古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中曽根八幡神社

 吉見町中曽根地区は、上砂地区の東側で、荒川右岸の標高1718mの沖積低地に位置する。古くは吉見郡に属し、「日本古語事典」によれば、ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地との意味として説明していて、「熊谷市史」にも同様に、古い言葉で「埆」という字をあてている。川によってできた砂礫の多いやせた荒地として紹介している。
 
一方、松尾俊郎氏は曽根という地名は、低湿地帯などによくある自然堤防のような小高い所を指すとしている。県内に曽根地名は少なくない。加えて「日本地名学」では、それらはいずれも元荒川、古利根川などの河川の沿岸に多く見られ、「ソネ」地名の発生時代は15001700年と、地名由来における歴史の深さを物語っている。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町中曽根384 
             ・ご祭神 誉田別尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 旧暦915  
 中曽根八幡神社は、松崎八幡神社上砂氷川神社と同様に、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進む。大里比企広域農道と埼玉県道307号福田鴻巣線、同66号行田東松山線が交差する「中曽根」交差点から1.5㎞程吉見町方向に進むと、左側にこんもりとした社叢が見える。残念ながら「みどりの道」から直接中曽根八幡神社正面に通じる道はなく、一旦通り過ぎてから左回りに進むしかないが、目印となる社叢は良く見えるので、間違えることはない。
 社の正面鳥居付近には、駐車スペースも確保されているので、その周辺に車を停めて、参拝を行った。
                 
                             中曽根八幡神社 社号標柱
        
                                     鳥居正面
 このアングルからだと鳥居が3基見える。正面鳥居の奥にあるのが八幡神社の二の鳥居で、右側にある鳥居は境内社のものという。実はもう一基鳥居が右側にあるのだが、それは3基ある鳥居に対して直角に位置し、その奥には天満宮の石碑が立っている。
 
  境内社鳥居の横で、直角に設置されている          二の鳥居                             
        天満宮及び鳥居
        
                     拝 殿
            水害対策であろう、基礎部分には盛り土がされ、川石で補強されている。
 八幡神社 吉見町中曾根二八五-一(中曾根字三角)
 現在の吉見町の全域にほぼ相当する旧横見郡内で、朱印地を徳川将軍家から受けている社寺は、『風土記稿』によれば、慶安元年(一六四八)に家光から二〇石を拝領した御所の息障院をはじめ八か所ある。これらのうち七か所は寺院や仏堂で、神社としては、当社が唯一慶安二年に八石を拝領しているに過ぎない。横見郡内には、当社のほかにも、式内社である横見神社の後身と伝える御所の飯玉氷川明神社や、同じく伊波比神社の後身である黒岩の岩井神社、高負比古神社である田甲の高負比古根神社など、古い歴史を持つ神社があるにもかかわらず、朱印地を拝領していないことから、当時、当社が強い勢力を持っていたことが推測される。
 一方、口碑によれば、当社は、氏子の長島家の先祖が嵐山町鎌形からこの地に移って来た際に、鎌形八幡神社の分霊を奉斎したものといわれ、長島家の墓碑にも延宝己未年(一六七九)に当社を祀った旨が刻まれている。この、「延宝己未年」を当社の創建の年とすると、八石の朱印地を拝領した時には、神社がなかったことになり、話が合わない。また『風土記稿』には、当社に式内社の横見神社の後身であるとの伝えがある旨が記されていることから、かなり古くから当社が存在したことがうかがわれる。したがって「延宝己未年」は、当社の再建か、鎌形八幡神社の分霊を新たに祀った年ではないかと思われる。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
   社殿手前左側に並んでいる石碑群     社殿右側に接するように鎮座する境内社
                          左から稲荷神社・諏訪神社 
        
                          日当たり良く、広々とした境内。
 嘗てこの中曽根地区から上砂地区にかけて、古い河川の流路跡が見つかっており、江戸時代に実施された「荒川の西遷」の土木事業前の、元荒川が旧入間川と繋がる以前に存在していた乱流状況が少しずつ判明してきた。
 荒川左岸では、前砂地区から明用を経て三丁免小谷へとS字カーブを描くように蛇行し、最終的には荒川に流入する古い蛇行河跡があることが分かったという。その蛇行河跡は自然堤防も伴ったのだろうが、不思議と現在も道路として残っている。一方荒川右岸では明用三島神社東側から存在した流路がそのまま中曽根地域に進んだかはしっかりと判明はしていないが、中曽根八幡神社の東側に流れていた蛇行河川が、上砂地区に入ると、流路が南方向から反転して、埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線上を北上するような経路ではなかったかと筆者は推測する。

 流路に関しては、細かい所は議論の余地はあるかもしれないが、この流路時期はまさに「さきたま古墳群」の形成・発展時期でもある56世紀ではなかろうか。中曽根地区の北側で、荒川左岸には明用三島神社古墳がある。径55mの古墳埋葬者は、大河川が結節する地点を監視できる場所に本拠地を構築し、川関所を兼ねた津を経営する権力・能力によって力を蓄えた首長の墓であった可能性が高い。河川管理も勿論できたであろうが、その時期の流路も絶妙なバランスで、最高な位置状況だったのだろう。そしてさきたま古墳群の主とも対等な立場で交渉等行っていたからこそ、かの地にこのような古墳が作られたものと考える。                    

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上砂氷川神社

        
              ・所在地 埼玉県比企郡吉見町上砂24
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 上砂氷川神社へのルートは途中まで松崎八幡神社と同じで、松崎八幡神社からほぼ北方300mくらいしか離れていない。大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、そこを左折し、100m進行するとほぼ目の前に上砂氷川神社の社叢が見えてくる。
 残念ながら地元の集会所や社務所などもないため、周辺に駐車スペースはなく、県道脇一般道の適当な路肩に停めて、急ぎ参拝を行った。
        
                                       鳥居正面
        鳥居は県道沿いにある為、周囲の交通状態を確認し撮影を行う。
       
                       鳥居横に聳え立つ巨木
       紙垂等はなかったが、一番目立つ木であるので敬意をこめて撮影。

 決して大きな社ではないが、こじんまりと纏まっている印象。手入れも行き届いていて、日々の氏子様方の思い入れに感謝の念を感じられずにはいられない。
 一の鳥居を越えるとすぐに二の鳥居があり、その鳥居には「氷川神社」と彫られた社号額がある。
        
                                 拝  殿
        
                      拝殿手前にある御社殿造営顕彰碑
 御社殿造営顕彰碑
 當社の御創建は不詳であるが寶永二年十月宗源宣旨により氷川大明神の神号を授かり翌三年御社殿が造営される等往古より郷人が厚き崇敬を集めていたことが窺える。昭和五十年には御本殿覆殿の改築をなす等その尊厳護持に万全を期して参りましたが近年老朽化が進み御造営やむなしと思われし折東京都北区滝野川鎮座八幡神社宮司青井哲水氏より堂地御在住の氏子にして當地上砂ご出身の山本うめ氏(旧姓稲原)御社殿造営費御奉納の御趣旨を賜り早速に御造営委員会を発足して御造営に着手今般荘厳なる御社殿が竣工なり氏子一同感激の極みであり今後更なる正心誠意を尽くし祭祀の厳修と御神徳の宣揚を約し両氏の赤誠の御功績を末長く顕彰するものである。平成十八年十二月吉日
                                     
境内石碑より引用

 氷川神社 吉見町上砂一七七(上砂字窪町)
 比企郡の東部に当たる荒川右岸の低地には、氷川神社が南北に帯状に分布する。当社はこのうちの一社であり、大字上砂の鎮守として祀られている。
 『風土記稿』上砂村の項に「氷川社二宇 村の鎮守なり、観音寺持」とあるように、元来、上砂には氷川社が二社あり、それぞれ本田・新田の鎮守として奉斎されていた。本田の氷川社は稲村家の氏神として祀られ、後に本田の鎮守となったと伝えられている。稲村家の初代新左衛門は明暦年間(一六五五-五八)に没していることから、それ以前に創建したものと考えられる。本田・新田の関係からみて、その後の新田開発に伴い、この本田の氷川社を新田に分祀したものであろう。ちなみに、新田の検地は寛文十二年(一六七二)に行われた。
 宝永二年(一七〇五)には、二社共に神祇管領から大明神号を拝受した。これにより名実共に二社が村の鎮守としての地位を確立したことは想像するに難くない。事実、明和四年(一七六七)の「上砂村青蓮山観音寺起立書」には「正一位氷川大明神 二社惣鎮守免田有之」と記している。
 明治初年の社格制定に際して、本田の氷川神社はもともと稲村家の氏神であったことを理由に旧に復し、新田の氷川神社が村社に列した。これが、現在の当社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
          社殿の左右に鎮座する境内社(写真左・右)詳細不明。

 上砂氷川神社が鎮座する「上砂」という地名に関して、上砂の「砂」は文字通り単なる砂で砂地の意味で、地形的に見ても、荒川沿岸の河川から生み出される大量の砂地であるのでこの名が生まれたのであろうと当初は簡単に考えた。
 但し「新編武蔵風土記稿・上砂村条」において「小田原役帳に松山衆知行役狩野介卅七貫文吉見郡上須奈(すな)乙卯儉見辻と載せたり」との記述があり、江戸時代までは「砂」ではなく「須奈」という何気に雅な名称であった。
        

 大里郡神社誌において「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」とあり、その後寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。それより遥の世を経て、須永上野大掾藤原長春と云人あり(中略)。風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見える。

 つまり相上村吉見神社の神職「須長・須永」氏が存在していて、この須永は嘗て「須中・須長・砂永・砂賀」と表記されることもあり、上砂村の別名である「砂・須奈」とどことなく類似しているようにも見える。
 しかしこれ以上の考察は、却って筆者の自己都合の推論に陥る恐れもあり、今回は一応ここまでに留め、今後の宿題としたい。

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松崎八幡神社

               
               ・所在地 埼玉県比企郡吉見町松崎254
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 旧暦915日
 松崎八幡神社は、大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進み、2㎞程進むと埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点に到達するが、その手間のT字路を右折する。県道との交点手前右手にはコンビニエンス(ローソン吉見松崎店)があり、その手前のT字路からも見えるので、右折するのに間違いは少ないと考える。右折後300m程進むと左側に松崎八幡神社が鎮座する地に到着する。
 松崎八幡神社から南に50mまで参道が続き、鳥居から北側に車両を駐車するスペースが確保されていて、そこに停めてから参拝を行った。
        
               綺麗に整備されている鳥居周辺
 写真を見ると地元の一般道路と並んで砂利がひかれた状態で参道は続いていて、通常は駐車場として使われることも多いようだ。
        
                                   鳥居正面
 
           長い参道の先に松崎八幡神社境内が見えてくる。 
       境内も手入れも行き渡っていて、こじんまりと纏まっている印象。      
 
○御社殿造営記念碑 八幡神社 略史 
 松崎八幡神社の御祭神は応神天皇 神名を誉田別尊と称せられる 神社の勧請に関する文書は存在しない そのため御創建の年代は詳でないが 一つの拠り所として樹齢七百年と言われた 欅の御神木から勘案して 十二世紀後半のころと推察される
 
享保二年十一月の古文書に 当八幡神社に対して 正一位八幡宮の極位を奉授した 神衹管領勾当長上卜部兼敬の 宗源宣旨 宗源祝詞は神社の重宝古文書として保存されている 明治四年神仏分離令以前 当神社の別当寺は八幡山千乗寺であった 同年六月入間県へ村社として届済 昭和二十八年四月宗教法人八幡神社として設立承認される
 
平成元年二月二十八日 不慮の災禍により社殿を全焼する そのため氏子の総意により平成二年三月 御社殿を再造営した
 
尚御神木の欅は 火災の折猛焔に煽られ 大焼損を受け 枯朽の愁いがあるため 可惜のうちに 止むを得ず伐採の憂目を迎えた
 
「知って信ずる」これは現代信仰の基礎論である 我々は八幡神社の氏子として 神社の歴史を熟知し 産土の神を精神的核として崇敬し ひたすら神社の興隆と 郷土の発展を祈念するものである(以下略)
                                      記念碑より引用

 御社殿造営記念碑に記載されている「宗源宣旨」とは
 室町後期以降,江戸時代を通じ,吉田神道(唯一宗源神道)を宣揚し,神社,神職を支配してきた吉田家が,諸国の神社に位階,神号などを授けた証状。宗源は唯一宗源の略称で,吉田家に唯一相承されてきた神道をあらわし,宗源神宣ともいった。祭神に魚を奉ること,大明神号を授けること,鳥居を建てること,神輿を動かすこと,などさまざまの許可,授与の文書が発行されたが,なかでも神に対して位を授けることがもっとも多くみられた。
 以後、これによって吉田家は全国の神職のほとんどを傘下に収め、絶大な勢力をもったが、明治維新に至り廃止されたという。
        
                                        拝 殿
 八幡神社<吉見町松崎六五二 松崎字宮ノ腰
 当社は大字松崎(旧松崎村)の鎮守として祀られているが、元来は松崎・山ノ下二か村の鎮守として奉斎していた。
 松崎に隣接する山ノ下は、松山城の帰農武士である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女の五人によって開発された所であると伝える。
 山崎家文書の天和元年(一六八一)「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」によれば、元亀二年(一五七一)八月に隼人・兵庫・刑部・図書・采女一同の心願により山ノ下・松崎両村の鎮守として正八幡社を村境に勧請した。これが当社の創建である。
 境内にある石鳥居には「享保五庚子天(一七二〇)十二月吉日・松崎村中同山野下村・再建文政四辛巳年(一八二一)四月吉祥日」と刻まれている。また、『風土記稿』山野下村の項は「八幡社 当村と松崎村との境にあり、両村の鎮守にて、松崎村千乗寺持」と記している。これに見える別当の千乗寺は、八幡山と号する真言宗の寺院で、当社創建よりもそれほど下らない時期の開基であろう。
 明治四年に村社となり、この時に松崎村一村の鎮守となった模様である。平成元年に火災により社殿が焼失したが、翌年に再建された。
 なお、享保二年(一七一七)十一月二十七日付で神祇管領から拝受した宗源宣旨と宗源祝詞が現存する。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        拝殿に掲げている社号扁額          向拝に飾られる精巧な彫刻
 
       何気に木鼻部位にも細やかな細工を施した彫刻が飾られている。

 松崎八幡神社の北西500mにはポンポン山(玉鉾山:標高は約40m)がある。南側からの風景は、山というより、一面広がっている丘陵地の端部ではあるが、北側の河岸低地側から見ると、平均標高が15・6m程であるため、見た目断崖絶壁のように聳え立つような景観となる。
 丘陵頂部には高負比古根神社が鎮座するが、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列している。また玉鉾山(ポンポン山)北側には、嘗ては荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた壬生吉志氏との関わりが推測されている。同時に高負比古根神社のご祭神は味鋤高彦根命以下出雲系の神々が祀られているが、この味鋤高彦根命のご神徳は鋤を神格化した農耕神と言われているが、同時に「鋤=古代金属の精錬」に関連する存在を思い浮かべてしまう。
   
     境内にある青面金剛石碑            境内末社 詳細不明            

 松崎という地名も、意味深い名前だ。「松」は「町」の佳字と言われ、天津一族である饒速日尊の子供は、古事記に宇麻志麻遅命(うましまちのみこと)、日本書紀に可美真手命(うましまでのみこと)、或は味島乳命(うましまちのみこと)、天孫本紀に宇摩志麻治命(うましまちのみこと)、と見える。ウマシは「立派な」の意味。麻遅(まち)、真手(まで)、麻治(まち、まぢ)、真治(まち、まぢ)等は、摩乳(まち)のことで鍛冶道具の鎚(つち)の意味にもとれ、鍛冶集団の首領をウマシマチと解釈できる。マチは古代鉱山鍛冶師のことで町(まち)・待(まち、まつ)の字を用いていて、その後「松」と佳字変更したものと思われる。
 また「崎」は「浦」の意味であり、河川交通の要衝地であったことを伺わせ、「松崎」とは鉱山鍛冶海洋民の集落と解釈できるのではなかろうか。
        
                     今は静かで長閑な松崎地区。社殿からの風景。

 松崎八幡神社の鎮座地である「松崎」地区は、9世紀以前に創設された横見郡の延喜式内社(延喜式神明帳に記載された古社)が近郊に3社あり、さらに黒岩横穴墓群(7世紀頃の横穴式墓が500基)などの古い史跡とも隣接しており、早い時期から開発されていた地区と考えられる。


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西田気多神社

「当神社の創立は不詳なれども古よりの口碑によれば天正年間能登の国の気多神社の御分霊を奉遷して当字の守護神となし代々厚く崇敬し来り慶応二年二月拜殿を再建し明治九年五月村社申立済となる其の後氏子等生々発展今や四十二世帯二百五十余人に及び祭典に際し狭隘を感ずるに因り我等氏子相計り本殿外宇を新築し拜殿内に在りし本殿をこれに奉遷して拜殿を拡張せんと企て昭和三十年一月着工同年四月その竣工を見るに至れりかくして我等氏子は益々当社の祭祀を懇にし祭神大己貴命の御神徳にあやかりて当字の平和と各家々の福祉とを希わんとせり神祇を崇め祭祀を重んずるは我等の国民性にて政教の基本たり我等はこの祖先の遺風を継承すると共に更に茲に此の挙を刻して後昆に伝えんとす」
                     「
西田鎮守気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」より引用
        
              
・所在地 埼玉県深谷市西田428
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 410日 例祭 1016日 新嘗祭 1124
              *例祭は「大里郡神社誌」を参照。 
 西田気多神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、国道17号と合流してすぐの「西田」交差点を左折する。この道路は通称「西田通り」と言われ、交差点から南下すること500m程で、左側に西田気多神社の社叢が見える。
 駐車スペースはないので、適当な路肩に停めて急ぎ参拝を行った。
      
         正面にある社号標柱     気多神社本殿外宇建築竣工記念碑
        
                          入口に設置されている特徴ある両部鳥居
 深谷市西田地区に鎮守する。この地域は小山川と志戸川の合流地点の右岸に近接した位置にあたり、嘗ては河川の乱流地域であったことが、この鳥居の低さ、また基礎部分が頑丈なコンクリートブロックを2段重ねにしている所からも見て取れる。
      
               鳥居の左側に聳え立つご神木
        
                      こじんまりとした境内
 西田気多神社は、現石川県能登に鎮座する気多(けた)神社の分社である。同じ名称だが、この西田地区に鎮座する社は「気多」と書いて「きた」と読む。
「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」の由来以外に参考にする資料が少なく、大変編集するのに手間取ったが、推測も交えてこの社の由来等を考察することをお許し願いたい。
「埼玉の神社」での資料によれば、大体の由来記述は冒頭の「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」を根拠にして書かれている。その上で、「当社は、戦国時代に能登国から関東に逃れてきた落武者が祀ったものではないかと推測されている」として纏められている
        
                                   拝 殿
 旧岡部町には「田島氏」が多く存在する。新選武蔵風土記稿岡村条には
「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見える。
 小山川流域・岡村近郊には砂田村が存在していて、その砂田村より数百メートル南の17国道バイパス附近(道の駅)に榛沢郡の郡衙跡が発掘されており、既に奈良時代頃より多くの居住者がいた。目の前の砂田村が誰にも開発されず原野であったとは考えられず。砂田村住人は既に郡衙時代には土着していたと考えられる。
 明暦二年矢島村検地帳の砂田村境「字やじまたじま」と記載があり、隣地の砂田村には「砂田田島」の小名があって、田島一族の屋敷跡と推測される。砂田村は文明五年小山川の氾濫により、住民全員は高台の岡村へ移転し、滝瀬村字砂田の住民は滝瀬村へ移住した。本庄市史考藤田編に「滝瀬村字砂田の住民については、児玉党の末葉で滝瀬氏に仕へた久米要八の子孫が久米一族である。岡村字砂田は、古老の口碑によれば、文明元年に儀右衛門・善兵衛・藤蔵・武平治・国四郎、その他六人によって開発され、砂田村と称し、数十戸の居住者があったが、永禄四年岡村に全戸移転す」と書かれている。
        
 
   拝殿・向拝部(写真上段)及び木鼻部(同下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
 
社殿左奥に鎮座する「子供みこし庫」と稲荷社     社殿右側に鎮座する蚕影社

 田島家文書(森田藤五郎末裔の森田広太郎所蔵)の「榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者」には正平七年から明徳二年までのその地で「芝切」をした人物を時系列に記載している。
・正平七年 上野国田島より来り当所開発頭田島将監。
・延文四年 上野国小林村より来り当所芝切小林兵庫。右同年同所より来り当所芝切小林内蔵。
・貞治五年 田島氏分地より来り当所芝切森田藤五郎。
・貞治六年 上野国大胡在より来り当所芝切小暮小助。
・応安元年 上野国丹羽より来り当所芝切加藤六郎。
・応安五年 武蔵国妻沼より来り当所芝切大野重兵衛。
・永和三年 上野国新田庄より来り当所芝切武藤弥三郎。
・永徳三年 上野国新田庄より来り当所芝切矢内内遠。
・明徳元年 上野国伊勢崎在より来り当所芝切小此木四郎右衛門。
・明徳二年 上野国新田庄より来り当所芝切茂木与五助。
・明徳二年 武蔵国賀美郡金久保より来り当所芝切久保治郎七.
 右の者当所芝切の者並に発頭人は書面の通りに候故、子孫永々此書付大切に可仕候。
ここでいう「芝切」とは、「草深い荒地を開拓して新町村を設立すること、それを行った人。」との事で、近世に開発された新田村などでは,歴史的事実として,最初に荒野を切り開いて耕地と集落を設定した者の子孫の家を草分けとか草切りと呼び,実際にその村の名主,組頭等の村役人を世襲的に独占していたことも多いようだが、上記の内容では、別の地域の人々が当番制のように行っているようにも見える。
        

 旧佐波郡境町(現伊勢崎市)には「瑳珂比神社」が鎮座している。その創建時期に関して、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境地区ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(15211527)とされている。
 榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者の中に、明徳元年(1390)上野国伊勢崎在より来たという小此木四郎右衛門という人物との関係性をうかがわせる。
 結論から言うと、
能登半島出身の小此木左衛門尉長光の本名は「小此木」ではなく、「井上」であったが、この地に移り地名に因む「小柴(小此木ともいう)」を姓としたという流れのようだ。
        


 さて小此木左衛門尉長光は金山城主横瀬(※由良氏)の家臣であるが、横瀬・由良氏は岩松系の新田氏である。
 新編武蔵風土記稿岡村条には「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見え、田島将監経栄は観応三年(1352年)新田義宗笛吹峠合戦の役に従い、敗れてから本国である上州田島郷には帰らず、岡村に留まったことが記載されている。
 その子孫が岡村周辺に広がっていて、砂田村の芝切を通じて周辺を開墾し、その流れはすぐ西隣の西田村にも広がったとは考えられないだろうか。その開墾には同じ新田系由良氏の家臣である小此木一族が関連していると推測する。


 但し、田島氏は南北朝時期、南朝に属していた新田義貞の系列に対して、開墾を手伝った小此木氏の主君は同じ新田氏でも、足利氏に味方した岩松系の由良氏であったため、表立って由来所等に記載することは、田島氏の名誉にかけてできない。そこで、由来書き等には「誰が祀った」かは、うまくぼかしながら記載せず、後世の解説(「埼玉の神社」等)にも「能登国から逃れてきた落ち武者」が祀った、と誘導するように記述したのではなかろうか。       


      

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山河伊奈利大神社

   
               ・所在地 埼玉県深谷市山河636-1
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 祈年祭 227日 例祭 1015日 新嘗祭 1127
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。
 山河伊奈利大神社は、国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部」交差点を左折、北武蔵広域農道を南下する。高崎線と交わる高架橋を越えてから最初の交差点を右折。コスモス街道・正式名称は深谷市道岡5号線というらしいが、その道路を1.3㎞程進むと埼玉県道353号針ヶ谷岡線と交わる交差点があるので、そこを左折し、そのまま600m程進むと、交差点付近手前右側に山河伊奈利神社の境内が見えてくる。
 
社に隣接した社務所兼山河会館があり、会館手前には広大な駐車スペースも確保されており、そこに停めて参拝を行う。
        
                     
山河伊奈利神社正面
 深谷市「山河」地区は現在「やまが」と読むが、柏合村明治十三年八海山講碑には「山カハ」と見え、新選武蔵風土記稿にも「山川(ヤマカワ)」村との記載がある。
 
     道路沿いにある一の鳥居            案内板も設置されている。
 伊奈利大神社 
 所在地 岡部町大字山河六三六番地の一
 祭神  倉稲魂命
 沿革    当社の創建年代は明らかではないが、約0.7km西方の字茶臼山に位置する伊奈利塚古墳の上に祭られていたものをいつの頃か現在地に移したと伝える。
 当社の周辺には中世の館跡があり、だんだら山、または馬場屋敷と称されていた。現在は、わずかに痕跡をとどめる程度であるが、かつては、空堀を巡らしていたと伝えられている。この館は、山河村が戦国時代に深谷上杉氏の領地であった時、上杉氏により設置されたもので伊奈利神社は、この館の鬼門除として、館の丑寅(東北方)の位置に存在する。鬼門とは反対側に寺院(昌楽寺)が置かれた。
 当社は、嘉永二(一八四九)年、二月に燈明の火により全焼しているが、神殿は塗替のため長養寺に移されていたため消失をまぬがれている。
 現在の社殿は、嘉永五(一八五二)年に再建されたものである。
                                      案内板より引用
 
 参道は2本あって、左より伊奈利大神社への社殿に向かう正面道と、その右側に末社である八坂神社(写真右)へ向かう脇道(同左)があり、八坂神社の左隣には大国主命の石祠。さらにその右側は社務所兼山河会館、また火の見櫓も含めた広い駐車場がある。
        
                                   朱色の二の鳥居
                 参道の先には社殿が見える。
        
                                        拝 殿
 山河伊奈利大神社正面鳥居脇にある「県営土地改良竣工記念碑」によると、この山河区域は、嘗て耕道らしい道路もなく、屈曲も甚だしく、幅も狭い野道を利用し、また排水路も皆無の状態で、雨期や豪雨には野道が排水路化してしまう状態であった。また水資源にも乏しく、干ばつによる被害は甚大で、一部水田耕作する場所も天水による以外なく、種付不能箇所が所々に点在した状態であったという。
 そこで昭和411112日に岡部土地改良区が設立認可され、地域住民の一同の多年の願望であった道路並びに用水路排水路の新設、同時に土地改良基盤整備の施行となったとの記載がある。

 つい560年前の話ではあるが、嘗てのこの国の農業基盤はほとんど自然の恩恵による作物の出来高次第で決まる時代が長く続いていたのだという事がこの句碑からも分かる。
        
                  拝殿 向拝の龍
 
 拝殿の所々には見事な彫刻が施されている(写真左・右)更に極彩色豊かな素晴らしい本殿もあるという。案内板によれば、嘉永二年の火災の時には、偶々塗り替えの為に隣の長養寺に移されていて、焼失を逃れたそうだ。
 
   社殿奥に鎮座する石祠。詳細不明           富士御嶽塚か
        
                  境内社蚕影山神社
       近年まで養蚕倍盛の神として山河地区氏子の信仰が厚かったという。

 日本に養蚕が伝わったのは弥生時代とされている。今から約 1,700 年前に書かれた、卑弥呼の記述で有名な『魏志倭人伝』には当時の倭で養蚕が行われていたことが記されている。絹織物は上流階級の衣服として生産が続けられたが、庶民階級にまで普及されたのが江戸時代で、幕府は国内での養蚕を奨励し、埼玉県内でも秩父絹や小川絹、川越絹など、地名を冠した商品としての絹織物の産地が生まれる。
 安政 6 年(1859)、ペリーの来航によってそれまでの鎖国を解いて開港すると、諸外国との貿易が盛んになり、日本からの主な輸出品は蚕種(蚕の卵)と生糸、茶で、政府は重要な輸出品目を生み出す養蚕を奨励、埼玉県内でも村々へ桑を植えるように勧めるなど、養蚕を奨励した。

 山河伊奈利大神社では、養蚕がほとんど行なわれなくなった現在でも、当時の名残で、春季例大祭の祭典のときには「言別(ことわ)きて白(もう)さく」と蚕影山神社の神に祈願が捧げられるという。

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