那須温泉神社境内社 愛宕神社
・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182 那須温泉神社内
・ご祭神 火産霊命
・社 格 不明
・例 祭 例祭 4月24日
「那須温泉神社」の参道を進み、二の鳥居を越えたすぐ左側に「愛宕神社」が鎮座している。温泉神社の一境内社であるにも関わらず、社の入口手前に「ご神水」が流れているためなのか、別世界に入り込んだような何とも言えない神聖な雰囲気が辺りを漂う。
愛宕神社 正面
社の階段手前左側脇の登り口には「愛宕福神水」と呼ばれる湧水の採水場がある。その湧水は清々しく、まさに「神水」というのにふさわしい。しばしその流れている様子を眺め、気が付くとその清らかな水を手で触れ、口に含む。とても冷たくて口に含むと爽やかで疲れや汚れが浄化されるような気がするから不思議だ。
因みにその湧水をお水取りをする人は、その前に社務所で1,000円の初穂料をお支払いし、記帳をしなければならない。
社まで一直線の急勾配の階段が200段程続いていて、石段の半分辺りには鳥居がある(写真左)。また一段一段の石が狭く、また階段に手すりがない、加えて石も劣化していて滑りやすい感じだったので気をつけながら登る。天候も雨交じりで、平日の為か参拝客も少なく、また愛宕神社の石段を登る方もいなかったので、無理はしないで時間をかけてゆっくりと上る(同右)。
愛宕神社は境内社ながら、那須温泉神社や同じ境内社である見出神社とは違う神秘的な雰囲気をもった社である。やはり神水の力は計り知れない。
愛宕神社 拝殿
社はかなり小さく、質素な造りである。ただ参道入口の「愛宕福神水」や、入り口から石段を登り、到着するまでに感じた神秘的な雰囲気を肌で実感すると、この社にも逆にある種の威厳と趣きすら感じてしまう。
愛宕神社の隣には水琴窟が置かれている。
湧水を注ぐと、水琴窟の中から驚くほど美しく澄んだ金属のような音が響きわたる。森の中にかすかに響く音は神々しく幻想的でもある。
水琴窟
水琴窟は手水鉢や蹲踞の排水部に造られた一種の音階装置で江戸時代中期の考案と傳えられる。
地中に埋めた甕の内部で水滴が水面を打つごとに琴を奏でるような音色を発することからこの名が生まれ日本庭園の音を楽しむ絶妙の芸術として称賛されている。
案内板より引用
日本人は「音」に対して繊細的な感性を持った民族と言われている。例えば「虫の音」である。8月も半ばを過ぎると、夜は秋の虫たちが鳴き出す。その虫の音(ね)を聴いて、理由は分からないものの、しんみりと感傷にふけるのが日本人の心情である。この感受性は人類共通のものかと思っていたら、実はそうではなく、どうやら日本人特有の感性らしく、虫の音を雑音として聴いてしまう外国人とは随分違うとのことだ。
人間の脳は右脳と左脳とに分かれており、左脳は言語や論理性を司り、右脳は感性や感覚を司る。世界のほとんどの民族は虫の声を右脳で認識するが、日本人とポリネシア人だけは左脳で認識してる。そのために多くの民族には虫の声は「雑音」にしか聞こえない一方、日本人とポリネシア人には「言語」として認識される。
そして、この「虫の音」を日本人が言語脳で処理し、他の多くの民族圏の人が雑音として処理するのは文化的な違いによるものという。多くの西洋人は、虫=害虫という認識があり、その鳴く音も雑音だと認識するが、日本人は「虫の声」に聞き入る文化が子供のころから無意識に親しまれているので、「虫の音」を人の声と同様に、言語脳で聞いているのではないかということのようだ。
愛宕神社近くにある案内板
愛宕神社の並びに鎮座する祖霊社の鳥居 祖霊社
更にこの言語の処理様式の違いが、日本人の遺伝的特徴によるものなのか、つまり日本人として生まれながら資質なのかどうかの確認も行ったところ、両親が日本人でなくても、日本に生まれた子が日本語で育てば日本人と同じ処理様式を示すし、両親が日本人であっても、海外で生まれた子が日本語以外の国で育てば日本人以外の処理様式を示すということが分かった。
つまり、日本語で育つかどうかが決め手であったというわけで、特に9歳くらいまでに身に付けた言語が大事ということになる。
幼少時から日本語を話すと自然と日本人が持つ感性が養われる。すなわち、日本語を話せば日本人になるということの基本が、「大和言葉」という大陸文化が伝来する以前の、日本列島で話されていた言語にあるのではないかと筆者は考える。人類言語の祖型を残している大和言葉=原日本語が、動植物や自然と融和し易くさせる「日本人の言語の処理様式」を育んできたものではなかろうか。
愛宕神社、水琴窟、祖霊社の並びに鎮座する「琴平神社・神明宮・山神社」等の石祠
八百万の神という言葉があるように、日本人は古来より自然を愛で、森羅万象を尊ぶ思想が根付いている。虫の声を雑音ではなく自然の声として認識し、季節の移り変わりを楽しむ姿勢が、こういった脳の違いを育んでいったに違いないと考える。
現代は都市の開発が進み、子どもたちが虫の声を聞く機会も少なくなってきていると言える。近い将来は日本人も、虫の声を雑音としてしか認識できなくなってしまう可能性もないとは言い切れない。
筆者もキャンプ場などで涼やかな虫の声、または川のせせらぎを聞きながら眠りにつくのが好きなので、今後もこの文化や感覚を日本人に受け継がれていくことを願ってやまない。 今回境内社でありながら愛宕神社を紹介した理由はまさにそこにある。