古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

駒衣稲荷神社

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町駒衣595
            ・
ご祭神 倉稲魂命
            ・
社 格 旧村社
            ・
例 祭 天神祭 1月25日 初馬 2月6日 春の大祭 4月15日
                 秋の大祭 10月15日 新嘗祭 11月23日 大祓 12月28日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1736646,139.1698324,16z?hl=ja&entry=ttu
 駒衣稲荷神社は国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居方向に進み、国道254号線との分離地点で右折、美里町から児玉町方向に進む。国道254号線は美里町 天神橋交差点付近で埼玉県道175号小前田児玉線に名称変更するが、そのまま道なりに直進。
 その後「松久小学校入口」交差点を右折し、約
700m程進むと右側に駒衣稲荷神社とその社叢が見える。駒衣の集落の北端に位置し、すぐ北側は長閑な田園地帯が広がる。
                
                       駒衣稲荷神社 鳥居正面 
       
               駒衣稲荷神社御由緒案内板
〇御縁起 美里町駒衣五九五
 駒衣は、古くは「駒絹」「駒木野」とも書き、南端を鎌倉街道上道が通ることから民家は南部に集中し、北部には東田が広がる。地内には、駒衣古墳群をはじめ、四世紀中葉の集落跡である志渡川遺跡や奈良・平安時代の寺院跡である駒衣廃寺、中世の土嚢の館跡である新堀屋敷などと遺跡が多く、古代から太の住みやすい環境であったことがうかがえる。
 当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している。創建については詳しい伝えはないものの、古くから駒衣の鎮守として厚く信仰されてきた神社であるという。また「児玉郡誌」は「元亀年中(一五七〇-七三)武田信玄の旗下・吉橋和泉守、武運長久を祈願し社殿を改築せりと云ふ、社蔵に係る文書には駒絹村正一位稲荷大明神とあり、宗源の宣旨は伝はらざれど、神階を授けられたること明らかなり」と載せ、当地は養蚕が盛んであることから、その守護神として勧請したものかと考察している。
 一方、『風土記稿』駒衣村の項には智徳院持ちの稲荷社と円福寺持ちの稲荷社の二社が記載されているが、当社はそのうちの智徳院持ちの稲荷社で、円福寺持ちの稲荷社は新田で祀っていた神社である。神仏分離により智徳院の管理を離れた当社は、明治五年に村社になり、同四十年には新田の稲荷社をはじめ地内の無格社三社を合祀した(以下中略)        案内板より引用
     
       
                    拝 殿         
 
  向拝柱の水引虹梁には彫刻が施されている           本 殿

「美しい里の町」をキャッチフレーズとしてホームページ等でも紹介されている埼玉県美里町は、東京都心より約80km、埼玉県の北西部に位置し、東部は深谷市、北部・西部は本庄市、南部は寄居町および長瀞町にそれぞれ隣接している。面積は33.41km2、東西5.5km、南北9kmと南北に長く、南部の山間地帯と中央以北の平坦地により構成されている。
 この埼玉県北西部の狭い区域に位置する美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡など、「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 
               神楽殿           駒衣稲荷神社社殿の左側に鎮座する境内社
        
                   駒衣稲荷神社 遠景
 美里町は、埼玉県内で最も多く古墳が造られた地域であり、主な特徴は、方格規矩鏡を出土する長坂聖天塚古墳を始め円墳が大多数で、前方後円墳がほぼないことである。また規模が15mに満たないような小規模の円墳ばかりの後期の古墳群が多いことも特色のひとつである。

 ここからは筆者の勝手な解釈であることをお断りするが、この地域には中央集権的な絶対王権は存在しておらず、階級制度から発生する上層・下層の区別も顕著ではなく、共に汗を流して土木、治水工事等行い、祭りを祝う、そんな平和的な日常の営みをしていたのではなかろうか。案内板に記述されている「
当社の境内は、駒衣の集落の北端に位置し、ちょうど氏子の家々を見守るような形で鎮座している」という記述にも、太古の昔から社とそこに住んでいる氏子等普通の人々との信頼関係をうかがわせる。
 美里町の文化財のひとつに「さらし井」が登録されている。美里町大字広木地内のねり木川の端にあるこの遺跡は、奈良時代、織布を洗いさらすために使用された井戸で、ここでさらされた布は、多く調庸布として朝廷に貢納されたという。万葉集第9巻には「三栗の那賀に向かえる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」とうたわれているように、ここは当時の女性達の共同作業場であり、社交場でもあったといわれている。
 当時そこで交わされている女性達の会話の中に、日々貧しいながらも日常生活を一生懸命に謳歌しようとしている人々の息吹を感じるのは、筆者の妄想であろうか。
       
          駒衣稲荷神社  社号標       駒衣の伊勢音頭の看板もあり
 駒衣の伊勢音頭  昭和52329日指定  埼玉県指定無形民族文化財
 駒衣の伊勢音頭は、今から300400年前に、伊勢参りのみやげに伊勢古市の女郎の踊りを習い覚えてきた人たちによって伝えられたのがはじまりだと言われています。その後、この地域の人々の中に育ち、今日に及んでいます。
 この行事は、725日に稲荷神社末社の八坂神社の祭典当日、鎮守の森に村中の若衆が集まり、養蚕も大当り、水の心配もなく、農作業が無事に終わって秋に五穀の豊穣が迎えられますように、また悪疫が流行しないように踊りを奉納して祈願するということです。
 この踊りは、とくに「ヤートコセー」のはやしことばが特徴的です。
 曲目は、手踊りと段物(当地では「台詞入り伊勢音頭」と言う)があり、前者には「伊勢は津でもつ」、「目出度」等、後者には「本朝二十四孝筍掘之場」、「いざり勝五郎」等が現在もさかんに行われています。
 埼玉県教育委員会・美里町教育委員会   
                                      案内板より引用
 

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福田浅間神社

 平安時代以降、事実上律令制度が崩壊し荘園制が盛んになると、その荘園警備の必要から多くの武士集団が発生した。その中で特に源氏と平氏の二大勢力が台頭し、平安時代後期に入ると、政権の行方が栄華を極めた貴族の手から武家へと移る。保元・平治の乱後、平氏に一度敗れた源氏は源頼朝が挙兵すると、木曽義仲、源義経、源範頼らが呼応、各地で奮戦して平氏を壇の浦で滅亡させた。その後全国を掌握した源頼朝は、1192年鎌倉に幕府を開き、武家政治がここに確立した。
 一方木曽義仲は、源氏嫡流である義朝の異母弟で、帯刀先生源義賢の子供として誕生し、幼名を駒王丸といった。源氏の勢力争いが原因で起こった大蔵合戦で、義朝の長男である義平勢に敗れた父義賢が討ちとられ、駒王丸は義平らの執拗な詮索の目から逃れ、遠く信州木曽に隠れ養育された。 この木曽で成人したのが、あの木曽義仲である。
 ところで前述した大蔵合戦で、敗れた源義賢の遺臣がこの福田の地に移り住み、元久二年 1205年) 義賢の霊を祭ったのが浅間神社で、武蔵武士の崇拝の山であったという。
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田2954
             ・ご祭神 木花開耶姫命 帯万義賢公
             
・社 格 不明
             ・例祭等 夏季大祭715日 秋祭り1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0902143,139.3516852,16z?hl=ja&entry=ttu
 福田浅間神社へのルートは途中までは「福田淡州神社」と同じで、「ふれあい農園谷津の里」の駐車場前のY字路を右折し、暫く直進する。その後、細い十字路に差し掛かり、そこは2本右方向に向かう道があり、そこは奥の道を進む。やはりそのまま道なりに進む(細い道で、進行方向も最初は南方向だが、そのうち北方向に道は変わる為、やや心細いが、そこは辛抱。南方向に向かう途中右側に「比企の丘キッズガルテン」という牧場があり、そこが進行方向の目印となる)と、右側に「浅間神社」の木製の標柱がある。


 標柱付近には十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めて参拝を開始する。一見するとこんもりとした古墳の感もあるが、案内板には山全体が凝灰岩で形成されている岩山との事だ。
 社の南側に浅間神社参道もあり、そこから参拝をスタートさせる。舗装もされていない参道だが、それが却って昔からの雰囲気とそこから醸し出す悠久の歴史を味わえることもでき、深遠な気持ちになる。だがすぐ右側に目を向ければ、「埼玉県道173号ときがわ熊谷線」を利用する車両が頻繁に走っていて、現代と昔の風情を同時に感じることができる不思議な空間でもある。      
  参道スタート場所には2本に門柱があり、    参道に沿って電柱があるのが少し残念。
       そこから参拝開始。
        
                     鳥居正面
                
                  福田浅間神社の案内板
 浅間浅間神社  滑川町大字福田
 遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで凝灰岩が露出して独特な雰囲気がある。
 伝えでは、久寿二(一一五五)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で、鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。天福の福、田圃の田で福田の地名となったというが、これについては定かではない。
 戦時中、山頂辺りから宝徳二(一四五〇)年奉納の鰐口及び刀一振出土している。
 山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信仰されていたことも考えられる。近年までこの水を飲めば安産であるといわれた。
 平成
三十一年三月吉日     滑川町観光協会 滑川町教育委員会      
                                      案内板から引用

 
 鳥居の右側には整備されていない急勾配の坂道があり、社殿に繋がる道があるが、行きに関しては社殿西側のなだらかなルートを選択(写真左)。晴天で暖かな天候の中、新緑の芽も芽吹き始め、菜の花も咲き誇る時期で、自然と散策する足取りも軽い。細いルートを進むと頂上付近となり、左側正面には社殿風の建物等が見える(写真右)。
        
                 正面福田浅間神社社殿
(福田村) 淺間社
 當社は帶刀先生義賢の靈を祀れりと云、久壽二年義賢討れし時、其家臣等此邊に落来りて土着せしもの八人あり、その子孫等天福年中此社を造建して、鎮守と崇めし由、馬場村舊家の條に載たり、猶其村に幷見るべし
                       『
新編武蔵風土記稿』福田浅間神社の由緒を引用
 
社殿内には富士講(浅間講)の絵馬が掲げてある。      社殿内から本殿を撮影               
        
                     本 殿
 
  
社殿と本殿の間には石橋が架かっている。    本殿に掲げている「浅間神社」の扁額

 源義賢は現在の嵐山町に住み、1153(仁平3)年から1155(久寿2)年までのわずか2年余りだったが、この地で生涯を閉じた。義賢の墓と伝えられる五輪塔が大蔵館の近くの新藤氏宅内に所在しているのをはじめ、多くの伝承が嵐山町と近隣に残されている。
 ときがわ町萩日吉神社において三年に一度流鏑馬(やぶさめ)が行われている。この流鏑馬は、義賢の遺臣といわれるときがわ町の馬場・市川・荻窪家と、小川町大塚の加藤・横川・伊藤・小林家が代々執り行っていて、また、鎌形八幡神社の競馬も、この七氏によって奉納されていた。
 また別説では、同町に鎮座する萩日吉神社に伝わる『木曽家引略記』という文書によれば、義仲の遺児義次郎が母方の姓馬場にあらため、馬場義綱と名乗り、そしてかつての家来七氏をたよって明覚郷(ときがわ町明覚)に住んだという。流鏑馬の神事はこの七氏が奉納し、現在まで継承されている。
  
     境内社 不明           境内社雷電神社         境内社津島神社
             
                                   境内社の配置
 社殿から南方向に参道を進むと境内社が3社鎮座している。尚
参道の入口から社殿までは凝灰岩が露出していて、山全体が岩で覆われているのが足で踏みしめる度に実感できる。「岩信仰」は日本古来からの信仰形態の一つだが、改めてこの地が古より信仰の対象であったことが五感全体で体感できた。
        
                  福田浅間神社 遠影
 福田浅間神社は、
決して高くない小山の上に鎮座しているが、短いながら急勾配の参道を登り、頂上に佇むと、悠久の歴史が蘇るような深遠な気持ちにさせる何かが存在するから不思議なものである。
 この社では、 雨乞いの山としても信仰厚く、昭和40年頃までは、獅子舞が奉納されていた。昭和20年頃、 拝殿わきの土中より偶然、鰐口が発見された。鰐口とは、神社の拝殿や仏道の前側の軒下つるす円く扁平な中空で、金属製の器具。横から見ると、下側の割れ口の形が鰐の口に似ていることから、この名前がある。この鰐口は、宝徳2 1450年) の銘で「福田郷」の文献でみる初めての登場で貴重な文化遺産である。


 

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福田淡洲神社

 滑川町福田地区は滑川町北部に位置し、滑川と中堀川に挟まれた開析谷の低地及び丘陵地にあたる。この地域は縄文時代より集落が存在し、縄文中後期・古墳時代前後期の集落跡である馬場遺跡や、古墳前後期の集落跡である円正寺・中在家・古姓前・東両表・大木・小川谷・久保田遺跡、古墳後期の台原・矢崎・栗谷・粕沢古墳群が見られる。
 明応
4年(1495年)正月18日銘の真福寺鰐口に「奉寄進武州比企郡福田郷 別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」との記述がみられ、また後北条氏の所領役帳である『小田原衆所領役帳』には小田原北条氏の家臣であり他国衆の上田案独斎の所領として「卅一貫六百卅七文 同 福田塩川分同(比企郡 福田塩川分 卯検見)」とあり、弘治元年卯に検地を行っている。
「福田」の地名由来として、この地に土着した源義賢の家臣8人の子孫が13世紀前半の天福年間に義賢の霊を祀り、天福の福と田圃の田をとって「福田」と称したといわれる。
*「
Wikipedia」参照。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田33413
             ・ご祭神 息長足姫命
             ・社 格 旧福田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭 415日 秋祭 1017日 新嘗祭 1128
                  大祓 1228
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0892216,139.3522539,17z?hl=ja&entry=ttu
 福田
淡州神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線、昔の熊谷東松山有料道路を森林公園方向に進む。武蔵丘陵森林公園「西口」を左側に見ながらも通り過ぎて、次の信号のある交差点を右折するが、この右折する道は、県道に沿って流れていて、暫く直進すると正面に小学校が見えるので、その手前のT字路を右折する。「谷津の里」という看板が見えるのでそのT字路を右折すると、「ふれあい農園谷津の里」があり、その駐車場から北側に社は鎮座する。
「ふれあい農園谷津の里」の駐車スペースに車を停めて参拝を行う。天候も清々しいほどの晴天の日よりで、足取りも軽い。駐車スペースから北側に進む道路沿いに社は鎮座するが、新緑が進む周囲の風景を眺めながらの散策もまた良いものだ。
            
                道路沿いに鎮座する福田淡州神社
                
           鳥居の先で参道沿い右側に設置されている案内板
 淡州神社   滑川町大字福田(上福田)
 祭神     
息長足姫命
 由緒
 当社の創立年代は不詳であるが、氏子旧家の古書によれば、応永二己亥(西暦一三九五)年に当社例祭に獅子舞を奉納したとの記載あり、応永以前に祀られたことが明らかである。当地は古くから開け、水田耕作がおこなわれ、地名も福田と名づけたと云う。
 里人は神功皇后が熊襲平定に功績を挙げたことを尊び祭神として祀ったと伝承される(中略)
 滑川町観光協会・滑川町教育委員会   
                                      案内板より引用

        
 また
『比企郡神社誌』では以下の記載がある。
 「当社創立は不詳なれども、氏子旧家古書の発見に仍ると応永二年(1395)当社例祭に獅子舞あり、当時は天台宗別当光栄寺持とあり。百拾年前吉田家の祖先の書記されしという当番帳ありしに、応永以前祀られしを実証するものなり、当地は上古早くより福田と名付く。神功皇后熊襲平定に大功有り其の功績を尊び仰ぎ奉りて祭神と祀られるなり。勧請年記未詳、寛永二年(1625年)三月霊代を改め鎮守とす。明治戌子(1888年)正月当日、吉田、由良之助懸ると有る。奉額に正一位淡波州大明神十歳童院忠書と有り。正一位を授けらる。明治4年3月月村社書上済。(以下略)」
 
 参道の様子(写真左)。
なだらかな丘陵地面に鎮座している関係からか、一の鳥居から社殿に進む際に、やや下り気味の参道となる(写真右)
        
                    拝殿兼覆屋 
 「埼玉の神社」によれば、淡洲神社には諸説あり、安房国一ノ宮の后神を杷った式内社「后神天比理乃咩神社(大社で一元来は洲神と称した)」に由来するというものと、近世に流行した淡島信仰によるとする説である。当社の場合はその双方が考えられる。洲が島と同義であることから、後に淡島信仰が入りやすかったのであろう。この信仰は、女性の病気平癒・安産・良縁などの幸福祈願で、和歌山県加太の加太神社もしくは同県の方に鎮座する淡島神社から修験の活動により全国にもたらされたという。
        
              社伝に掲げられた「淡州神社」の扁額

 「淡島信仰」とは、
婦人病に効験ありとされる淡島明神に対する信仰で、一般に淡島様とよばれる。関東では3月3日淡島講を催す所がある。和歌山市加太(かだ)神社が本拠といい,もと住吉明神の妃であったが婦人病のためこの地に流されたという。江戸中期,淡島様の小さな神棚を持った乞食(こつじき)願人が諸国を巡回,その縁起功徳(くどく)を説き,広めたとされる。
*「百科事典マイペディア」参照
        
 ところで神社参拝後、
自宅での編集中に知ったことが2点ある。一点は「福田石」である。武蔵丘陵森林公園内には「福田岩石切り場跡」があるが、この「福田石」は、褶曲岩盤と言われた淡緑色の斜長流紋岩質凝灰岩で、加工しやすい特性もある為、石垣の切石や石燈籠など土木用材として切り出されていて、福田地区内の字大木で大谷石に似た荒粒の凝灰岩が切り出され、「福田石」として販売されていたが、昭和46年あたりまで採掘されていたという。
 筆者もこれまでに
何度も森林公園に行き、その都度「福田岩石切り場跡」の看板は見ていたが、その都度通り過ごしてしまい、一度も実見しなかったのが、今更ながら残念でたまらない。次回には必ず見に行きたい場所の一つにカウントされた。

 もう一点は
「福田鉱泉」。今では福田小学校から北側にある「福田鉱泉前」バス停留場の名前でしかその存在を確認することが出来ない鉱泉名だが、滑川町で刊行された「滑川町ふるさと散歩道」では以下の記載がある。

「この湯泉の由来は古く、今から約1200年前の大同2年(807年)この地に住んだ蓮海という僧が傷を負った鹿が平癒していく姿からこの湯の効用を発見し、里人に教えたと伝えられる。また、近くの岩窟より現れた薬師如来のご出現の尊きを拝し、寺を造営し「徳水山蓮花寺」と号し、近くには湯前権現を祭ったと言われる。この湯の効用も広く知れ渡り、寺も栄え平穏な時代が続いたが、やがて室町期のうち続く戦乱の世となり、鎌倉への往来激しく、戦禍に巻き込まれた。百姓、僧も立ち去り、 寺も大破されたと文献に記されている。久しく荒れ果てたこの地に住んだのは、天正一八年 (一五九〇年) 豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条方に属し落城した鉢形城 (現寄居町) ゆかりの武士であったと伝えられる。その後、湯屋小屋も再興されて、その効用は近年まで人々の知るところであり、その恩恵に浴してきた訳である。栄枯盛衰は世の常とはいえ、この地にも幾多の歴史が刻まれたことも見逃せない事実である」

 福田地区
の近郊「伊古」地区には比企郡で唯一延喜内式社として神明帳に記載された古社である「伊古乃速御玉比売神社」が比企総社として鎮座している。社の由来として、蘇我氏の末裔がこの地を開いた際に創建したとの言い伝えがあり、古くは二ノ宮山の山頂付近に鎮座し、山自体が信仰の対象だった可能性も高いという事から、山岳信仰の一種ともいえる。
 福田鉱泉の発見者は「この地に住んだ蓮海という僧」となっているが、修験道が発見したとの伝承もあり、前述の「蓮海」という僧も、想像を逞しくすれば、蘇我氏末裔で修験者ではなかったかと推測したりもしたが、現時点ではそれ以上の真相は不明だ。
 
         社の南側にある
「ふれあい農園谷津の里」(写真左・右)


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淡州神社の編集行いました。

滑川町山田地区に鎮座する淡州神社を再編集いたしました。


内容はほぼ変わっていませんが、写真の画像を編集いたしまして、改めてアップいたしました。また「淡州神社」と以前は記載していましたが、地区名を前につけまして、今後は「山田淡州神社」と修正、変更いたします。

また他の神社も適時編集を行いますので、宜しくお願い致します。

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雷電山古墳

 古墳時代は、日本の歴史において弥生時代に続く考古学上の時期区分を指し、古墳(特に前方後円墳)が盛んに造られた時代を言う。畿内を中心に発達した古墳文化は全国的に波及していき、関東地方へは内陸部を通る後の東山道と、太平洋沿岸部を結ぶ東海道の二つの経路を経て古墳文化が流入してきた。東山道ルートを通じていち早く古墳文化を受け入れたのは群馬県を中心とする毛野(けぬ)の一帯であり、埼玉県内へは毛野を媒介として古墳文化が伝えられた。その内容は後期の横穴式石室の中に三味線胴形などと呼ばれ、玄室側壁に胴張りをもち平面円形に近い特異な形式の古墳が現われることを除いて、古墳の形態、内部主体、副葬品、墳丘装飾のいずれをとっても畿内の古墳と大きく異なる所はない。
 県内初期の古墳とされる東松山市大谷の雷電山(らいでんやま)古墳は丘陵上に位置する全長86メートルの前方後円墳で、標高90メートルの雷電山山頂に築造された。後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で、墳丘は三段構成であり、墳丘外面には葺石を施し、四重の埴輪列が巡ることが明らかになり、埼玉県で最も古い埴輪の出土例で、後円部墳頂には円筒埴輪を方形に樹て並べた方形埴輪列を巡らし、壺形土器の座部に孔をあけた底部窄孔土器も発見されている。
 雷電山古墳が築かれた時代は、5世紀の前半と推定され、この時期にはすでに東松山市とその周辺には、五領遺跡などにみられる大規模な集落がつくられていて、一つの統一した地方政権が出現していたとみられている。大谷の丘陵には、雷電山古墳が築かれてあと、弁天塚古墳、秋塚古墳、長塚古墳などの前方後方墳がつくられ、その周辺には多くの円墳が築かれ三千塚古墳群が形成された。約250基の円墳群があったといわれている。 
        
               ・名 称 雷電山古墳
               ・墳 形 前方後円墳(帆立貝形)全長86m 後円部高さ8
               ・時 期 5世紀初頭(推定)
               ・指 定 市指定史跡
                    昭和31年(195626日 三千塚古墳群として指定
               ・所在地 埼玉県東松山市大谷
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0833965,139.3885539,16z?hl=ja&entry=ttu
 ゴルフ場の敷地内の高台に古墳が存在する。前方部が短い帆立貝形前方後円墳で、後円部墳頂に大雷神社の社殿が建立されている。この古墳は三千塚古墳群の盟主的存在で、「三千塚古墳群」の名称で東松山市の史跡に指定されている。かつて,雷電山古墳の前方部付近において相撲が奉納されたらしい。
        
 ゴルフ場のクラブハウスへ向かう道を進み、駐車場のすぐ手前右に古墳(大雷神社)への分岐がある。右に曲がると道幅が狭い参道となり、大谷大雷神社の鳥居に到着する。鳥居左側には社務所の駐車スペースあり。
        
          
社号標右側の生垣前に「三千塚古墳群」の案内板あり。
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していたようだが、今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。

三千塚古墳群(市指定史跡)
 大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。
 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。そのときに出土した遺物は、県外に持ち出されてしまい不明ですが、一部は国立博物館に収蔵されています。三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。
 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に造られています。この古墳は、高さ八m、長さ八十mの大きさの帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。
 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて、造られつづけた古墳であると思われます。
                            東松山
教育委員会  案内板より引用
 
 鳥居を越えて石段を登る(写真左)。雷電山古墳は標高90メートルの雷電山山頂に築造され、後円部の最上段のみ盛り土がされ、それ以外の部分は地山を削り出して造成されている。1984年(昭和59年)の調査で墳丘は三段のテラス構成であるが、石段も数カ所踊り場を設置している。写真右は石段をある程度登ったところで下部を撮影。写真では分かりずらいが、1段目のテラスは周囲見ながらでもしっかりと確認することができる。因みに雷電山古墳は
三段築成の後円部は最上段が盛土で、一、二段目は地山を削り出しているとのこと。
        
           雷電山古墳・墳頂に鎮座している大谷大雷神社社殿。
  社殿の所々に小石が散乱している。古墳
墳丘外面には葺石を施していた名残りであろうか。

 大谷大雷神社の社殿奥で、雷電山古墳の前方部にあたる場所では、嘗て「
大雷神社祭礼相撲」という祭礼神事が行われていて、現在はその跡地付近には「大雷神社祭礼相撲場跡」という案内板がクラブハウス沿いの道端に設置されている。
        
              「大雷神社祭礼相撲場跡」案内板
 
 古墳の前方部はやや平らな空間が見え(写真左)、案内板を照らし合わせると、そこが嘗て祭礼相撲が行なわれた場所ではなかったかと推測される。また前方部で祭礼相撲が行なわれたであろう場所の右側にも、やや平坦な場所が見える所も見えた(写真右)。

 相撲
の歴史は古く、『記紀』などにも見られ、神事として皇室との結びつきも深く、また、祭りや農耕儀礼における行事の一つとして発展している。
 『古事記』国譲りの段において、出雲国稲佐の小浜で高天原系の建御雷神と出雲系の建御名方神が「力くらべ」によって「国ゆずり」という問題を解決したり、『日本書紀』においては、第11代垂仁天皇の御前で野見宿禰と当麻蹶速が日本一を争い、これが天覧相撲の始まりと伝えられる。また、野見宿禰は相撲の神様として祀られている。
 元々は民俗学上すでに弥生時代の稲作文化をもつ農民の間に、豊作に感謝し、五穀豊穰を祈願する際に、吉凶を神に占う農耕儀礼として相撲が広く行われていたことが明らかにされている。本質的には、農業生産の吉凶を占い、神々の思召(おぼしめ)し(神意)を伺う神事として普及し発展してきた。相撲が史実として初めて記録されたのは、皇極天皇の642年古代朝鮮国の百済(くだら)の使者をもてなすために、宮廷の健児(こんでい)(衛士(えじ))に相撲をとらせたという記述で、『日本書紀』にみられる。
 726年(神亀3)、この年は雨が降らず日照りのため農民が凶作に苦しんだ。聖武(しょうむ)天皇は伊勢大廟(いせたいびょう)のほか21社に勅使を派遣して神の加護を祈ったところ、翌727年は全国的に豊作をみたので、お礼として各社の神前で相撲をとらせて奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと記されている。
日本各地に残る古くから神社に伝わる儀礼的な神事相撲や地域農村における秋祭の奉納相撲も、また子供相撲、農・漁村や地方都市における土地相撲(草相撲)等もその名残(なごり)の伝承であろう。
              
               石段途中にある「御神井敷地」碑
 神井の井戸は、現在は埋め立てられて川越カントリークラブ場内にあり「御神井史蹟」の石碑が建っている。

 大谷地域には山姫の伝説がある。
 雷電山の山姫様は一年に一度だけ秋晴れの日に舞を舞うと伝えられています。踊りを舞っている時には耳を澄ますと美しい音色が麓の人々にも聞こえてきました。そのうっとりとする調べは村の若い衆の心を動かし「さぞ美しい姫であろう、一目でいいから見てみたい。」と誰しも思いました。しかし、お姫様は気の毒にも足が一本しか無く2本の足を持っている人を見ると呪いを掛けると言われていました。それで山に登るときは 1 本足で歩いて登らなければならず、その上 1 年に 2 度実を付ける栗の木の実を 17 個拾って神殿に御供えしなければなりませんでした。17 個と言う数はお姫様の年齢ではないかと言われていました。ある時、お姫様を見たい一心で一人の勇気ある若者が、栗を 17 個拾って雷電山に一本足で登って行きましたが、夜になっても帰って来ませんでした。翌日、村中の人達が総出で探したらその若者の家の棟にしがみついて眠っていて、若者の着物の裾には一本足の蝦蟇蛙(ひきがえる)が食いついていました。若者はそれから33晩眠り続け目が覚めても何も喋らず、とうとうそのまま年老いてしまいました。一度だけお姫様の絵を描いたそうですが、足は1本でしかも蝦蟇蛙の足のようだったといわれています。」

 一本足の
伝説は「一つだたら(ひとつだたら)」とも言われ、日本全国に伝わる妖怪の一種で一本だたらと同様に足が1本しかない妖怪の伝承は日本各地にあり、一本足(いっぽんあし)と総称されている。古来からの製鉄技法の一つである『たたら製鉄』は鉄が大陸から日本に伝ってきた時代からの製鉄方法で、砂鉄や鉄鉱石を原料に粘土製の炉で鉄を精製する方法である。
 たたら製鉄の工程は昼夜を通して数日間行われる。1400℃以上の火力を維持するために大量の風を送り込むが、吹子(ふいご)という人工的に風を送り込む道具を使っていて、足で吹子を踏むことによって大量の風を送り込むのだが、昼夜問わず数日感行われるため足を患う方も多かったようだ。同時にまた、火の様子も観察し続けなれけばいけないため、眼を患い失明する方も少なくはなかったという。
 このようなことからも一本ダタラが片眼・片足という理由は、たたら製鉄の過酷さを表しているのではないかと言われているが、伝承・伝説のみで、全てを結論付ける事は危険であろう。今後の考古学的な発見等から少しずつ判明出来ればと筆者は考える。

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