古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

河内金鑽神社

 本庄市児玉町河内地区は、上武山地の二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央を小山川(旧身馴川)が流れ、小山川に沿って埼玉県道44号秩父児玉線が通っている。因みに河内と書いて「こうち」と読む。この地区の北側は山を隔てて元田・高柳・稲沢地区と接し、東側は小平地区、西側は稲沢地区、南側は太駄(おおだ)地区と、峠を隔てて長瀞町野上地区と境を接している。
 河内の地名に関しての由来は資料もなく不明だが、まず河川の地名が連想されるため、身馴川との関係が第一に考えられるが、別説では、嘗てこの地に移住した武蔵七党・河内氏の祖である河内権守家行やその子孫である家弘、忠家の官職名にちなむ地名とも考察される。
 歴史的には河内の地名が資料上に登場するのは、江戸時代に入ってからであるが、児玉党の系図の『武蔵七党系図』では、庄氏の一族である庄三郎忠家の注記に「河内」とあり、忠家の孫の友定の注記には「金沢」とあることから、「河内」は児玉町河内であり、金沢は隣地区・太駄に接している皆野町金沢と考えられている。
*「武蔵七党系図」
「有貫主遠峯―家行(児玉、武蔵権守、河内権守)―家弘(児玉庄太夫、河内守)―(庄三郎、河内)―家綱(小三郎)―友定(小太郎、号金沢)
               
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町河内25-1
             ・ご祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1687332,139.0999529,16z?hl=ja&entry=ttu  
 河内金鑽神社は、埼玉県道44号秩父児玉線を本庄市旧児玉町市街地から南側の皆野町方向に進み、小山川を越える新元田橋の手前を右折し、小山川に沿って通る道路を西行する。この道路は道幅が狭いので、道路周辺の安全を確認しながら1㎞程進むと、道路沿い右側に河内金鑽神社の鳥居が見えてくる。山の斜面に沿って石段が続いており、その先に拝殿・本殿と配置されている。拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。
 
武藏國二之宮 金鑽神社の分社十一社の一社でもある。
                
                            道路沿いに鎮座する河内金鑽神社
     小山川(旧身馴川)が南西から北東方向に流れ、その左岸段丘上に鎮座する。
         山間の鬱蒼とした森の間にポツンと鎮座する社という印象。
       
  鳥居の両脇には秋葉神社(写真左)、社日神・石祠(詳細不明・同右)が祀られている。
               
   山の斜面は思っている以上に勾配は急であり、角度のある石段を仰ぎ見ると拝殿が見える。
                
                                       拝 殿
 参道を登り終え、すぐに拝殿が設置されているような配置。一旦石段を少し下ってから拝殿方向にシャッターを切る。先人の方々もさぞや境内を整地するのが大変だったのだろうと想像される。
               
                             社殿脇に設置されている案内板
 金鑽神社 本庄市児玉町河内二五‐一
 □御縁起(歴史)
 河内は、小山川(身馴川)の上流に位置し、江戸時代に村の名主を代々努めてきた木村家の先祖の次郎五郎が永禄年中(一五五八~七〇)に開墾した所であるという。当社の境内は、河内の北端にあり、背後(北側)にそびえる三角形の山は、神川町に鎮座する武蔵国二宮金鑚神社の神体山に尾根が続いている。こうした立地からは、神川町の金鑚神社との関係の深さがうかがわれるが、氏子の間には、二宮金鑚神社よりも古いといわれている。
 社伝によると、当社は永禄年間(一五五八~七〇)の兵火により、社頭並びに吉什旧器のすべてを失い、元亀二年(一五七一)に木村次郎五郎が再建したとある。これは『明細帳』によれば、永禄年間に木村次郎五郎が開墾を行った際、諸種の困厄が生じたため、延喜式内社である金鑚神社に祈願したところ、速やかに奏功なったことにより、元亀二年に報賽として金鑚神社の分霊を勧請し、村の鎮守として祀ったのが当社の始まりであるという。『風土記稿』も、当社について「金鑚明神社、村鎮守なり、元亀中の鎮守と云、村持 末社 稲荷愛宕」と記している。
 その後、慶応元年(一八六五)には、神祇管領卜部(うらべ)良義の許可を経て、児玉大元神社と改称した。『郡村誌』に「児玉社」と記されているのはそのためであるが、明治三十二年に社号を旧に復した。
 □御祭神
 ・天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用
 

      拝殿上部に掲げてある扁額       奉納されたのであろう「日露戦争」の油絵
           
                              社殿のすぐ右側にある神楽殿
              金鑽神楽が奉納されるのであろうか。
               
                         特徴的な河内金鑽神社の幣殿・本殿
   拝殿より本殿が一段高いところにあり、幣殿が斜めになっている特徴ある社である。

 ところで河内地区には変わった字名(小字)が存在する。「本庄市の地名② 児玉地域編」を原本のまま引用する。
・神子沢
 身馴川(現小山川)に注ぐ沢の名前の一つに由来しますが、昔に帰化人の神戸氏が土着したとする説もあります。鉱山関係、つまり羊大夫伝説に関係するかもしれません。また山の神を祀っているのでこれに由来するかもしれません。
・経塚山
 羊大夫伝説とも関連し、鉱山の採掘成功を祈願して経を奉読したことに因むといわれています。
・つじ山
 群馬県西部から秩父郡内に伝えられている羊大夫伝説からきた呼び名と思われます。「つじ山」は「羊山」から来たもので、付近には金場や金仏などの地名があり、鉱山の採掘場に因むものでしょうか(『児玉の民話と伝説』上巻・『児玉風土記』ほか)

 伝説によれば、羊太夫は、武蔵国秩父郡(埼玉県本庄市児玉町河内(神子沢)羊山(ツジ山)には、羊太夫に関連すると伝わる採鉄鉱跡と和銅遺跡がある)で和銅を発見し、その功により藤原不比等から上野国多胡郡の郡司と藤原姓を賜り、渡来人の焼き物、養蚕など新しい技術を導入、また蝦夷ら山岳民と交易するなど、地域を大いに発展させたが、)(武蔵国高麗郡の)高麗若光の讒言により朝廷から疑いをかけられ、討伐されたとある。
              
                           拝殿側から見た鳥居の様子。
          山の斜面の勾配が急である事がこの写真でも分かる。

 河内地域が上記のように「羊伝説」関連の地域であるかどうかは現状何とも言えない。資料等があまりに少ないからだ。但しこの河内地域は南方に位置する「太駄」地域と共に、嘗ては交通の要衝地であったことは確かである。
 現在では、国道140号線や秩父鉄道が秩父と関東圏を結ぶ主要交通となっているが、嘗てはこの道路は荒川最大の難所であり、歴史的に近代に入り、開削されたものであり、前橋長瀞線や秩父児玉線が古代における交通の主体を成していたという。
 古代における児玉郡と秩父郡、さらに上野国との関係は密接で、政治・経済・社会の多方面での繋がりが考えられる。



参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」武蔵七党系図」Wikipedia」
「境内案内板」等

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小平石神神社

 神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象であった。
 いわゆる神道に属する多くの日本国内の神社も、元々はこのような神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えら、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られる。
 中には本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。

 
本庄市旧児玉町小平地区に鎮座する石神神社は、まさに山林の中の「森」に鎮座する社。残暑が残る10月中旬に訪れたが、境内に入った瞬間ひんやりとした涼しさを体一杯に感じた。
 昨今人口増加傾向にようやく歯止めがかかった埼玉県ではあるが、多くの自治体が今までの行政指導による宅地造成政策や、海外投資家による土地買い占め等により、多くの貴重な自然を損失する中、この小平地域周辺にはまだ自然と共生する文化が残っている。神川町に鎮座する金鑚神社同様に、規模は小さいながらも、この社にも社一帯から溢れ出す、どこか神秘的で、威厳のある空間は、まさに別次元だ。
先人たちが長い年月をかけて作り上げ、それを子孫が継承し、現在に至るまで熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちになった。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町小平1
             ・ご祭神 石神大明神(せきじんだいみょうじん)
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 祈年祭 33日 例大祭 1017日 新嘗祭 1123

 小平石神神社は本庄市児玉町小平地区東側の山麓中にあり、まさに静かな山林の中の鎮守の森と言う印象。南児玉カントリ-クラブの西側小平地区の奥、小山川支流小平川の上流域付近にひっそりと鎮座する。
 埼玉県本庄市児玉町から県道287号線を南下し、小平川にかかる秋平橋を渡って暫く進むと、「左 総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の案内板があるY字路を左折する。1㎞程進み、T字路にぶつかるのでそこを右折すると、山間の細い道路となるが、そこを道造に直進すると、右側に小平石神神社の鎮座する場所に到着する。
 正面鳥居の先には、駐車できる空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
              
                               石神神社 社号標柱
                     当社の住所確認をすると、「本庄市児玉町小平1」。
                       小平地区の中心にこの社は位置するのだろう。
        
                 小平石神神社 鳥居正面
         この周辺一帯に広がる空気感。何かが違うものを感じる。
 
            参道風景             参道を進むと左側にある神楽殿

 この小平石神神社では、秋の祭典の行事として小平獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。
 日光東照宮完成後、元禄 12 年(1699)に皆野町に伝わった獅子頭は彫刻の名人としてその名を知られる左甚五郎が彫ったという言い伝えのあるものを成身院覚桑上人が譲り受け小平に持ち帰ったとされている。
 獅子舞については、成身院の寺男が舞や笛の仕方などを考え、村の衆に習わせたことが始まりだと言われている。また皆野町椋神社の獅子舞から伝わったものだとも言い、疫病の厄払いと雨乞い祈願で舞われる。現在は春と秋の祭典の行事として春は日本神社に、秋は石神神社に奉納されるそうだ。

 また石神神社に奉納される神楽は「金鑽神楽」と言われ、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された13組の神楽組による神楽の総称であり、本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
 5組の神楽」は、本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西・モクサイ)、杉田組(四方田・シホウデン)、根岸組(小平・コダイラ)、太駄組(太駄・オオダ)がある。
 その中で根岸組は、明治初年に石神神社の社掌根岸虎平が大里郡用土村より神楽面と装束等を譲り受けて始まり、後に金鑚神楽に属したという。
        
                                         拝 殿
 
     拝殿各所の彫刻は見ごたえあり            拝殿上部に掲げてある扁額
        
                                        本 殿 
        
               拝殿左手前に掲示されている案内板

 石神(いしじん)神社 御由緒  本庄市児玉町小平一
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、小平の開発は天正のころ(一五七三-九二)に越後国から来住した根岸家三軒により行われ、この三軒は兄弟で、長男の家が後に名主職を務めたという。
 当社は小平の鎮守とされ、野鳥の森として知られる静かな山林の一角に祀られている。その創建には草分けの根岸家のかかわりが考えられるが、明らかでない。『明細帳』には「天正十九年(一五九一)社地ヲ開キ慶長元年(一五九六)九月二十九日創立」とあり、『児玉郡誌』には「天正十九年里人当地を開拓し、同時に社殿を建設して二柱大神を勧請せりと云ふ、御内陣に大なる石器二基を安置し(中略)其後地頭安藤家の崇敬厚く、神田若千を寄附せり。神階は明和五年(一七六八)に正一位を授けられ、神霊を御内陣に奉安す」とある。現在本殿には、石捧三体(全長八二センチメートル・九二センチメートル・一一〇センチメートル)と明和五年に神祇管領吉田兼雄より受けた「石神大明神幣帛」が奉安される。
『風土記稿』小平村の項には「石神社二宇 共に村の鎮守にて村民持」と二社の石神社が記され、この内の一社が当社であり、明治五年に村社となった。もう一社の石神社は無格社とされ、明治七年に神武神社(現日本神社)に合祀された。江期の祭祀状況については明らかでないが、明治期の祀職は吉野萬次が務め、その後を旧名主家で長を務めた根岸周平が継ぎ、更に根岸虎平-根岸俊雄と襲っている。
 □御祭神と御神徳 石神大明神…国土守護・五穀豊穣(以下略)
                                      案内板より引用
        
                社殿の左側に並ぶ境内合祀社
    左より雷電神社・山神神社・愛宕神社・東照宮・琴平宮・天手長男命・稲荷神社・八幡神社
       
                     社殿と合祀社の間に聳え立つ杉のご神木
       
             社殿右側にもケヤキのご神木があり、文化財指定の標柱が立っている。

本庄市指定文化財 石神神社のケヤキとスギ
石神神社は慶長元年(1596年)創立と伝える古社であり。社殿の右側のケヤキは目通しで5mあり、御神木とされている。また、社殿左側のスギは目通し4,6mを測り、ともに近隣では希な巨木である。
                                      説明文より引用


 
           ケヤキのご神木の右側に鎮座する境内社・天満宮
        
                    境内を撮影

 境内周辺に広がるこの威厳ある空気感は、もしかしたら社殿の両サイドに聳え立つご神木が与えたものかもしれない。但しこの感覚は決して筆者にとって、むしろ心地よい。


 私たちの祖先がずっと大切に守ってきた鎮守の森は、日本人の自然観と文化、豊かな日本の『こころ』を育んできた。また、鎮守の森で行われてきたお祭りは、地域の人々の心を纏め、コミュニティーの中核を担ってきたといえる。

 日本列島に遠く先史古代から祭られてきた神々の佇まいは、ほぼ等しく緑ゆたかな森に覆われていた。いわゆる神社は「鎮守の森」と言われているが、日本各地には人里近くに神社や御神木と呼ばれる大きな木を囲むようにして、こんもりとした大小の森が多く存在していた。また森そのものが鬱蒼とした畏敬の念を抱かせるもので、その存在自体信仰の対象でもあったろう。


参考資料 「
本庄市HP」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

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露垂根神社


        
                                                  ・所在地 栃木県佐野市富士町1007
              ・ご祭神 市杵嶋姫命 (配神) 天照皇大神 素盞嗚命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 4月第3日曜日(例祭)

 露垂根神社は栃木県道141号唐沢山公園線を佐野市市街地から唐沢山方向に北上すると、唐沢山神社の一の鳥居が見え、この一の鳥居のすぐ右手前隣に上記社の鳥居がある。ちなみに「露垂根」は「ツユシネ」と読む。鳥居のすぐ隣に唐沢山神社の一の鳥居が建てられているため、こちらはあまり目立たないのが残念で、この社も意外と立派な鳥居、長い参道、そして中々風格のある社殿があり、見どころも多い。
 駐車スペースは参道脇に数台分確保されており、そこに停めて参拝を行った。
        
                                                             露垂根神社正面鳥居
 唐沢山の登山口に鎮座している神社で、藤原秀郷が厳島神社を勧請して、この社を建立したと伝えられている。
        
                  
参道の回りは杉林があり、山水画に出そうな風景が広がる。
        
                     拝 殿
 主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)配神として天照大神(あまてらすおおかみ)、素盞鳴命(すさのおのみこと)が祀られている。
 藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐澤山に勧請。大永時15211528に笠松山の中腹に奉移し、慶長時15961615に現在の所に遷座された。明治5年、露垂根大明神を露垂根神社と改称した。
        
                     本 殿
      本殿の東、北、西側の壁には彩色鮮やかな「竹林の七賢」の彫刻がある。
        
                                境内に設置されている案内板

 露垂根神社 
 天慶5年(942年)、藤原秀郷公が安芸国厳島大明神を唐沢山に勧請。大永時に笠松山の中腹に奉移し、慶長時に現在の所に遷座された
 明治5年、露垂根大明神を露垂根神社と改称し、村社に加えられた
 大正8年、神饌幣帛料指定村社となった
 本殿の東・北・西の三壁に「竹林の七賢」の彫刻がある
【主祭神】市杵嶋姫命  (配神)天照皇大神・素盞嗚尊       
                                    境内案内板より引用


「露垂根」という神社名の由来を調べようとしたが、どうしても分からなかった。どちらか知っている方はいないだろうか。
 
   社殿の左側にある神興庫(?)と         境内社 四十九勝神社
  その周囲には数々の石祠が鎮座している。         詳細等不明。

      

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太平山神社

 太平山(おおひらさん)は、栃木県南部の栃木市にある山で、標高は341m程の所謂低山である。太平山は「太」と書くのに対し、行政区画上属する旧大平町(現在の栃木市大平地域)は「大」と書く。これは、旧大平村が合併発足した際に、画数が4である「太」の字を忌避したためと言われている。
 栃木市の中心街から西へ約5㎞の場所に位置する太平山は、桜やあじさいの名所として親しまれている。頂上近くの謙信平からは関東平野が一望でき、眺めの良い場所からは、晴れていれば東京スカイツリーや西新宿高層ビル群、富士山を眺めることもでき、地上が霧になると霧の上から島のように付近の山々がみえることから「陸の松島」とも言われている。
 また民間の組織である日本夜景遺産事務局が選定する日本の夜景地の中で、特に芸術的価値を有すること、土地柄が表れていること、所在地に大きな文化的影響を与えていること等の8つの基準に基づいて選定されている日本夜景遺産には大平山も認定されている。
 当社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったのであろう。
        
             
・所在地 栃木県栃木市平井町659
             ・ご祭神 瓊瓊杵命・天照皇大御神・豊受姫大神
             ・社 格 旧県社  創建 827年(天長4年)
             ・例 祭 例大祭日 1018日 他 

 太平山神社(おおひらさんじんじゃ)は、栃木県栃木市、太平山(341m)の中腹にある神社で、春の桜、6月のあじさい坂の紫陽花、秋の紅葉で知られる。
『延喜式』巻910神名帳 東山道神 下野国 都賀郡「大神社」に比定される式内社(小社)の論社であり、近代社格では県社。
『諸神座記』などによれば、第11代垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現 太平山)に鎮座したのが創祀と言われている。
 古くより太平山の頂上から栃木市を見守る 1,000段に及ぶ長い表参道の石段を登ったところにある神社である。『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827年)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」という。後代、武門をはじめ多くの人から信仰を集め、特に徳川将軍家の信仰が極めてあつかったことから、社運は隆盛し、今日に及んでいる。
 神社拝殿の傍らにはたくさんの境内社があり、交通安全、安産、豊作など沢山の神様が祀られている。
                    
                    県道沿いに聳え立つ大鳥居
 栃木県道269号大平山公園線の永野川を越え、西行すると、すぐ太平山神社の大鳥居を間近くに仰ぎ見ることができる。
 この通りをそのまま直進し、國學院大學付近から右折して山間を進みながら最終的に社の近郊の無料駐車場に停めてから参拝を行った。
        
                        無料駐車場付近にある鳥居

 近道で社の近郊に到着することは出来たが、やはり正当な参拝を行うことに拘りがある為、一旦社殿等を素通りして、長い石段を下り、青銅鳥居まで到着後、改めて参拝を行った。
(本来は一の鳥居からが正しいのだが、あまりに長く、また足腰の状態も完治していなかった為、青銅鳥居からスタートした。それでも十分に険しい行程だ)
        
             青銅鳥居。その右側には社号標柱あり。 
  傾斜はさほど出ないが、長い石段が続く。   石段を上る途中には、清らかな清水が流
                        れる所があり、紙垂も添えられている。
             
                         参道途中、手水舎付近に屹立するご神木
   太平山神社の御神木(杉)。樹高 35m  目通り幹囲 5.7m 推定樹齢 1,000年。
        
                                      隋神門

 ご神木を越えると石段の傾斜が急になり、道路に面した先に隋神門がある。太平山神社への入口 太平山神社の少し下にある門。1723年、太平山神社の下に寺院があった時に仁王門として建てられたもので、 明治の神仏分離令によって寺院は別の場所に移ったが、門はそのまま残された。
 栃木市指定有形文化財 指定十六号  昭和三十六年十二月二十一日指定。
       
 隋神門を越えてから、また急勾配な石段を登り始める。左の写真はある程度登ってから下を撮影した。また登り石段の中段には社号額に「三光神社」と表記されている鳥居(写真右)がある。
        
                        石段もここで終了し、やっと神門に到着。
             やはりこの門も神仏習合の雰囲気が漂う。
        
                               拝 殿
      
    拝殿前には「撫で石」と呼ばれる大きな        拝殿左側にある社のような
    石があり、この石を撫でると災厄が祓わ         社務所
    れ、ご利益があるといわれている。

 太平山神社の境内には、4260柱あまりの様々な神様が祀られている。交通安全、金運、子授け等、様々なご利益のある場所として大切にされている神社である。それぞれが、なかなか立派なので、本殿に近い境内社から順に紹介する。
 
      本殿のすぐ右隣にある交通安全神社                その右並びには福神社
     祭神は猿田彦之神…交通安全に御利益          祭神は天之受売命、恵比寿神、大国主命
                                               …芸能上達、商売繁盛、五穀豊作等の御利益 
        
 福神社の隣には、一見お寺のような社。神仏習合の名残りとの事だ。この一つの社殿には、三社鎮座し、それぞれ以下の神々が祀られている。
・天満宮・文章学社 菅原道眞 (配祀) 思兼命
・星宮 天加加背男命 磐裂神 
・子易神社・易産社 子易大神(木花咲耶姫命)
「星宮神社」は学問成就・雷除け・豊作・芸能上達・子授・安産・女性の守護神のパワースポットとして有名である。
 また星宮の左側に小さな石祠がある。蛇神社といい、蛇神様と言う金運守護の神様をお祀りしている。
        
 星宮神社等の社の隣には3つの稲荷社が合祀された社が鎮座する。
 太平山稲荷神社、御蔵稲荷、伏見稲荷の三社で、それぞれ豊宇気毘売神、倉稲魂命、宇迦之御魂神をお祀りしている。
 また稲荷社の隣には三輪神社…大物主大神、大己貴大神、少名彦神の3神をお祀りする。
 三輪神社の右並びには足尾神社…日本武尊がご祭神。下駄が奉納されている足の神で、天狗様としても信仰されている社。
 
 足尾神社の隣には八社が長屋状態に祀られて,「皇大神宮・稲荷神社・厳島神社・上宮神社・天満宮・大杉神社・織姫神社・浅間神社」が祀られている。(写真撮影は出来なかった)

 
 八合祀社の隣に鎮座する愛宕神社・八幡神社(写真左)。愛宕神社は、火之迦具土神を祀っていて、火除け、盗難除けに御利益があり、八幡神社は、誉田別尊、比売神、神功皇后の3神を祀る勝負運に御利益がある社である。
足尾社の参道を挟んだ展望台側には神馬社(同右)。神様の乗り物である神馬がいる社で、中には木造の馬の像が安置されている。

        
                    太平山神社の展望台からは関東平野が一望できる。

 嘗て戦国時代、関東管領上杉氏を襲名した戦国武将上杉謙信がその眺望の見事さに感嘆したことから「謙信平」とも呼ばれている。眺めの良い場所からは、晴れていれば東京スカイツリーや西新宿高層ビル群、富士山を眺めることもでき、地上が霧になると霧の上から島のように付近の山々がみえることから「陸の松島」とも言われている。


 また太平山神社の元々お祀りされた神様は奥宮(剣之宮・武治之宮)に鎮座されていて、歩いても5分程の近い場所に鎮座している。但し時間の都合上参拝は出来なかったので、案内板の紹介のみしたいと思う。

太平山神社奥宮(劔宮(つるぎのみや)・武治宮(ふじのみや))
ご祭神】天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)
ご神徳】天下太平・製鉄関係の産業の発展・諸願成就
 天目一大神は、垂仁(すいにん)天皇の御世、東国を平定するために太平山に鎮座されました。武徳を以て国土を護治する天目一大神が坐す太平山神社の奥宮は「武治宮」と呼ばれました。また、天照大神の窟隠れのときに天利霊劔を造作した神様でもあるため、劔宮とも呼ばれました。劔を作って神威を助けたところから、悪を制して善を育み、世の中を良くするご神徳があります。鋳物や製鉄関係の産業の安全・発展をおまもりする神様でもあります。
                                      案内板より引用



参考資料 「栃木県観光協会HP」Wikipedia」「日本夜景遺産 公式サイト」等
          

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天狗山雷電神社

 下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬあそんこまろ 生誕不詳~死没709)は飛鳥(あすか)時代の官吏。10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の後裔を称する皇別氏族である下毛野君を出自とする貴族で、下野国河内郡を本拠地とした。この下毛野君一族が下野河内郡に下野薬師寺を建立し氏寺としたと云われる。
 古麻呂が初めて史料に登場するのは、『日本書紀』の持統
3年(68910月が最初で、この時すでに中央貴族である直広肆(じっこうし・大宝律令では従五位下に相当)の地位にあったという。その後大宝律令の撰定に参画し,藤原不比等,粟田真人らとともに,その中心となって活躍した。701(大宝1)3月に大宝令の一部が施行されると,その翌月古麻呂は右大弁として諸王・諸臣に同令を講じている。その時古麻呂は「式部卿大将軍正四位下」の地位で、文官としてだけでなく武官としての立場ももっていたことを示していて、「大将軍」とあるのは、この下野国という地が、対東北政策上きわめて重要な位置にあり、任地に赴く武官の長としての技量も持ち合わせていたのだろうと推測される。和銅2年(709)1220日死去。
        
            
・所在地 栃木県下野市薬師寺1509
            
・ご祭神 賀茂別雷命
            
・社 格 不明
            
・例 祭 天狗山雷電神社祭 427日 1117

 天狗山雷電神社は下野市薬師寺地区にあり、薬師寺郷鎮守八幡宮の参道脇に鎮座する。下野市の国道4号バイパス「薬師寺」交差点沿いに、「道の駅しもつけ」があり、その交差点から栃木県道310号下野二宮線、通称「砂ヶ原街道」に合流して200m程西進する。最初の押しボタン式の信号の右側角にはガソリンスタンドがあり、その交差点を右折しると「薬師寺八幡宮」の看板が見えるので、そのまま300m直進すると薬師寺郷鎮守八幡宮と天狗山雷電神社の鳥居が正面に見える。
 鳥居の手前には「八幡宮駐車場」が道路沿い右側にあり、そこに停めてから最初は薬師寺郷鎮守八幡宮、その後天狗山雷電神社の参拝を行った。
        
                 天狗山雷電神社正面鳥居
 当所は薬師寺郷鎮守八幡宮に合祀されていたが、明治100年を記念して、昭和44年に神徒らが集いて再建、現在は八幡宮の別宮となっている。
 創建時期は不明とのことだが、京都賀茂別雷電神社より御察神を勧請し、以後、五穀豊穣をはじめ殖産の守神として尊崇されてきた社。信心深い農夫の前に天狗に姿を変えた大神が現れ、雷を起こさないように誓ったという伝説が言い伝えられている。創建当時は、雷(いかずち)の雷電宮(らいでんぐう)と称されていた。
        
                                       拝 殿
「天狗山」という称号だけあって、拝殿上部にある扁額の周囲には天狗の面が飾ってある。
 扁額の右側にある奉納額には
「平成十八年一月をもって、我が町南河内町は、国分寺町・石橋町との三町合併により、新たに下野市となる。
 茲に悠久の歴史を秘めたる地名の消失を鑑みつつ新たなる下野市の地名に敬意を表し、記念の額を奉納して永く顕彰する。
 平成十七年十一月十七日 天狗山雷電神社 氏子総代会」
 と書かれている。
        
                    拝殿内部
        
              境内には案内板も設置されている。

 天狗山雷電神社
 御祭神 賀茂別雷命(カモワケイカズチノミコト)
 祭日 四月二十七日 十一月十七日
 御神徳 殖産の神 雷除 災難除 電気の守護神
 由来沿革

 往古、鎮守八幡宮の参道入口に鎮座すと伝える古社。
 京都賀茂別雷神社より、御祭神を勧請。以後・五穀豊穣を始め殖産の守り神として厚く尊崇されてきた。其の当時は雷(イカズチ)の雷電宮(ライデングウ)と称していた。明治百年を記念して、昭和四十四年氏子、神徒ら集いて鎮守八幡宮に合祀されていた雷電神社を再建した。
 伝説

 其の昔、この地は鬱蒼とした社で、その森深くに雷電宮が鎮座していた。
 ある日、一人の農夫が雷電宮に願いを捧げていると、天狗に姿を変えて顕れた大神が「其の願い聞き届けられたり」と申し、此の地には雹等の災害を起こさないと誓ったとされ、それ以来雷の雷電宮を、天狗山雷電神社と改め大層厚く崇敬されたと伝えられています。
                                      案内板より引用

        
                                        本 殿

参考資料 
Wikipedia」等
                                  

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