広野八宮神社
・所在地 埼玉県比企郡嵐山町広野927
・ご祭神 建速須佐之男命・大己責命・稲田姫命
・社 格 旧村社
・例 祭 春季祭典4月3日 秋季祭典10月19日
広野八宮神社は杉山八宮神社同様に関越自動車道・嵐山小川ICの南西側に位置する。埼玉県道69号深谷嵐山線を武蔵嵐山駅方向に進み、「玉ノ岡中学校入口」交差点から2番目のT字路を左折するが、その道は非常に細いので、対向車量のすれ違い等には注意が必要である。
因みにこの社の住所地である嵐山町広野字深谷の「深谷」は「ふかやつ」と読むそうだ。
地図を確認すると、杉山八宮神社からは直線距離にして南東方向700m程しか離れていない近距離にこの社は鎮座している。
広野八宮神社の創建年代等は不詳であるが、貞観10年(868)小川町下里の八宮神社を総社とし、近郷七ケ所に分霊された社の一社で、承平年間(913-938)には経基王が平将門征伐に際して戦勝祈願したと伝える。江戸期には広野村の鎮守として祀られ、当社隣接地の修験泉覺院が別当を勤めていた。
社に通じる県道のT字路を左折すると細い農道となるが、嘗ての参道となっているようで、その参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群(写真左・右)が並列している。
庚申塔は庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことである。この庚申信仰とは平安時代に中国から伝わった進行と言われ、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰とされている。
60日に一度めぐってくる庚申の夜は言動を慎み、健康長寿を祈念する行事を庚申待ちという。庚申待ちという行事は室町時代に講が結ばれ、江戸時代になると村の講中のものが徹夜で酒食をとるように変化し、村人の連携強化の手立てのひとつとして盛んに行われるようになったといわれる。
庚申塚に建てる石塔には青面金剛 (しょうめんこんごう) と三猿 (さんえん) を彫っているケースもある。
この広野地域の深い信仰心と人びとの強い結束力があって建てられたものであり、当地における貴重な文化遺産ともいえよう。
「百庚申」を左側に見ながら参道を進むと、正面はうっそうとした社叢に覆われる(写真左)。そのまま進むとなだらかな上り坂となり、階段の先に鳥居が見えてくる(同右)。
風格ある両部鳥居
鳥居の底部あたり、少々朱が落ちている部分もあるが、却って歴史の深さを醸し出している。
ところで鳥居の先で右側に建物らしき建造物があったが、鬱蒼とした樹木の中に隠れてしまい、確認できなかった。その後編集途中で分かったことだが、鬼神神社が鎮座していた。こちらは川島町にある鬼鎮神社(比企郡嵐山町川島1898)の奥宮であるとされるそうだ。
参道を進むとその先に拝殿が見えてくる。
拝 殿
八宮神社 嵐山町広野九二七(広野字深谷)
桑畑に囲まれた参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群があり、そこを過ぎると「八宮明神社」の額の掛かった鳥居がある。鳥居から社殿までの参道は緩い坂になっており、その東側には、元は泉覚院と呼ばれる修験で八宮神社の祭祀に深くかかわってきた宮本家がある。
当社の由緒は『比企郡神社誌』に「本社は清和天皇の貞観十年(八六八)本郡小川町下里の八宮神社を総社とし近郷七ケ所に分霊を祀るといふ。当社は其の一社として鎮祭し、爾後、承平年中(九一三-三八)源経基公東征の際当社に戦勝を祈願せしと伝ふ」とあるのが最も詳しく、『明細帳』では「由緒不詳」としか記されていない。また『風土記稿』には「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持」「泉覚院 本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」と載る。
旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである。
「埼玉の神社」より引用
境内社 琴平神社・榛名神社
ところで「宮本家」は旧泉覚院と呼ばれる修験で、八宮神社の氏子総代を務め、祭祀に深く関係のある家であり、近郊に鎮座する杉山八宮神社には明治十六年筆子碑に広野村「宮本広野」という人物も存在していた。
【新編武蔵風土記稿】
・「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持ち」
・「泉覚院本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」
旧泉覚院の総元締めは男衾郡板井村長命寺だが、男衾郡板井村と畠山氏の本拠地である畠山地区は近距離であり、決して偶然ではない。
「埼玉の神社」によれば、「旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼神神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いとして多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである」とされている。
この中にある「鬼神神社」は川島地区に鎮座する「鬼鎮神社」の奥宮と謂われているが、この川島「鬼鎮神社」は畠山次郎重忠が寿永元年(1182)菅谷館を築誠するに当たり、鬼門除けの守護神として奉斎されたと伝えられていて、重忠とは深い関係にある社といえる。同様にその奥宮である「鬼神神社」も重忠と無関係な社ではないと考える。