西戸國津神神社
「西戸村は昔は道祖土と書たり、隣郡八ッ林村の百姓治右衛門は、道祖土土佐守が子孫にして、近鄕の舊家なれば、若くはこの土佐守などが領せし地にて、道祖土の名は夫より起りたらんを、後世今の文字に書改めたるならんといへり、(中略)此邊すべて高低多き地にて、水田陸田相牛せり、用水は越邊川を引用ゆれど、水旱共に患あり」
「道祖土」という地名の由来は幾つかあり、古くから道祖神を祀る塞(さい)の神の杜があったことからという説と、この地域の名士の祖先である「道祖土土佐守」が戦国期にこの地を領有していたという説がある。
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西戸916-1
・ご祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
・社 格 旧村社
・例祭等 春祭り 2月22日 秋祭り 10月16(宵祭り)・17日(本祭り)
新穀感謝祭 11月23日
川角八幡神社から北上し、越辺川に架かる宮下橋を越える。平均標高43m程の越辺川左岸に広がる豊かな田畑地域の風景を愛でながら北上し、埼玉県道343号岩殿岩井線に合流する十字路を左折、300m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ先に西戸國津神神社が見えてくる。
西戸國津神神社正面
『日本歴史地名大系』 「西戸(さいど)村」の解説
箕和田(みのわだ)村の東、越辺川左岸低地に立地。古くは小田原北条氏に仕えた道祖土(さいど)氏が住したことから「道祖土」と記した。のち改字したという(風土記稿)。当村は天正年中(一五七三―九二)に黒山村(現越生町)の修験山本坊が開発したもので(元文三年「山本坊寺領書上」相馬家文書)、全村を山本坊一人が名請していたという(元文三年「山本坊人別帳一判等願」同文書)。
元和元年(一六一五)百姓一五軒に耕作させ、同二年山本坊が当地に移転。同六年検地があり、入西郡西戸村御縄帳(同文書)では高二五〇石、うち五〇石は山本坊朱印地。
こじんまりとした社の第一印象
『入間郡誌』において「西戸は川角村の西北部にして、南に越辺川を廻らし、北に小丘を控へたり。河畔の水田肥沃にして、要害善し。此を以て古来山本坊此地に拠りて、大に勢力を振ひたりき。古墳多し」と記載があり、この地に修験山本坊をわざわざ本拠地を移した理由が載せている。
鳥居の社号額には「國津神神社」と表記 入口周辺に建つ社号標石
國津神神社は、現越生町の黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には熊野社と称していたという。
本山派修験の山本坊は、相馬掃部介時良入道山本坊栄円が応永年間(1394-1428)に開山した大寺で、慶安2年(1649)には江戸幕府より、山本坊は寺領47石および、熊野堂(黒山熊野神社)領として3石の御朱印状を受領している。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治37年に地内の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を合祀、明治42年に箕和田稲荷神社と境内社大山祇社を合祀、大正4年に社号を國津神神社に改めている。
境内の様子
『新編武蔵風土記稿 西戸村』
天神社 修驗圓藏院の持、
住吉社 熊野社 以上二社、修驗山本坊の持、
山本坊 慶安二年寺領四十七石及熊野堂領三石の御朱印を賜へり、熊野は郡内黒山村にありて、
今もこゝにて別當せり、本山派の修驗、京都聖護院の末なり、開山榮圓應永廿一年示寂せり
行者堂 役小角の像を安置す、
龍光院 圓蔵院 二院共に山本坊の配下なり、
社のみをみると、かなり小規模な印象は拭えないが、竜光院・円蔵院等の仏閣も含む当時の旺盛ぶりは如何ばかりであったろうか。
拝 殿
国津神神社 毛呂山町西戸九一六(西戸字愛宕下)
現在、越生町黒山に石造の役行者像と宝篋印塔がある。これはかつて武蔵のうち入間郡・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部にわたり本山派修験を管理した山本坊の遺跡であり、宝篋印塔の銘文に「山本開山権大僧都栄円和尚 応永二十年癸巳十月日」「法勝禅門寿塔 応永廿一年甲午五日」とある。当社はこの山本坊と深いつながりを持っている。
当社の創建にかかわる氏子の相馬家(屋号オヤカタ)の先祖は越生の山本坊を興した栄円の後裔で、越生の熊野社の別当である。当社は同家が居を移したことに伴い、慶安元年、熊野社をこの地に勧請したものである。また、勧請後同家は当社と越生の両熊野社の別当を兼ね、山本坊と称し、慶安二年には寺領四七石、熊野社領三石の朱印を受けるとともに、京都聖護院直末(じきまつ)の本山派修験として霞(かすみ)の教化を行った。なお、年行事職大先達も務め、配下の寺は四八カ寺に及んだ。
当地の配下の寺は竜光院・円蔵院で、役行者堂も置かれていた。
明治に入り、神仏分離のため山本坊は別当を離れ、代わって出雲伊波比神社社家紫藤家が祀職を務めるようになり、現在に至っている。
明治五年に村社となり、同三七年、当所の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を本殿に合祀し、更に、同四二年に大字箕和田字高山木の稲荷社と境内社大山祇社を合祀した。また、大正四年には社号を熊野社から国津神神社に改めた。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額 本 殿
明治時代以降、当地は山本坊が廃寺となったため、寺がなく、氏子の多くは神葬祭である。しかし、今なお葬儀の後、仏式の名残で初七日・三十五日・四十九日を祭日として神職が慰霊祭を行っている。
当地で結成されている講には「榛名講」「観音講」がある。
榛名講は、榛名神社の神を作神として信仰する者が結成し、2月19日に代参者が東松山市上岡の妙安寺へ出かけて、牛馬の安全を祈願し、その帰りに絵馬と笹の葉を受けて来るもので、この笹の葉は牛馬に食べさせると病気にかからないといった。しかし、この講も農業の機械化が進み、農耕用牛馬が減少したため、昭和40年ごろに解散したという。
このほか、氏子の間では「おしら講」「大遊び」を行っていた。
「おしら講」は3月15日に行う女衆の行事で、養蚕守護の神であるおしら様を祀り、糯米(もちごめ)を一口一升として持ち寄り、大福餅を作って祝う。
大遊びは2月11日に行う男衆の行事で、女衆のおしら講同様に行うとのことだ。
拝殿前方左側に設置されている「山本坊の芭蕉の句碑」
毛呂山町指定記念物史跡
毛呂山町指定記念物史跡 山本坊の芭蕉の句碑
山本坊の二十五世、徳栄法印(別号は紫梅)の建立といわれるこの句碑には「山さとは うめの花 はせを」と刻まれている。江戸前期の有名な俳人、松尾芭蕉への追慕の気持ちが強く、徳栄は、かつて芭蕉が故郷の伊賀で詠んだこの句を選んで自然石に刻んだものである。この句の意味は、普通ならば正月に訪れる”万歳芸人”が、田舎の山さとには梅の花が咲く春先にならないとやって来ない というような意味であろう。
徳栄は文化四年(一八〇七)生まれで、わが郷土の誇る俳人、川村碩布の門人であり、俳号を「曰二」といい、多くの句集や短冊に句をのこしている。また、生来文筆に優れ、神社の幟、筆塚などの銘文にその筆跡をとどめている。さらに武を嗜み、幕末の混乱期には村々に起こった無頼の暴徒の鎮圧にあたった。明治維新後は神官となり、明治十一年(一八七八)に七十歳で亡くなったという。
記念史蹟標柱文より引用
境内の一風景
ところで國津神神社は、黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には「熊野社」と称していたというが、この入間郡黒山村(越生町)修験山本坊の本名は「相馬掃部介時良入道山本坊栄円」であり、相馬氏といえば「平将門後裔」と称する一族である。また黒山熊野神社のご祭神は一説には「平将門」だったともいう。
『山本坊過去帳(相馬重男所蔵)』
「開祖栄円・応永二十年十月朔日、二代龍弁、三代栄弁、四代樹円、五代源栄、六代住栄、七代龍栄、八代頼栄、九代良栄」「十代栄龍は慶長八年に山本坊を入間郡西戸村(毛呂山町)へ移し、二十五代徳栄が明治維新の時、神官となり帰農す」
『山本坊文書』
「箱根山別当相馬掃部介時良入道山本坊栄円は応永二年より黒山村に居住し修験となる。応永五年二月十二日栄円は将門宮を造営す」
『黒山三滝上 宝篋印塔』
「山本開山権大僧都栄円和尚、応永二十年癸巳十月日」
『西戸村相馬重男家文書』
「文安元年甲子十二月十三日、箱根山御領属高萩駒形之宮二所之旦那之事、右、彼旦那等、豊前阿闍梨可有引導候、山本大坊法印栄円花押」
また、この「相馬氏」一族は後世大里郡地域の社の神職や社掌に就任していて、その広がり方も修験道に関連しそうである。この事に関しては「露梨子春日神社」「西和田春日神社」を参照して頂きたい。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等