黒山熊野神社
荒川水系越辺川源流部の三滝川にかかる男滝(おだき)、女滝(めだき)と、支流の天狗滝の3つからなる。落差10 mの男滝と落差5mの女滝は2段に流れ落ち、上が男滝で下が女滝となっている。落差20 mの天狗滝は男滝・女滝と少し離れた所にある。霊山に天狗が住むということからこの名が付いたとされる。
毎年7月の第1日曜日には1951年に県立黒山自然公園に指定されたのを機に始められた滝開きの儀式が神主・巫女・僧侶・修験者・天狗によって執り行われる。
室町時代に山岳宗教修験道の拠点として開かれ、滝周辺にはいくつもの宗教施設が作られ修験者の修行の場として知られてきた。また、越生町津久根出身で江戸吉原遊廓の副名主だった尾張屋三平が、男滝・女滝を男女和合の神と見立てて江戸に紹介し吉原の信仰を集めた。そのとき三平が建てた道標は現在も黒山三滝入口付近に残っている。
天狗滝の奥の大平山には、修験者栄円の墓や役小角の像がある。
2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
・所在地 埼玉県入間郡越生町黒山674
・ご祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
・社 格 旧村社
・例祭等 不明
地図 https://www.google.com/maps/@35.9422552,139.254235,17.04z?hl=ja&entry=ttu
大満八幡神社から埼玉県道61号越生長沢線を3㎞程南下すると、県道沿いに鎮座している黒山熊野神社。県道を走り、社に近づくにつれて、一際目立つご神木である立派な一対の大杉が目印となる。社の手前には「黒山三滝 町営駐車場」も完備されており、そこに車を停めてから参拝を開始する。
黒山熊野神社正面
この地は越辺川源流域に位置し、川底が透けて見える程綺麗な越辺川が社の対岸にあり、一とき目を閉じると、川のせせらぎが耳奥に心地よく響く。周囲は山奥独特の深い森林が広がり、深呼吸をすると、体一杯に綺麗な空気が体内の余計な異物等を排除してくれるような心地よい気持ちになる。
社から道路を隔てて南北方向に流れる越辺川(写真左・右)
ときがわ町・鳩山町同様にこの越生町の河川も清流が非常に多い。
この社の前に参拝した龍ヶ谷熊野神社の印象は、人が日々織りなす喧噪から完全に隔絶された別次元の世界が広がり、社全体を囲む深き森と、苔生した様が何とも幻想的な石段、そして規模は小さいながらも随所に精巧な彫刻が施された立派な社殿が相まって、周囲一帯に広がる閉鎖的な暗がりの世界が、逆に社の神聖性・荘厳さを増長する演出がされているのに対して、黒山熊野神社は、同じく深い森には囲まれているが、県道周囲が民家も立ち並び、観光地化もなされていて、社周辺は明るい雰囲気が広がっている。おそらくは、「黒山三滝」の玄関口にあたる場所に鎮座している関係もあるのであろう。
龍ヶ谷熊野神社とはまた違った五感を刺激する不思議な余韻がこの社周辺には存在する。
味のある黒山熊野神社の石段
嘗てこの黒山地域は、修験道の霊場としての歴史があった。修験道とは、古代日本において山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、日本独自の宗教・信仰形態で、修験者(山伏)が深山幽谷で厳しい修行を積んで超自然的な霊力を得る事を目的とした神仏習合の宗教で、平安時代から盛んになった。各地に修行場が開かれたわけであるが、その中でも、熊野三山への信仰は、中世には貴賤老若の参詣者が列をなし、「蟻の熊野詣」と呼ばれる程、隆盛を極めたという。
黒山熊野神社正面参道両側に対となり聳え立つ大杉のご神木
この大杉2本は越生町景観樹木として、平成12年4月1日に指定を受けている。
石段の踊り場付近に設置されている社号標柱
『新編武蔵風土記稿 黒山村』
熊野社
慶安二年社領三石の御朱印を賜ふ、當社は西戸村山本坊の進退する處なり、按に堂山村最勝寺に藏せる、大般若經の奥書に、應永廿四年五月十九日、武州入西郡吾那越生鄕、新熊野常住執筆良觀と記し、及同年六月廿日武藏國吾那小山一乗坊新熊野など記せしもあり、當社は元より山本坊の預る所なれば、自ら別社なるべけれど、又此越生の内に小山と號する所も、今其地なければ彼新熊野と云もの、當社のことなるも知べからず、
神樂堂 本地堂 藥師の像を安ず、春日の作なりと云、
天王社 是も山本坊の内、
金毘羅社
愛宕社
山祇明神社 百姓持、
石段中腹附近に建つ趣のある石製の鳥居
室町時代の応永年間(1394~1428)、箱根権現社の別当であった相馬掃部介時良入道・山本坊栄円は熊野神社を黒山に勧請し、関東に修験道を広める拠点とした。熊野神社を熊野本宮大社、天狗滝を熊野速玉大社(新宮)、男滝・女滝を熊野那智大社に擬え(なぞらえ)、黒山一帯を熊野三山に見立てた「関東の熊野霊場」として整備した。
栄円の出自は不明ながら、「相馬」姓であることから、平将門の13代目の末裔であると伝えられていて、応永年間に創建した当時の棟札は「将軍将門宮」と称していた。更に、氏子の口碑にも平将門を祀るとも伝えるため、当初は平将門が祭神であったという。
黒山の大平山には、修験道の開祖である「役行者」の石造の並びに山本坊栄円の供養塔があるが、そこには「山本開山 権大僧都 栄圓和尚」「応永二十年□十月日」の銘が刻まれている。大平山に役行者像が造立された元治2年(1865)から明治初年頃に刷られたとされる木版「武藏国大平山略図」には、薬師堂・愛宕・天王・蔵王堂・不動堂・長命寺等が記されていて、そのことは『新編武蔵風土記稿 黒山村』熊野神社に列して記載されている寺社にも同様の名称があり、当時は様々な信仰施設が配置されていたことが伺われる。
後に山本坊は文禄3年(1594)に(現)毛呂山町西戸地域に本拠地を移した後も、「越生山本坊」と称して、京都聖護院を本山とする「本山修験二十七先達」として、関東一円の「霞」と呼ばれる配下に影響を及ぼしていたという。
鳥居の先には直接社殿に達する石段の他に、フラットな傾斜の脇道もある。
龍ヶ谷熊野神社同様に、この社の石段にも程良く苔が生していて、風情のある景観を成している。
黒山熊野神社社殿
熊野神社
当地は越辺川の上流、秩父山地の山間の地に位置する。黒山の地名は、地内の一帯に古生層の黒っぽい岩石が露出していることに由来する。中世の文書には既にその名が見えるが、開村は更に古いと伝えられる。
当社は、応永年間(一三九四-一四二八)、箱根権現社の別当であった相馬掃部介時良入道山本坊栄円が当地に移り、本山派修験の大寺であった山本坊を開山するにあたって勧請した社で、熊野大権現と称し、この時、不動堂・赤堂・長命寺と共に建立されたと伝えられる。しかし、棟札によれば応永五年二月の造営で、「将軍将門宮」となっている。更に、氏子の口碑にも平将門を祀るとも伝えるため、当初は平将門が祭神であったことがうかがわれる。
慶安元年には三石の朱印地を社領として賜っている。明治五年の社格制定にあたっては、村社となり、社号を従来の熊野大権現から現行の熊野神社に改めた。更に、同四〇年には同大字内にあった字清水の八雲神社、字東の愛宕神社、字東の榛名神社、字原の神明神社の四社を合祀している。
主祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命である。
なお、昭和六〇年一一月六日不審火により社殿が焼失している。
「埼玉の神社」より引用
社殿に掲げてある扁額 社殿奥にひっそりと祀られている境内社
詳細不明
境内に設置されている「熊野神社社殿建設誌」
熊野神社社殿建設誌
熊野神社の創立は詳ではないが寛永年間の頃より祭祀されたと云われています 長い間鎮守様として信仰し崇敬されていましたが不幸にして昭和六十年十一月不審火により焼失
氏子崇敬者の浄財神社関係者復興資金竝に神社山林の一部の売却代金を建設資金として再建された
一 昭和六十一年十一月起工式
一 昭和六十二年三月上棟式
一 同年九月 熊野那智大社より御分霊の拜戴
一 同年十一月 御分霊の遷座祭
一 昭和六十二年十一月 社殿の落成
一 昭和六十三年四月 鳥居、御水舍の再建、玉垣の建設、祭典幟の新調
一 総工費 参阡四百参拾萬國也
熊野神社建設委負会
「熊野神社社殿建設誌」より引用
石段手前で右側には道路に面して広い空間が広がり、そこには社務所らしき建物2棟あり、(写真左)また町で設置されているステンレスプレートもあった。(同右)
黒山熊野神社から県道を南下すると、「黒山三滝」入口に達する路地に至る。
そこまで徒歩にて越辺川上流域を愛でながら散策する。
「黒山三滝入口」
『新編武蔵風土記稿 黒山村』
男瀧女瀧
二瀧共に村西にあり、男瀧は岩石壁立せる山の中腹より飛流す、長さ一丈許、激勢いと甚し、此流壺より、又飛流せる七八尺の瀑あり、此を女瀧と呼ぶ、男瀧の落口は幅二尺許、女瀧は幅三尺許、女瀧の瀧壺より流出る水一條の流となり、谷間を屈曲し、村の中央にて河ぶり峠より出る清水に合す、其下を黒山川と呼べり、
黒山川
前にいへる如く、二流合しての後の名なり、下流は大滿村に至て、越邊川に落入れり、
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「埼玉の神社」
「越生人物往来PDF」「Wikipedia」「境内社殿建設誌」等