古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西大久保八坂神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西大久保146
            
・ご祭神 須佐之男尊
            
・社 格 旧大久保村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 35日 夏祭り(天王様) 715日 
                                  秋祭り 
1123日  大祓 1231
 川角稲荷神社から南北に通じる道を1.2㎞程南下する。「城西大学硬式野球場」を左手に見ながら2番目の信号のある十字路を右折し、暫く進むと右手に西大久保八坂神社が見てくる。社の東側隣には「智福寺」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
西大久保八坂神社正面
『日本歴史地名大系』 「大久保村」の解説
毛呂山町の東端に当たる当地は、川角村の東、市場村の北、葛川と高麗川両河川流域に挟まれた台地上に立地している。天正二〇年(一五九二)に検地があり、その検地帳には「大窪郷」と記されていたという(風土記稿)。
 寛永二年(一六二五)九月大久保新八郎(康村)が徳川氏から入間郡大久保村で一〇〇石を与えられ、同年一〇月大久保久六郎(忠重)に大久保の内五〇石が与えられている(記録御用所本古文書)。田園簿では田高四二石余・畑高一五九石余、大久保領・幕府領の相給。寛文八年(一六六八)・同九年・延宝二年(一六七四)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高一九二石余。
  
        
           境内の様子                       参道途中の右側に設置されている案内板
 八坂神社の由来と行事
 江戸期、当地は大久保村と呼ばれ、鎮守として牛頭天王社(当社)を祀っていた。
 主祭神は、須佐之男尊で、内陣には束帯の神像を安置する。また合祀神は宇気母智神・別雷神・大山咋神の三柱である。
 別当は当社に隣接する真言宗金玉山智福寺が務めていたが、明治初年、当社は神仏分離により、智福寺の管理を離れ、社名も八坂社と改め、同五年村社となった。
 明治四十年三月十六日、宇谷ノ中の稲荷社、宇下原の雷電社、宇上の日枝神社を当社本殿に合祀した。しかし、宇上では、日枝神社が合祀されてから疫病がはやったため、神罰であろうということになり、元地に戻された。
 年中行事は、春祭り・夏祭り・秋祭り・大祓の四回である。
 三月五日の春祭りは、当社が明治五年三月五日に村社になったため、これを記念して、その後は例大祭となっていた。この祭典には町長や学校の生徒が参列し、町の式典の一つに数えられていた。しかし、戦後、氏子の中から例大祭を元の夏祭りに戻そうとの声が上がり、現在は旧来通り夏に例大祭が行われている。
 夏祭りは天王様とも呼ばれ、地区内の疫病を祓う祭りで、現在七月十五日に行われており、祭典では悪疫除け祈願がある。明治中頃までは、地区内を山車が回り、大正期には、川越の地芝居や比企の万作踊りを頼んで祭りを盛り上げ、当社の最も重要な祭りであった。
 秋祭りは、以前十一月二十七日であったが、現在二十三日を祭日として、豊作感謝の祭りが行われている。
 大祓は氏子の罪穢れを除く行事で、十二月三十一日に行われている。
 当社において、神職が関与せず氏子だけが行う神事に、元旦の初詣とお九日がある。お九日は本来十月十九日であったと思われ、古くは子供の行事であったが、現在は十月十日頃、氏子総代が氏子を率いて当社に参拝している。
 なお、宇上の日枝神社は合祀社であるが、元地に社が残り、山王様と呼ばれ、四月十六日に祭りが行われている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 大久保村』
 智福寺 新義眞言宗、石井村大智寺の門徒にて、金玉山と號す、本尊大日を安ず、
 牛頭天王社 村の鎭守なり、

 
  拝殿左側に祀られている境内社・稲荷社         稲荷社の右側には
                          「石棒」が8体祀られている。
 石棒(せきぼう)は、縄文時代の磨製石器の一つであり、男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連した特殊な道具とみられている。
 石棒は広義には石刀や石剣を含む棒状の石製品を総じて指し、狭義にはいわゆる大型石棒を指す場合が多く、広義の石棒は九州から北海道までほぼ全国に存在するという。
 男根を模した石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(24000年前)のものまで遡れる。いわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられ、その後近畿地方以東を中心に広がったと考えられている。
       
                                   拝殿からの眺め
 
        
      社の東側に隣接している智福寺前に板碑や地蔵様が纏めて祀られている。
 
     毛呂山町指定有形文化財である弘安・応長の板碑(写真左)とその案内板(同右)
 毛呂山町指定有形文化財 考古資料
 弘安・応長の板碑  昭和四十八年十二月一日指定
 この二面の板碑は、もとは西大久保地区の東端にあった常楽寺に建てられていた板碑です。
 左の板碑は、弘安三年(一二八〇)に沙弥願生(しゃみがんせい)が父母の追善供養の為に、右の板碑は応長元年(一三一一)に弟子の比丘尼(びくに)が師の三十三回忌の為に建てたものです。二面の板碑は『新編武蔵風土記稿』大久保村の項に、常楽寺内に並び建つ古碑二基として紹介されています。
 弘安の板碑は、阿弥陀種子(キリーク)を主尊とし、その下に不動明王(カーンマーン)の荘厳体とみられる大変特殊な種子を配する珍しい板碑です。
 応長の板碑は、種子を欠失していますが、大きく刻まれた紀年銘が目を引く板碑です。
 平成二十九年一月十日 毛呂山町教育委員会
                                       案内板より引用

 
           文化財の板碑の左側にも         また板碑に背を向くようにして
           石碑が幾つか立っている。           
地蔵様が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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