川角八幡神社
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角1233
・ご祭神 (主)誉田別尊 (相)天照皇大神 春日大神
・社 格 旧川角村鎮守・旧村社
・例祭等 例大祭10月10日前後
東武越生線川角駅から北方向に進むこと1㎞程、埼玉県道114号川越越生線と交わる信号のある丁字路に達し、そこを左折する。県道を西行すること1.3㎞程にて「川角」交差点に到着、そこを右折する。道幅の狭い道路ながら両側には新旧の住宅が立ち並び、速度を落として安全に進んでいくと、正面遠方には越辺川右岸の豊かな山林が一面に広がり、その中に川角八幡神社の石製の白色鳥居が小さいながらもハッキリと見えてくる。社とは道を挟んで東側に「社務所・集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
川角八幡神社正面
『入間郡誌』による川角村の解説によれば、「川角村は入間郡の西北部に位し、北は比企郡今宿村に境し、東北に入西村あり。東南に大家村あり、西に毛呂村及越生町あり。川越町を去る四里。地勢西北境は丘陵なれども、村内概して広濶なる平原地にして、林野連り、河流の流域には水田を見る。土質も西北部は粘土或は砂土にして、其他は大抵黒色若くは赤色の軽鬆土也。農業の外、養蚕、製茶等の業盛にして、絹、麦、米、茶等は主要なる産物也。川角、西戸(さいど)、箕和田(みのわだ)、苦林(にがばやし)、大類(おおるい)、西大久保、市場、下川原の八大字より成る。
川角村の地方古墳甚だ多し。殊に大字川角の東部及其飛地玉林寺の如きは其類頗る多く、玉林寺には一望一二町歩の間、約二十七八個の古墳を存する処あり。古は殆ど一面の古墳なりしならん土人呼で塚原と云ふ。塚を崩して出てたる玉石は道路普請等に用ゐ、石棺の板石は橋梁敷石等に用ゆ」と記載されている。
また同じく『入間郡誌』には「大字川角」の解説も載せていて「川角は元川門とも記し、村の西部より中央部に及び、別に大類を隔てゝ、玉林寺と称する飛地を有せり。戸数一百十余。鎌倉街道の跡は其東部にあり。道に接して寺地の蹟あり。宿駅の存せし処あり。今や草生蟲嗚古の面影を見るべからず。小室氏、清水氏、岸氏、仲井氏を以て古しとなす」と、嘗て川角村は「川門」と記されていたこと、また「玉林寺」と称する飛び地がある事(現在でも同じ地に飛び地はある)等を解説している。
入り口付近に建つ「道祖神」の石碑
それぞれ側面には「右 川越道」、左側面には「左 坂戸道」と、嘗ての道標となっている。
昔から人の往来が盛んな道であったのであろう。
川角八幡神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代にはすでに存在していたと伝えられていて、鎌倉時代には、源頼朝が奥州征伐の際に八幡神社に戦勝祈願をし、勝利を収めたことから、八幡神社は武神として広く信仰されるようになった。貞治2年(1363)の苦林野合戦により焼失、社地を当地に改めて応永年間(1394-1428)再建したという。江戸期には江戸幕府より社領5石5斗の御朱印状を慶安2年(1649)受領、明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格している。
『新編武蔵風土記稿 川角村』
八幡社 天照大神春日明神を相殿とせり、社領五石五斗の御朱印は、慶安二年に賜ひし由を云へど、小名に神田の名あり、もし當社の領地を唱へしならんには、舊くより社領ありしこと推て知るべし、南藏寺の持、
南藏寺 新義眞言宗、今市村法恩寺の末、金剛山地藏院と稱す、前住英純今法流開山と定む、本尊薬師は銅立像にて、長一尺餘、天竺渡来の像なりと云、
古碑 延文三年十二月十日と彫せり、
参道途中で、境内右側にある芭蕉句碑とその案内板(写真左・右)
毛呂山町指定記念物 史蹟 芭蕉の句碑
昭和三十七年四月一日指定
道傍の むくげは馬に 喰れけり(芭蕉翁)
この句は、松尾芭蕉が馬上からむくげの花を眺めていた時、乗っていた馬が花をぱくっ、と食べてしまった様を詠んだ一句です。
左側面と裏には<三世春秋庵連中 文政十二歳次(一八二九)己丑春三月>とあります。三世春秋庵とは、毛呂山の俳人川村碩布のことで、建碑の当時、この地の俳壇は春秋庵の最盛期でした。碩布は、文化十三年(一八一六)に春秋庵を継承し、三世と称しました。
この句碑は、碩布の一門が建てたもので、句を記したのも碩布であると言われています。
当初は、大字川角にあった南蔵寺の境内に建てられていましたが、大正三年(一九一四)に当地に移転しました。(以下略)
案内板より引用
拝 殿
八幡神社 毛呂山町川角一二三三(川角字宮前)
当社の鎮座する川角は、越辺川流域の低地・台地に位置し、その地名は、地内で越辺川が大きく屈曲することから名付けられたという。
社記によれば、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、当地は既に村落を成していたとあり、当社は敬神の念が厚いその村人によって創建された社であるという。
中世においては、鎌倉街道が地内を通っていたため、川角の村は繁栄し、人家も田畑も増え、当時近郷に並ぶものがないほどの大伽藍を誇った崇徳寺が建立されるに至った。
しかし、貞治四年六月、足利基氏と芳賀高貞との戦いの際、兵火に罹り、当社も崇徳院も烏有に帰した。当社はその後、応永年間に社地を改めて再建されたが、崇徳院は再興ならず、地名にその名を留めるばかりとなっている。
近世においても、当社は真言宗南蔵院を別当として栄え、慶安二年には五石五斗の朱印地を賜っている。
明治初めの神仏分離により南蔵寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、大正元年に字原の稲荷神社を合祀したが、同社の氏子であった人々の強い要望により、昭和二九年に旧地に戻された。
祭神は誉田別尊で、天照皇大神と春日大神を配祀するが、これは室町末期から流布された三社託宣によると思われる。
「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」に記されている「苦林野合戦」とは、南北朝時代の貞治2年(1363年)に、鎌倉公方・足利基氏と宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可が鎌倉街道沿いの苦林野で戦った合戦である。
室町幕府を開いた足利尊氏の子、足利基氏は、鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役である関東管領に上杉憲顕を起用した。また下野の武将宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し、憲顕に与えた。
宇都宮氏綱の重臣芳賀禅可(はがぜんか)は処遇に腹を立て、憲顕が鎌倉へ出仕するのを見計らって襲撃しようとした。この動きをきっかけに、足利基氏は総勢3,000人余りの軍勢を率いて鎌倉街道を進み、一方芳賀禅可は、嫡子高貞と次男高家に800騎を与えて戦いに向かわせた。
基氏軍と芳賀軍は、苦林野付近を舞台に激しい戦いを繰り広げ、足利基氏側が戦に勝利し、芳賀軍は宇都宮へ敗退したという。
合戦の舞台となった苦林野一帯には、古墳時代の古墳(6~7世紀頃の豪族等のお墓)が数多く残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』の「苦林野図」には、前方後円墳のほか、多数の古墳が描かれている。
その中の1基である苦林古墳(大類1号墳)の上に、苦林野合戦供養塔がある。前面に千手観音像、背面に貞治4年(1365年)6月17日にこの地で、足利基氏、芳賀禅可両軍の戦があったことが刻まれている。
拝殿向拝・木鼻部の細やかな彫刻 拝殿上部にある「八幡宮」の扁額
本 殿
当社の信仰としては、この地域では嘗て「八幡神社」の掛け軸が氏子の各家を回る信仰があった。八幡様と呼ばれるこの掛け軸は、箱に納められてあり、回す順番を記した板と共に一年中各戸に受け継がれた。八幡様が回ってくると、各家では床の間に掛けて、御飯を供え灯明をともして祀った。翌朝、当主が八幡様の前に座り「おかまいもできなくて申しわけありませんでした」と拝礼してから、隣の家に持参し「八幡様が来ましたので、おたの申します」と言って受け渡した。八幡様が泊まっていただく期間は一軒の家に一日から三日間ぐらいが慣例であった。また、ブク(忌服)の家は四十九日を終えるまでの間は八幡様を頂いてはいけないといわれ、この家を寄らずに隣の家に回された。
また古くから氏子により続けられている芸能として、毛呂山町滝ノ入から伝わったものといわれるササラ(獅子舞)があり、現在でも例祭等にて奉納されている。獅子舞は、五穀豊穣や無病息災を祈願したもので、獅子頭をかぶった舞手が、勇壮な舞を披露している。
獅子は雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、判官は、その舞い方から別名「暴れ獅子」とも呼ばれている。そのほかの役割は、ササラッコ四名・笛吹四名から八名・蠅追い(はいおい)一名・法螺貝一名である。曲目は「前街道」「摺り込み」「宮廻り」「礼拝」「土俵の入」「塵摺り」「花掛り(はながかり)」「女獅子隠し」「發綾取」「七ッ五歌」「宮ぼめの歌」「並び摺り」「一列回り」「九座のササラ(漢字変換)」「一列並び」「水引上げ」「魚へん+尊 猫」「網掛」「發上げ・發下げ」の二十通りである。
境内にある「宝篋印塔」とその案内板(写真左・同右)
毛呂山町指定
有形民俗文化財 八幡神社の宝篋印塔
この宝篋印塔は、現在の川角小学校の場所にあった越生町法恩寺の末寺である南蔵寺の境内に置かれていたものである。南蔵寺は、明治時代初めの廃仏毀釈により廃寺となり、宝篋印塔も大正三年(一九一四)二葉学校(現川角小学校)の拡張に伴い、現在はる八幡神社の境内に移動された。江戸時代の天明八年(一七八八)正月に建てられたもので、当時多くの餓死者を出した天明の飢饉に対する供養塔と考えられる。平成二年(一九九〇)二月十五日、現在位置に移転改修する際、塔身(中段の方体部)の中に宝篋印陀羅尼経、観音経、般若心経等が納められているのが確認された。宝篋印塔は、平安時代末期から建立され始め、鎌倉時代から江戸時代にかけて数多く建立された、塔身に宝篋印陀羅尼経を納める供養塔である。町内に残る石塔の中では大型で優美な造りであり、たいへん貴重である。
平成三年二月二日
案内板より引用
「大黒天」の石碑 拝殿手前で、道路側に祀られている
境内社・八坂社
荘厳な雰囲気を醸し出している境内
ところで、越辺川右岸の台地上に位置している川角八幡神社に沿って南北に走る道路を北上すると、下り坂となり、その先には越辺川が流れ、その川に架かる「宮下橋」を渡る。越辺川の右岸一帯は豊かな山林となっているのに対し、左岸は景色が一変し、なだらかな平原となる。「西戸グラウンド」という運動場もあり、学生さんたちが暑い天候の中、汗を流しながらスポーツを楽しんでいた。
越辺川右岸方向を撮影
長閑な越辺川左岸
目の前にある長閑な風景は、一見平穏そのものの印象が強いが、2019年10月12日台風19号が日本に上陸し、関東・甲信・東北地方を中心に記録的な豪雨災害をもたらした。毛呂山町も、河川の越水や、土砂崩れ、住家浸水など大きな被害を受けた。この西戸グラウンドも、越辺川の越水により冠水したという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」「境内案内板」等