気あり。             詳細不明
        
                           社殿右側に鎮座する境内社・八坂大神
                           瓦には天狗の面と天狗扇がある。
                      
                    八坂大神 内部
       最近何かお祭り等があったのだろうか。正面入り口の建具が外れていた。                
        
 ところで上須戸八幡大神社が鎮座する旧幡羅郡上須戸村字東城は『新編武蔵風土記稿 上須戸村』に以下のように記載されていて、嘗て成田助高がこの地に居住していたことが記されている。
「当所に屋敷跡あれど、何人の住せしにや傳へず、一説に成田党の住せし地にて、其後古河の成氏宿陣せしことありといへり、隣村西城村の城跡は、住昔左近衛少将藤原義孝より、其孫式部大輔助高も居住ありしといへば、古くは成田氏住せし地にて、かの西城に対し当所をかく唱へ、其頃砦などありし○、又城は條里の條の假借にて田里の割より起し名なるも知るべからず」

 また隣村である西城地区も『新編武蔵風土記稿 西城村』で同じような記述がある。
「又隣村上須戸村の小字東城と云地にも屋敷跡あり、西城に対していへる名なるにや、とにかく古此邊なべて居住の地なるべし」
 つまり「東城」という小字は西側に隣接している「西城」に対し、東に城があったことに由来する名称である事のみならず、それより遥か昔の奈良時代に制定された、「条里制度」の名残でもあると「城は條里の條の假借にて田里の割より起し名」という記述で風土記稿の編者は言っているともいえよう。

*参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷市Web博物館」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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西野長井神社

 斎藤氏(さいとうし、旧字体:齋藤氏)は、日本の姓氏のひとつで、平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子・叙用が齋宮頭であったことに由来する苗字とされている。藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展し、その後斎藤氏は平安時代末から武蔵など各地に移住したという。
 藤原利仁は敦賀の豪族・秦豊国の娘を母に持っていたことから、越前を中心に北陸一帯に勢力を築き、その後加賀にまで勢力を広げた。その後裔はそれぞれ越前斎藤氏と加賀斎藤氏の2系統に分かれた。そのうち越前斎藤氏は2派に分かれ、それぞれ現在の福井県敦賀市疋田を本拠とした疋田斎藤氏と、福井県福井市河合を本拠とした河合斎藤氏の2派に分かれる。
 河合斎藤氏は美濃斎藤氏や長井別当と呼ばれた斎藤実盛を始祖とする長井斎藤氏(武蔵斎藤氏)はこの系統といわれている。
 
斎藤実盛(11111183)は、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれているが、生粋の武蔵国武士ではなく、越前国、南井郷(なおいごう)の河合則盛の子として誕生し、13歳の時、長井庄庄司・斉藤実直の養子として、長井庄に居住し、名を実盛としたという。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市西野522
             
・ご祭神 市杵嶋姫命・下照姫命・天児屋根命・猿田彦命・天細女命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 西野長井神社は熊谷市旧妻沼町西野地区に鎮座する。埼玉県道341号太田熊谷線を旧妻沼町市街地方向に北上し、東西に流れる利根川支流である福川に架かる橋のすぐ南側に鎮座している。
 西野という地名は『新編武蔵風土記稿』に「西野郷長井荘忍領に属す。慶長の頃は御料にして、寛永10年前田左助に賜はり、残る御料所は元禄11年阿部新四郎・設楽市十郎賜ふ。されど正保のものに、花房勘兵衛・前田左助知行と見えたれば、寛永年中前田左助と共に花房氏も賜はり」と記載されている。
 因みに「御料」とは、江戸時代の幕府直轄地の俗称で、当時は単に「御領」「御領所」と呼ばれていたようだ。それに対して「天領」は本来、朝廷(天皇)の直轄領のことを称したが、明治維新の際、旧幕府領の大半が明治政府の直轄県つまり天皇の直轄領になったともみられたことから、遡って幕府直轄領を天領とよぶようになった。
        
                                  西野長井神社正面
 西野長井神社のすぐ北側には福川が流れている。嘗てこの川は妻沼町内から熊谷市にかけて激しく蛇行して流れていて、水害常襲地だったようだ。昭和初期に、蛇行していた河川の水路に対して堤防を築いて改変したため、旧態とは大きく変わっているとのことだ。
        
        長井神社は西野地区の他に、「日向」地区にも同名の社がある。
        
                                      拝 殿
 明治以前は、 「井殿神社」あるいは「井殿大権現」と称していて、氏子は「井殿」を湧き水の意であると伝えており、水の恵みを称えて祀られたことを物語っている。『新編武蔵風土記稿』では、当社の創建は「承和8年(841年)215日、高橋戸須基貞、松平八郎正直の2人建立にして、祭神は、市杵嶋姫命・下照姫命・天児屋根命・猿田彦神・天細女命の5座を祀り、永井の総社と唱へし」と記している。
 明治5年に村社となり、長井荘にちなみ長井神社と改称した。
【信仰】
 古くから井殿様のお使いは亀であると伝えられている。例えば、願掛けの際には亀を持参して祈願し、亀の口にお神酒を含ませて用水に放すと願いが叶うとの信仰があり、昭和10年頃までは、拝殿の格子に多数の亀の絵馬が下がっていたと言われている。
*「くまがや自治会だより」を参照

                    本 殿                                
 斎藤実盛が長井庄に居住していた当時、相模国を拠点とする源義朝と上野国の源義賢が兄弟でありながら対立し、義賢が秩父氏の応援を得て武蔵国大蔵にまで勢力を拡大すると、勢力拡大を恐れた源義朝の長男・義平が久寿2年(1155)大蔵館を襲撃、ついには叔父である義賢を討ってしまう。実盛は当初義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に奉公するようになっていたため、再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢へのご恩は忘れておらず。義賢の子・駒王丸を保護し、信濃国の中原兼遠の元へ届けて命を救った。この駒王丸こそ、のちの木曽義仲となる人物である。

 保元の乱、平治の乱では、源義朝につき従い活躍をした。特に平治の乱では実盛はじめ、坂東武士17騎でめざましい手柄をたてたが、平清盛の策略に破れ、長井庄に帰る。その後長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となったが、長井庄における、これまでの功績を認められた実盛は、平宗盛の家人となり、別当として長井庄の管理を引き続き任じられる。厚い信仰心を持つ実盛公は、庄内の平和と戦死した武士の供養、領内の繁栄を願って1179年、自ら守本尊である「大聖歓喜天」を古社に祀り聖天堂と称し、長井庄の総鎮守とする。
 
  本殿左側奥にある大黒天・馬頭観音の石碑。    本殿右側奥に鎮座する境内社か。
   その手前には石祠もあるが、詳細不明。

 1180(治承4)年に義朝の子・頼朝が韮山で挙兵するがそれでも平家方に留まり、頼朝追討に出陣する。そこからは、源平の戦いにおいて死ぬまで平家方に忠誠を尽くすことになる。平維盛の後見役として頼朝追討に出陣したが、富士川の戦いにおいて頼朝に大敗、その後木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

 かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。
        

 西野長井神社が鎮座する場所から近郊には「実盛塚」と呼ばれる塚がある。正式には「「斎藤実盛館跡実盛塚」というが、この塚一帯は斎藤氏の館跡と伝えられ、隣接する塚に板石塔婆一基が残っている。現在、斎藤別当実盛館跡史跡保存会によって管理が行われているとの事だ。
 

 熊谷市指定文化材 
 一 種別 史跡
 一 名称 斎藤氏館跡実盛塚
 一 指定年月日 昭和529
13日
 福川の河川改修等により形状が変わっているが古代長井庄の中心的な位置にあたり水堀の跡や出土品のほか、古くから「この辺、堀内という所は長井庄の首邑にて実盛の邸跡なり」との伝承や、長昌寺の椎樹にまつわる口碑その他史実などからして大正153月埼玉県指定史蹟「斎藤実盛館跡実盛塚」として指定されたが、何時の日か誤って「史蹟実盛碑」となったため昭和38年に県指定史蹟を解除された。
 中央に残る板碑は、実盛の孫である長井馬入道実家が死去しその子某が建てた供養塔である。
 熊谷市教育委員会  実盛館跡史跡保存会
                                      案内板より引用



*参考文献 「新編武蔵風土記稿」「熊谷Web博物館」「
くまがや自治会だより」「Wikipedia」等
                      

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針ヶ谷八幡大神社

 全国には様々な地名があるが、土地の地形や風土が由来となったものや、その土地に縁のあった偉人からつけられた地名、戦国時代の武将達が名付けた地名などもあり、由来は様々である。土地の地形や風土が由来となった地名の場合は、後世になってから何らかの形に変更されたものが多数あり、普段はあまり気にすることのない地名の由来だが、実はこういった地名には、先人達が後世に伝えたい大切なメッセージが込められているといえるのではなかろうか
「針ケ谷」という地名は、県内でも深谷市やさいたま市浦和区、県外では栃木県宇都宮市、千葉県長生郡長柄町などにも見られる。開墾地を示す地名に「墾(はり)」という古語があるが、これが「針」や「治」「張」などの文字に置き換えて使われている場合があり、当市の針ケ谷も平安時代前後に谷地(湿地)を開墾し切り開いた土地の意があるのかもしれない。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市針ケ谷258-1
              ・ご祭神 品陀別命、比賣神、神功皇后
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月15日 例祭
 針ヶ谷八幡大神社は深谷市針ヶ谷地区西部に鎮座する。埼玉県道
75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、針ヶ谷(中)交差点の次の信号はT字路になっていて、埼玉県道86号花園本庄線との合流地点となっているが、そこを右折。300m程北上し、3番目の十字路を左折する。道幅の狭い道路だが、民家一つない田園地帯を見ながら次の十字路を右折すると左側に針ヶ谷八幡大神社が鎮座する場に到着できる。
 実のところ、県道86号線から右折する細い道からでも、右前方に社の社叢を仰ぎ見ることができるが、鬱蒼とした社叢ではないので、初めて参拝する方には、ナビ等は必要ではないかと感じた。
         
                東向きに立っている一の鳥居
 鳥居は東向きに立っているが、実のところ社殿は南向きである。鳥居を過ぎて参道を進むと、一旦突き当たるので、そこを直角右方向に進む参道があり、その先に社殿は鎮座している構図となっている。
        
                         直角に曲がった先の地点で社殿方向を望む。
                 参拝日 2022年3月
 深谷市針ヶ谷地区は深谷市の北西の櫛引台地面に位置していて、現在は周囲を田園地帯が広がる長閑な地域であるが、縄文期から平安期の集落跡が報告され、古くから開けていた地域であることが知られる。また、地内に鎌倉街道が通り、「風土記稿」には「村内に一条の道あり、児玉郡本宿より比企郡小川村へ通ず、是に鎌倉古街道と云伝ふ」とあるように交通の要衝でもあったようだ。
*深谷自治会連合会・針ヶ谷自治体HPを参照。
       
      参道両サイドある夫婦松             大黒様と恵比須様  
   手入れも行き届いていて素晴らしい。       左側には兎もいて可愛らしい。
        
                       「祝御大典 本殿再興四百年記念事業」
 碑文
 当八幡大神社は、神社明細帳や武蔵風土記稿等に「山城国男山八幡宮を移し祀る。勧請年月不詳なれど、文明十一年建営修理。慶長元丙申年及び寛保二壬戌年社殿再興す」云々…とある。
 山城国男山八幡宮とは京都府八幡市の石清水八幡宮のことで、当八幡大神社の本宮である。
 昭和六十二年に、本殿の営繕及び外宇(覆屋)
の改築を行った際に、調査した処、本殿天井裏より棟札が発見された。「慶長元丙申年・奉勧請八幡大神宮鎮護所願主小林六大夫」と記されおり、記録の如く、今の本殿は慶長元年に再興された事が立証された。その際に文明十一年の「叩きの土台」も確認された。本殿が再興されてより数えて、平成七年が四百年目の記念すべき年に当たる。
 拝殿は寛保二年に再興したるが、寛政辰年七月に改築をしている。その後幾度が営業を行っている。しかしながら、拝殿並びに天満宮の老朽が激しく、使用耐え難き状態なれば忘急処置で凌んで来た。そこで八幡大神社四百年記念事業として、拝殿・幣殿・天満宮外宇の改築を目標として、平成三年より七年迄の五ヶ年計画で募金を行いたく立案し、平成二年十二月二十三日の総会の席上で満場一致の賛同を得た。計画に着手するや氏子崇敬者の敬神の念篤く、目標を越える多額の奉納計画書の提出を載く事が出来た。昭和の御代も平成に変わり、これを祝し御大典記念事業としての意味を含めて事業に着手した。(中略)
 工事は平成五年三月に始り、三月八日に天満宮地鎮祭、二十二日に上棟祭、四月十八日には拝殿・幣殿等を解体した。一部から次の様な記録が発見された。「奉建立寛政辰年七月 針ヶ谷村大笹木村金平造之」とあった。今から百九十七年前の事である。四月二十七日に天満宮への仮遷座祭及び地鎮祭と斎行した。五月二十二日には拝殿等の上棟祭と斎行した。又付帯工事や社頭の整備等も、役員や奉仕団の方々のご協力に依りの完成する事が出来た。十月十四日には、神社本庁より献幣使を迎えての正遷座祭を芽出たく斎行出来た。この年は皇太子殿下の御成婚と、伊勢神宮の第六十一回の式年遷宮に当たり、重ね重ねの奉祝てあった。
 以上概要を記し、先人達が精神の拠り所として此のお宮を守り伝え「敬神 崇祖」の立派な精神文化を残して下さった事に感謝しつつ、更に後世の人々に受け継いて戴く為に此処に是を建立す(以下略)
碑文より引用 *句読点は筆者が代筆
        
                                    二の鳥居
        
                     拝 殿
      
         拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                               本殿覆屋
 社の多くは鬱蒼とした社叢林に覆われていて、やや湿度が高く、樹木の間からこぼれ出る零れ光が、より一層神秘性を醸し出す心理的及び環境的な要因ともなっている。
 その点針ヶ谷八幡大神社の境内は、本殿奥にある社叢林以外はお日様の光を浴びた明るい境内で、境内周辺の環境整備もしっかりとしていて、二の鳥居から社殿までの参道周辺には玉砂利も敷かれ、しかもしっかりとならしてあり、見た目も良く、晴れ晴れとした気持ちで参拝を行うことができた。
 玉砂利を踏みしめて歩く事がほとんどない昨今、何か新鮮な気持ちにもなるから不思議だ。
 
      社殿手前左側にある神楽殿        神楽殿の右側に鎮座する境内社・神明社
            
                本殿左奥に聳え立つご神木
           本殿奥周辺にはご神木・社叢林を含む空間がある。
 
       石祠群。詳細不明            本殿右奥にある富士塚
        
                          社殿右側に鎮座している境内社・天満宮
        
                                     天満宮内部

 後になって知ったことだが、4月から5月にかけて咲く「ツツジ」や「藤」が綺麗な所で知られる社との事だった。立派な藤棚もあり、写真を見るとなるほどその通りかとも感じた。ツツジの時期も綺麗だそうだ。成程「明るい社」と感じたのは、このような綺麗な花々を見出る為に必要な空間でもあったわけだ、とも思った次第だ。
 来年こそはこの見事なツツジや藤の花を堪能したいものだ。
        
                      境内周辺を撮影
                            玉砂利もしっかりとならされている。


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今泉浅間神社

                  
                ・所在地 埼玉県深谷市今泉51
                
・ご祭神 木花咲耶姫命
                ・社 格 不明
                ・例 祭 不明
 今泉浅間大神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「本郷駐在所」交差点を過ぎて、藤治川を越えた「本郷農産物直売所・緑花センター岡部」がある手押し信号のある十字路を左折し、道幅の狭い道路を南方向に700m程進む。この道路を挟んで進行方向左側は藤治川流域の田園風景が広がり、右側は民家が所々連なったりするが、その後緑深い丘陵地の先端部が見え、その入り口付近に今泉浅間大神社の奉納のぼり旗柱ポールや、案内板等が見えてくる。
 地図を確認すると、この今泉地域の西側は、森やゴルフ場があり、河輪神社や関浅間神社が鎮座する諏訪山も近隣にあり、古墳も多数ある古くから開けた場所であるようだ。
               
                  
今泉浅間大神社正面
                
                                  入口左側にある案内板
 浅間神社
 所在地 岡部町大字今泉五一番地  祭神  木花咲耶姫
 沿革
 創立年代は明らかではないが、古くより大字今泉の鎮守として崇敬されている。西暦一九〇八(明 治四一)年には、字大明神より稲荷神社を転居し合祀されている。大字今泉の地は、江戸時代以前は、榛沢郡藤田郷(現在の寄居町)を本拠とする藤田氏の勢力下におかれていたと考えられており、字大明神にある高取山は、この藤田氏が当地方を治めた頃、この山に登り稲作の豊凶を見定め、石高を計り年貢を取ったため山の名がここに起因していると伝えられている。江戸時代に入ると、徳川家康の家臣菅沼小大膳定利の領地となる。菅沼小大膳は後に、上州(現在の群馬県)吉井藩主となり、西暦一六〇三(慶長七)年死去した。
                                                                                                                  案内板より引用
        
              思っている以上に石段は角度があり、鳥居を撮影するのも苦労した。
 
 丘陵地に鎮座していて、石段を登る。途中、灯篭があり、テラス上に平らに馴らしている場所もある(写真左)。その後石段を登るわけだが、両側の路面を掘り込んだ断面も見ることができ、少しワイルドな気分となった。
        
        石段を登り終えると、やや横長の広い空間があり、社殿・境内社が鎮座している。
        
                社殿の奥に鎮座する境内社。
   正面はガラス張りとなっていて、中に境内社・本殿が祀られている。写真撮影はせず。
            案内板に記されている稲荷神社かもしれない。
        
                                   藤治川流域付近撮影
 武蔵七党の一派である横山党・猪俣党には「今泉氏」が存在していたが、榛沢郡藤田庄今泉村より起っているという。小野系図(畠山牛庵本)に「藤田能国―伊与僧都(今泉)」との記載があり、藤田氏がこの地を治めていた時期には、今泉氏もその配下として勢力下にあったのであろう。     

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山崎天神社


          
                                             ・所在地 埼玉県深谷市山崎134            
                  
・ご祭神 菅原道真(推定)
                  
・社 格 旧村社
                  
・例 祭 不明 
 山崎天神社が鎮座する「山崎」という地名。地域名より発祥した在名であり、この地域に土着した山崎氏が存在した。この一族は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団で武蔵七党の一つ、小野篁の末裔を称す横山党と同族である猪俣党の一派で、榛沢郡山崎村から出た一族であると云い、『新編武蔵風土記稿』にも以下の記述がある。
・新編武蔵風土記稿山崎村条
「按に当国七党(武蔵七党)内猪俣党に、山崎国氏・同三郎光氏といえるものあり。殊に隣村桜澤に三郎光氏を祭りしと云う八幡社もあれば、是等当所に住し、在名をもて名とせしなるべし」
・同桜沢村条
「山崎八幡あり。或説に猪俣党山崎三郎左衛門尉小野光氏の霊を祀れり、由って此の神号ありと云ふ、近郷山崎村は此光氏の旧蹟にや、福泉寺の持」

 その他にも小野氏系図には「藤田好兼―山崎五郎左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏」。上尾市の山崎達郎家系図に「山崎五左衛門国氏―三郎光氏―小三郎行氏―宗左衛門貞氏―五左衛門氏兼―四郎太夫氏長―五太夫氏清―刑部丞氏弘―掃部勝氏―三郎太夫氏忠―内蔵允頼忠(相州に赴き北条氏綱に仕へ戦功多し)―氏頼―氏行―氏光(北条氏に仕へ、天正十八年小田原落城の後、松平上総介忠輝に仕へ采地五百石を賜る)―友氏(上州前橋の酒井忠清に仕ふ)―友重(酒井氏に仕ふ)、弟友之(植村土佐守忠朝に仕ふ)―友寛(松平元重に仕へ、長州萩に移る)」と見える。
          
                                 山崎天神社正面
 山崎天神社は榛沢新田二柱神社北側に接する東西に伸びた道路を西行する。その後突き当たりを左折し、畑の中の道を暫く南下する。藤冶川を渡り、上越新幹線の高架の下を通り山崎の交差点の信号を右折すると手前左側方向に社は鎮座している。

「新編武蔵風土記稿」山崎村の項には「天神社 村の鎮守なり、熊野稲荷を合祀す、地蔵院の持 下六社 持同じ 熊野社 大神宮 雷電社 山神社 諏訪社 辨天社」と記述されていて、その後明治40年代に村内の神社を天神社に合祀したという。
         
             参道途中、左側には梅の木々が実をつけていた。
             さすが天神社の面目躍如ということであろうか。
 
  社の参道東側に隣接する真言宗智山派天神山薬王寺地蔵院(写真左)。そして地蔵院の脇には「天神山薬王寺地蔵院緣起」という境内碑(同右)がある。

 天神山薬王寺地蔵院緣起
 当天神山薬王寺地蔵院は真言宗智山派に属す 本庄栗崎の宥勝寺を本寺とし 本尊は薬師瑠璃光如来なり 当山は基を遠く慶安年間に権大僧都盛傳和尚の開山とされ 永きに渡り当地を見守り 無量の利益を施し給う 当山旧本堂は大正十四年第十四世秀慧和尚により建立せられしより以来た風雨に耐え今日に至ると雖も如何せん 腐朽甚しく荘厳消磨し 遂に手を加うるの術無きに至る また本尊薬師瑠璃光如来 地蔵観音両菩薩 並びに両祖大師の尊像も 幾多の星霜を経て破損に及ぶ 小衲本より浅学菲才の身なれば師跡を継承すれども朽ちた堂宇を再建する才あらず 日々の檀務に明け暮れ想い起こししは 今は亡き先々代英覚和上の堂宇再建の悲願なれども 住職拝命よりこのかた空しく時を過ごせり(中略)地元の善男善女の信援 更には有縁無縁法界万霊の冥助の賜なり ここに縁起を誌し この法縁に深甚なる感謝の念を捧げ 本尊聖者の威光倍増を願い 両祖大師並びに当山祖師先徳の恩顧に報いむ 願わくは当山を篤き信仰の場として子々孫々護持されんことを 重ねて乞う 国家安穩 萬民豊楽 興隆佛法 寺門隆昌 伽藍安穏 檀信健勝 二世安楽 乃至法界 平等利益(以下略)
                                      境内碑より引用
             
 参道の途中に聳え立つ巨木(写真左・右)。紙垂等はないし、ご神木ではないようだが、参道両側にある樹木の中でも幹は太く、雄々しいその姿に感動し、思わず写真を撮ってしまった。
        
       山崎天神社の参道は右方向・Ⅼ字に曲がり、すぐ先に社号標柱や鳥居がある。
              時々社に見かける配置構造だ。
 ところで参道が北方向で途中右に90度曲がるという箏は、この社は西向きの社という箏になる。         一説では西方向の延長線上には太宰府天満宮が鎮座する場ともいう。
           
                        拝 殿
  創建時期等を記した案内板はなく、帰宅後の編集でも参考資料がほぼ見当たらなかった。
                      
                              拝殿手前、左側にある社日神
 社日神の基礎部分はコンクリート製であるが、この基礎部分はかなり高さがあり、また入り口にあった灯篭2基の基礎部分もかなりの高さであった。思うに山崎天神社の鎮座場所は、志戸川とその支流である藤治川の合流地点から南側で、それ程遠くない場所であるため、河川氾濫対策として、このように基礎部分を補強し、ある程度の高さに積み上げているのではないだろうか。あくまで筆者の勝手な推測ではあるが。
                  
                  社殿左側にある富士塚
 塚の頂には仙元大日神があり、左側には青面金剛の石碑、右側には詳細不明な2基の石祠が両脇を固める。
        
                             社殿奥、左側に鎮座する境内社群
 
 境内社は天神社の拝殿の左後ろにあり、合殿で左から、天照皇大神、稲荷神社、諏訪神社、三社権現神社が祀られている。
        
                                 社殿から鳥居方向を撮影

 嘗て山崎天神社の隣の旧名主の新井家は、代々寺小屋の塾を開き、村内また隣村の児童を教育したという。
榛沢郡の新井氏は「和名抄」に「榛沢郡新居郷」と記載があり、新井は新居、荒井とも書く。嘗て此の氏は埼玉県第一位の大姓であり、関東地方北部特有の名字で、埼玉県北部から群馬県東部、栃木県西部に多いとされている苗字で、新井姓の約半分は埼玉と群馬にみられる。
出自も多くあり、
・武蔵七党、丹党榛沢氏、横山党・猪俣氏、児玉党からの系統
清和源氏・新田氏流、武田氏流、足利支族・一色氏流からの系統
その他(桓武平氏畠山氏流、藤原秀郷流、高麗氏族等)
に大きく分かれている。

 その中の清和源氏新田氏流新井氏は、同郡人見村に移住して深谷上杉氏の支族に仕え、後に深谷領東方藩松平康長に仕えたという。
新井氏系図
「新井兵庫義豊は、永享十年将軍義教公より御教書を贈る、上杉憲実に持氏追討すべきの由なり。三浦介時高・今川上総介・小笠原政康ら、鎌倉に発向す、この時の旗頭にて、進んで先鋒討死す。翌十一年、上杉家に小次郎を召され、思し食に感じて、黄金十枚を贈る、法名寛恭了得大禅定門。のち小田原北条家滅亡の後、小笠原家に所縁ある故に扶助を賜ひ、年老の後、榛沢郡藤田郷萱刈庄山崎村に蟄居す」
大里郡神社誌
「山崎村天神社に隣接せる旧名主新井茂重郎の家は、正保以前より地頭加藤牛之助の地行所にして、其の子孫亀之助及び音三郎等、代々寺小屋を開く」
        
                   山崎地域の田園風景

 余談となるが、江戸中期の学者、詩人、政治家である新井白石は、榛沢郡の新井氏と同じ清和源氏・新田氏流の末裔であったようだ。
・新田族譜
「新田義房―覚義(上野国新田郡新井村に住し、新井禅師と称す)―朝兼―義真(応永二十三年討死)―義基(二郎、仕小山下野守)―武義(次郎兵衛尉、住武州、仕人見屋形上杉六郎憲武)―勝広(刑部丞、仕上杉左衛門太夫憲晴)―広恒(刑部、去山善休)―広成(刑部、天文十年生、万治三年十二月死、百二歳)―半無生(住上州厩橋)、弟広道(新井勘解由、赴常陸多賀谷家)、其の弟広方(刑部、十左衛門、仕真田家)、其の弟某(次郎兵衛、仕松平丹波守康長)―某金兵衛―某金兵衛、兄某次郎兵衛」
同家譜には新井勘解由広道―余四正済―君美(白石)との記載あり。

 不思議な縁で、山崎天神社の考察から、江戸時代
中期の学者、詩人、政治家である新井白石との関わりまで話が発展してしまった。まあ筆者としては、これ位の脱線は許容範囲だし、これだからこそ神社参拝やその土地の歴史考察は面白いわけなのだが。
 

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