古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

関東五社稲荷神社


        
             
・所在地 栃木県佐野市大栗町127
             
・ご祭神 伊弉諾尊 素盞嗚尊 大己貴尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭 1025
 朝日森天満宮の北側に東西に栃木県道151号堀米停車場線が通っていて、一旦北上して同県道に合流、東武佐野線に対して潜るように交差する「若松アンダー」を越え、更に東行する。因みに「アンダーパス」とは、踏切による交通渋滞の解消等のため、道路や鉄道などと立体的に交差する下側の道路が、地中に掘り込まれている構造をいう。
 この県道は佐野市堀米地域で栃木県道
141号唐沢山公園線と名称は変わるが、同一路線であることには変わらないので、そのまま道なりに進行する。その後、1.7㎞程進んだ「犬伏町」交差点を左折し北上、450m程先の十字路を左折すると関東五社稲荷神社が北側の斜面上に鎮座している。
        
                 
関東五社稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「大栗村」の解説
 唐沢山南方の屋形(やかた)山の南に位置し、南は犬臥(いぬぶし)町。元和八年(一六二二)の本多正純改易後は幕府領となり、寛永一〇年(一六三三)より近江彦根藩領で幕末まで続く。慶安郷帳に村名がみえ、田高七七石余・畑高九一石余。彦根藩では、栃本村(現安蘇郡田沼町)、富士村・韮川村の藩領四ヵ村の山を御林山とし、番所を当村と韮川村に各一ヵ所、栃本村に二ヵ所設けて取締を行った(享保一六年「彦根藩佐野領御林山事情書」宇都宮大学附属図書館蔵)。
 
    一の鳥居に掲げてある社号額        一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 社記によると創建は天慶5年(942)で、藤原秀郷公が相模国松岡稲荷大明神をこの地に移し、宮を建設したと云う。松岡稲荷は大化2年(646)創建されたもので、御祭神は伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴尊であり、同時に烏森、王子、新福院、大栗稲荷の4社も移されたので、これより関東五社稲荷大明神と称するようになった。田沼町に鎮座する有名な急郷社・一瓶塚稲荷神社なども、この神社の分霊勧請されたものと云う。降って明治6年に社号を関東五社稲荷神社と改称し、現在に至つている。
 
 参道途中左側に建つコンクリート製の神楽殿     参道を軸にして神楽殿の反対側にある手水舎
       神楽殿の手前には芭蕉碑がある。        石段を登った先に見える社殿
        
                    拝 殿
『下野神社沿革誌』
 犬伏町大字大栗鎭座
 村社關東五社稻荷神社 祭神伊弉諾命 素盞嗚命 於褒那武知命
 祭日 大祭十月二十五日 小祭 陰曆二月初午日 六月十五日 十一月十五日(中略)
 社傳に曰く本社は關東五社稻荷神社と稱し鎭守府將軍従四位上田原下野武藏守藤原朝臣秀郷の勸請にして朱雀天皇の御宇天慶五年寅五月十五日の創建なり 將軍是より先朝敵平將門討減の擁護を相州松ヶ岡稻荷神社に祈誓し速に殄戮し宸襟を安し奉り下億兆塗炭の苦を救ひけり依りて國家鎭護の爲め唐澤山牛ヶ城に地を卜し神殿を築き相州松ヶ岡より遷坐す(武蔵國烏森及王子上野國新福院の稻荷神社も同時に遷し祀れる故此れを合せて關東五社稻荷神社と稱す)。
 田原氏裔孫世々祟敬の神社たり 後十四代孫足利讃岐守藤原成俊(世俗佐野荘司と唱ふ園田成實の男成)文治二年巳五月十五日本郡田沼鄕に遷坐す 其後富士左京亮房行再建せり 正親町天皇の御宇天正十三年酉三月二日小田原北條勢襲來して唐澤城攻撃の時該村兵燹に罹り本社も倶に鳥有に屬す 依りて慶長二年
午十一月大栗稻荷山の南麓に遷し神殿を再建して漸く舊觀の十分ーに摸擬するに至る 寛延三年八月神位宗源宣旨を賜ひて正一位を贈らる 明治六年一月村社に列せらる 文治二年五月田沼に分靈を遷坐せしより小野寺まて渾て十ヶ所は皆本社より遷祀せるもの紀念碑及び額表に記して明かなり
 
  社殿の左側手前には大黒天の石碑あり     社殿の右側奥に祀られている石祠三基
                             と倉庫(?)か
關東五社稻荷神社額表之寫
明治二十六年三月下野國安蘇郡犬伏街大栗稻荷山鎭座關東五社稻荷神社氏子等廣募郷民新設神樂講社實可謂敬祟之至不堪感激也夫尋此稻荷神社之由緑距今九百五十一年前天慶五年壬寅五月十五日我大宗鎭守府將軍藤原朝臣秀郷公祈誠受擁護討減賊魁感喜之餘移相模國松岡稻荷大明神于此以建設是祠云松岡稻荷者在鎌倉大祖大織冠公大化二年之所創建祭神伊弉諾尊素蓋嗚命大己貴命也而同時自元祠松岡移祀者拜武藏國烏森同國王子上野國新福院下野國大栗稻荷山而五因皆稱之關東五社稻荷大明神矣曰田沼一瓶稻荷文治二年五月佐野荘司成俊所祀也曰西塲稻荷建仁二年九月西塲太郎成行所祀也曰土塔原小山稻荷元久元年二月小山新左衛門尉朝長所祀也曰阿曾沼金屋稻荷元久二年二月阿曾沼四郎廣綱所祀他曰熊谷稻荷元久二年二月藤倉太郎直政所祀也曰細谷稻荷文保二年二月園田四郎左衛門尉光氏所祀也曰藤岡稻荷元亨二年二月藤岡伊勢守房行所祀也曰岩崎稻荷文龜元年二月岩崎左馬助重長所祀也曰田島稻荷永祿六年二月山上美濃照久所祀也曰小野寺稻荷寛治二年二月小野寺式部大輔通成所祀也此十祠是自大栗稻荷山稻荷所移祀也大栗之地者我大宗以來世々之荘園也故其祭祀改建無有懈怠降至天正十三年三月小田原北條氏直攻我唐澤山城此地距城僅一里祠宇亦一朝罹兵燹神寶古記悉歸烏有惜哉尋壯嚴新建比舊不及云(以下略)
【現代訳】
明治二十六年三月下野国安蘇郡犬伏南の大栗稲荷山に鎮座する関東五社稲荷神社の氏子等が広く地域の人を募り神楽講社を新設した。実に神を敬う心が強いということができ感激に耐えない。そもそもこの稲荷神社の由縁は今から九百五十一年前の天慶五年壬寅五月十五日我が大宗鎮守府将軍藤原朝臣秀郷公が神に祈願し、その擁護を受けて賊の首領を討滅した感喜のあまり相模国松岡稲荷大明神をここに移しこの宮を建設したという 松岡稲荷は鎌倉にあり祖先の大織冠公が大化二年に創建したもので祭神は伊弉諾尊・素蓋嗚命・大己貴命である 同時にもとの宮松岡より移し祀ったのは武蔵国烏森・同国王子上野国新福院・下野国大栗稲荷山でこの五つはそれにより皆関東五社稲荷荷大明神と称している。
関東五社稲荷神社と称し崇敬されている。田沼一瓶稲荷は文治二年五月佐野荘司成俊の祀ったものである。西場稲荷は、建仁二年九月西場太郎成行の祀ったものである。土塔原小山稲荷は、元久元年二月小山新左衛門尉朝長の祀ったものである。阿曽沼金屋稲荷は、元久二年二月阿曽沼四郎広綱の祀ったものである。熊谷稲荷は、元久二年二月藤倉太郎直政の祀ったものである。細谷稲荷は、文保二年二月園田四郎左衛門尉光氏の祀ったものである。藤岡稲荷は元亨二年二月藤岡伊勢守房行の祀ったものである。岩崎稲荷は文亀元年二月岩崎左馬助重長の祀ったものである。田島稲荷は永禄六年二月山上美濃照久の祀ったものである。小野寺稲荷は寛治二年二月小野寺式部大輔通成の祀ったものである。この十祠は大栗稲荷山稲荷より移し祀ったものである。大栗の地は我が大宗以来世々の荘園であるゆえに神社の祭祀改建は怠ったことはなかった。降って天正十三年三月小田原の北条氏直が我が唐澤山城を攻めた。この大栗の地は城を距たるわずかに一里、宮の建物は一たび兵火にかかり神社の宝物、古い記録等ことごとくなくなってしまった。惜しいことである。後、神社のりっぱさを調べ新に建てたが、もとのものに比べると及びもつかなかったといわれている。
        
          地域の方々からの信仰の篤さを感じさせてくれる社
 
  正面鳥居の左側にある
月待塔・十九夜塔     鳥居の右側にある享保三年銘の庚申塔

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朝日森天満宮

 藤姓足利氏は、平安時代の関東北部の豪族で、下野国足利荘(現栃木県足利市)を本拠とする藤原秀郷の後裔一族である。藤原秀郷の子孫は代々坂東各地の国司や鎮守府将軍を歴任していたが、淵名兼行の代に上野国に土着し、その子の成行は天喜年間(105357)に足利駅の西北の山上に足利城を築き足利氏を名乗る。
 子孫に成綱・家綱・俊綱・忠綱などがいて、代々足利に領地を広げていく。その後、久安六年(1150)源義国が足利に住み、その子孫が足利氏と称されたことから、両氏を区別して、藤姓足利氏、源姓足利氏と呼ばれる。源姓足利氏が勢力を増してくると、両氏の間に領地をめぐる争いが生じ、最終的には俊綱・忠綱は平氏の側に属し、源姓足利氏等の坂東豪族に総大将として担がれた源頼朝に滅ぼされる。
 藤姓足利氏の3代当主である足利家綱は、身に覚えのない嫌疑をかけられて九州大宰府に流刑されたが、大宰府天満宮に祈念した結果、冤罪がはれたことから神恩に感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請したのが始まりと伝わっている。その後、慶長7年(1602)に現在の城山公園へ城を移すに際し、天満宮も現在地に遷座したという。
        
             
・所在地 栃木県佐野市天神町807
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧県社
             
・例祭等 歳旦祭 例祭 425日 新嘗祭 1123日 他
  JR両毛線佐野駅北口に隣接している城山公園は、明治22年に開設された県内最古の都市公園で、佐野城跡にあり、市の史跡及び名勝として文化財指定を受けて古くから市民に親しまれているという。この城山公園の西側で、南北に通じる「公園西通り」を300m程北上し、丁字路を左折し、暫く進むと朝日森天満宮の朱色の二の鳥居に達することができる。
 地図を確認すると、佐野駅から北西方向の街中で、栃木県立佐野高等学校・附属中学校のすぐ西側に鎮座している。二の鳥居の脇に数台分駐車できるスペースあり。
        
               朝日森天満宮 朱色の二の鳥居
            一の鳥居は二の鳥居から300m程南側にある。
 
 街中に鎮座している社でありながら落ち着きがあり、天神様を祀る社故梅が参道両側に100本ほど植樹されているという。梅の開花時期は見ごたえがありそうだ(写真左・右)。また、参道一帯に奉納されている朱の灯篭が地域の方々の信仰の厚さを物語っていよう。
        
              朝日森天満宮境内入口にある神門 
       
                        神門の精巧な彫刻が目を引く
       
                          綺麗に整備された落ち着きのある境内
 
 市指定史跡 菅神廟碑
 碑身 高さ一六三糎、幅六四糎、正四角柱、伊豆青石(通称小松石)
 篆額 正二位行大納言菅原朝臣在家
 選文 伊豆の人 東里中根若思
 碑字 唐顔真卿書「顔氏家廟碑」より下野の須藤温集字 天明二年(一七八二
 建碑 天明七年(一七八七)須藤温の子茂永
 当宮の御祭神菅原道真公の徳をたたえ、人々を啓蒙し、永く後世までも人々を教え導くために、当時、祭事を奉仕していた松村広休等が、佐野に住み学問を教えていた江戸で有名な陽明学者中根東里先生に碑文をお願いし、先生もその熱意に感じて、この文を作られました。碑字は今から約千二百年前の中国の大書家顔真卿の顔氏家廟碑拓本から須藤温が実に苦労して集字し、その子須藤茂永が建碑したものです。
 この碑のすばらしいところは、天神様の御神威の偉大さと、それを表現した東里先生の名文、刻字の立派なこと、建碑関係者の厚い敬神の念等が美事に渾然一体となっていることで、天下にも稀な信仰碑であります。
                                      案内板より引用 

       
                  天神様のなで牛
 天神様の神使は牛。自分の悪い部分と同じ箇所をなでると、悪い部分が牛に移って、改善されるといわれている。
 因みに神使は、神道において神の使者(使い)もしくは神の眷族で神意を代行して現世と接触する者と考えられる特定の動物で、「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいい、時には、神そのものと考えられることもある。
       
                    拝 殿
 平安時代、藤原秀郷公の七代の孫家綱が、無実の罪におとしいられし時、大宰府天満宮に参篭し一心不乱に祈念した処、ようたく冤罪がはれ、所領が安堵された。 家綱は神恩を感謝し、唐沢城中の天神沢に天満宮を勧請し尊崇の誠をつくした。
 その後 慶長七年(1602年)時の城主佐野吉信 幕府の命により城を移すにあたり 天満宮も現在地に遷座され 地名を冠し朝日森天満宮と称した。以来、佐野の氏神様として 当地の人々より天神様と呼ばれ親しまれており 初詣や初宮・七五三等で賑わっているという。佐野の氏神・学問の神様として天神様”の愛称で、長く当地の人々から親しまれている。
 平成三十年より菅原道真を祀る神社で行われる特殊神事、「鷽替え(うそかえ)」を実施している。この鷽替えとは、主に菅原道真を祭神とする神社(天満宮)において行われる特殊神事である。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる。
                         「朝日森天満宮HPWikipedia
」より引用

         神楽殿                神興庫ないしは宝物殿
 足利 家綱(あしかが いえつな)は、平安時代末期の武将で、通称は足利壱岐守・孫太郎。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の3代当主である。 怪力士家綱の伝承や、朝日森天満宮・安楽寺・孫太郎神社など、数多くの神社仏閣の建立や復興・移転に関わったことも伝えられている。
 足利郡司で相撲人としても有名だった父、藤姓足利氏の2代当主足利成綱の子として生まれるが、成綱が早世してしまい、祖父足利成行の養子となる。家綱が成人するまでは一族の足利行国が藤姓足利氏の当主を代行したが、その後は家綱が藤姓足利氏の当主となる。史実においても家綱もまた亡き父同様、相撲人として広く知られるようになり、その怪力と大柄な体格は、以降の子孫にも代々継承されていく。
        
                    本 殿
 その後、源義国の家人となり、滝口武者として京都へ上洛した際、同僚の滝口武者の小野寺義寛の嫉妬による讒言により謀反を企てていると疑いをかけられ、九州筑紫の大宰府の安楽寺に流罪となった。安楽寺は菅原道真が居住していた寺であり、自らと菅原道真の境遇を重ねて毎日のように天拝山に登り天満宮に祈念したとされる。
 大宰府流刑中の元永元年(1118年)、朝鮮より3人の力士が渡来し、日本の力士と試合を行い負けた方が貢物を行う取り決めとなったが、京の都にはこの三人の力士に敵う者がいなかった。そこで家綱は京に呼び出され、後白河天皇に試合を行うように命を受ける。一度は流罪により体は衰え戦う気持ちも湧かないと断ったが、九州に戻った後にも後白河天皇の使いが家綱を訪れ、その熱心さに折れ、試合に出ることに決める。そして、いざ試合が始まると大声を上げ、1人は踏み倒し、もう1人は持ち上げ投げ飛ばしてしまい、最後の一人は相撲もせずに帰国してしまった。
 この華々しい活躍により功績が称えられ、九州太宰府からの帰郷が許されることとなり、同時に罪は小野寺義寛の讒言であったと認められたという。そして他にも褒美を与えると言われ、安楽寺の山門と天満宮を賜った。これらは帰郷の際に船に乗せ、江戸から川を登って佐野に入り、唐沢城中の天神沢に朝日森天満宮を建立。安楽寺の山門も唐沢城に持ち込んだといわれるが、元永三年(1120年)に現在の場所に移転したとされている。
        
                    合祀社八社
 各社には木札があるのだが、薄く読みずらい。左より大市姫神社(大市姫命)・琴平神社(大物主命)・八坂神社(素戔嗚命)・〇〇神社(武甕槌命)・白山神社(菊理媛命)・〇〇神社(猿田彦命)・稲荷神社(宇迦之御魂命)・日本武神社(日本武命)。
 
       境内社・三峯神社                  石祠二基 左から浅間神社・岩戸開神社

 元永二年(1119)には建立した朝日森天満宮の祭りに朝廷の勅使、中御門大納言が都から下向し、家綱はこれを下馬し迎えたという話が今に伝わっており、足利市に「下馬橋」という場所が残っている。このような些細な話が今なお伝わっているところから、家綱が民衆から慕われていたことを伺うことが出来る。流罪のきっかけとなった小野寺義寛とは、正確な年代は分かってはいないが、小野寺義寛から謝罪を行い、足利家綱はこれを許したと伝わっており、実際に孫娘を小野寺義寛に嫁がせている。
 仁安2(1167)、嫡男の足利俊綱がある女性を凶害したことで足利荘領主職を得替となった際、足利市両崖山の足利城を離れ、能忍地(佐野市田沼町の愛宕山麓)の能忍寺に蟄居したと伝わっている。現在この場所には総合運動公園が出来てしまい遺構は残されていないが、公園設立以前は土塁などが残されていたという。また、能忍寺に移り住んだ際、朝日森天満宮を唐沢山西麓に移したというが、江戸時代には現在の佐野市天神町に移設された。安元元年(1175)113日、足利俊綱は佐野市の赤見城に移り住んだが、家綱は能忍寺に残って余生を過ごしたと言われている。
        
                 社殿からの一風景
 寿永2(1183)2月、志田義広が源頼朝を討たんと挙兵すると、家綱の嫡男・足利俊綱と孫・足利忠綱は呼応するが、小山朝政や小野寺道綱の策略によって志田義広は敗北し、藤原足利氏は戦わずして敗北してしまう。戦後の処理の中で、足利俊綱は死亡、足利忠綱は逃亡するが、源頼朝からは妻子含め本宅資材に関しては安堵が通達され、家綱は生き残る。
 寿永3(1184)514日には、栃木市岩舟町の住林寺で、足利俊綱の供養のために小野寺道綱が仏像を建立し、家綱は結縁した。

 家綱の生涯は、大きく見ると「藤性足利氏」の全盛期と、その後の衰退期・消滅期を1代で体現した人物ともいえるのであるが、地域の方々からは「相撲人」として慕われていたことも伝承として現在でも残っていることからでも察し得よう。



参考資料「佐野市HP「佐野市観光協会HP「朝日森天満宮HPWikipedia」等

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日高市・聖天院


        
             
・所在地 埼玉県日高市新堀9901
             
・宗旨・宗派 新義真言宗真言宗智山派
             
・正式名 高麗山聖天院勝楽寺
             
・札所等 武蔵野三十三観音霊場26番札所
 武幡横手神社参拝後、帰路につき、「カワセミ街道」を北東方向に進む途中で立ち寄った高麗山勝楽寺聖天院。山の高台に位置するので、街道からでも山門(風神雷神門)や本堂、その奥にある多宝塔もしっかりと見え、その境内の広大さや入口付近にある日本庭園も手入れが行き届き、整備されていて、一見の価値はある。
        
                   
聖天院正面
『日本歴史地名大系』 「聖天院」の解説
 高麗川左岸の丘陵地にある。高麗山勝楽(しようらく)寺と称し、真言宗智山派。本尊は不動明王。かつての本尊は金銀の双身の聖天尊(歓喜天)で、高麗王若光が高麗国から持参したと伝える。創建の年代は不詳。寺伝によれば、高麗郡建郡の際武蔵国に来住した高麗人の首長高麗王若光の没後、若光に従っていた僧勝楽はその冥福を祈るため、若光の念持仏を安置して伽藍を建立しようとした。だが果せないまま没し、そののち弟子聖雲(若光第三子)らが一寺を建立して勝楽寺と称したという。当寺蔵の梵鐘(国指定重要文化財)の銘には文応二年(一二六一)三月日の紀年と「武州高麗勝楽寺」とあり、旧称が勝楽寺であったことを裏付ける。
 
            入り口付近に設置されている案内板(写真左・右)

 聖天院(しょうでんいん)は、遠く奈良時代(西暦751年)に創建された真言宗智山派の寺院で、寺号は高麗山聖天院勝楽寺である。武蔵野三十三観音霊場二十六番札所。
 高麗王若光の菩提寺として創建された。寺号は若光が高句麗より持参した歓喜天を本尊とすることから名付けられたという。1345年に法相宗から真言宗に改宗。天正18年に徳川家康が関東に入国すると、翌年(1592年)、寺領として高麗郷内に15石を寄進されたという。
        
                 綺麗に整備された寺院
  今回、帰宅後の予定もあり、入口付近からでの風景散策しかできなかったことは残念で、
           機会があればゆっくりと散策したい寺院でもある。



参考資料「日本歴史地名大系」「聖天院公式HP」「Wikipedia」等
  

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武幡横手神社


        
              
・所在地 埼玉県日高市横手509
              
・ご祭神 誉田別命 武御名方命
              
・社 格 旧横手村鎮守・旧村社
              
・例祭等 元旦祭 祈年祭 2月第一日曜日 勧学祭 48
                   
例祭 821日から27日までの土・日曜日
 高麗本郷九万八千神社の参拝後、埼玉県道15号川越日高線を西行800m程、「久保」交差点を右斜め前方に進路変更し国道299号線に合流する。大まかに高麗川左岸沿いに沿うように1.3㎞程進んだ先にY字路があるので、そこは左斜め方向の幅の狭い旧道らしき脇道に入り、更に300m程進むと武幡横手神社が見えてくる。
        
                  
武幡横手神社正面
 社は国道のすぐ南側で集落の中に鎮座していて、地域の方々に大切にされた鎮守様という印象。境内は綺麗に管理されており、「横手渓谷」と呼ばれる奥武蔵の山々に囲まれた美しいと高麗川の流れと周囲の山麓景観が醸し出す厳かな雰囲気が社全体に漂っている。
 境内には適度な広さの駐車場も完備されており、その点もありがたい。
             
              
武幡横手神社正面に建つ社号標柱
『日本歴史地名大系』 「横手村」の解説
 現日高市の西端、東流する高麗川沿いにある。東は高麗本郷村・久保村、西は白子村(現飯能市)、南は峰を境として永田村・久須美(現同上)、北は入間郡権現堂村(現毛呂山町)。川越と秩父を結ぶ道が東西に通る。小田原衆所領役帳には小田原衆松田左馬助の所領として「横手」三五貫文があり、同所は天文一八年(一五四九)に与えられた一千貫文の地の一部であった。また他国衆三田弾正少弼の所領にも横手郷がある。永禄一二年(一五六九)一一月二四日付松田憲秀判物によれば代替りとなった山口左衛門尉重明に横手村の代官職が安堵されている。重明は天正一五年(一五八七)五月八日、豊臣秀吉軍の来攻に備えて小田原城に詰めることを定められた子息弥太郎に、従来からの給恩地横手内を譲るよう松田氏から命じられたが(松田憲秀印判状)、同一七年五月一六日には隠居分として横手村を請取ることを命じられている(松田直秀印判状)。
 
鳥居を過ぎて上り坂の石段上に社殿は鎮座する    石段の中段位に設置された案内板
 武幡横手神社は貞観12年(870)の創建と伝えられている。当初八幡大神と称していた。貞治2年(1363)に武御名方命を併祀して諏訪大明神と呼ばれるようになったが、明治元年(1868)に武幡横手神社と改めた。祭神に誉田別命、武御名方命を祀っている。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 横手村』
 諏訪社 村の鎭守なり、例祭726日、當社に藏する棟札に、奉造營武州高麗郡横手村、諏訪大明神、大檀那大久保重兵衛殿、小檀那山口若狭守、于時慶長六辛丑二月、神主大野治郎とあり、又刀一腰を藏む、銘正恒、長二尺五寸、是は村民半之丞が先祖山口鄕左衛門の佩るところなりしを、當社に奉納すといふ、神職は大野越後なり、

 武幡横手神社(おすわさま)  日高町横手五〇九(横手字諏訪)
 当地は、高麗丘陵の西端、山地に挟まれた高麗川に沿って民家が点在する。
『明細帳』によると、当社は貞観一二年に誉田別命を祀り八幡大神と称していたが、貞治二年に武御名方命を併祀して後、諏訪大明神と称したという。
 祀職は諏訪神社勧請以来高野家によって務められているが、同家は秩父の大野(現都幾川村か)の出身であるとして、大野姓を名乗った者もあった。
 本殿は一間社流造りで内陣には諏訪・八幡両祭神の神像があり、内陣にある天明元年銘の神鏡に文政一〇年に両神像を高野越後が奉納したことが刻まれている。
 また、「寛永一二年大内左京大夫多々良義弘九代後胤武州横手住山口若狭守重明三大孫山口六良右衛門」と記される「備前国正恒」銘の二尺五寸の刀が蔵されている。
 社殿の造営を現存する棟札にみると、慶長六年本殿を造営、享保一〇年覆殿建立、寛政元年に社殿に風が強く当たることから拝殿・幣殿を建築した。文政一〇年本殿及び拝殿を再建、明治三六年拝殿幣殿再建、昭和三六年拝殿の屋根替えを行い現在に至っている。 明治元年、諏訪大明神を現社号に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    拝殿上部に掲げてある扁額           社殿の左側にある宝蔵
        
                    本 殿
 当社の氏子は横手全域で、上(かみ)・下(しも)に分かれている。氏子の間では、氏神がお諏訪様なので、神使である蛇をいじめたり殺してはならないといわれている。
 また、戦前までは、夏に雨が少ない時に雨乞いを行っていた。この時は、代表が名栗の竜泉寺へ水をもらいに行き、当社で氏子の銘々にその水を分け、それぞれの家の屋根にこの水をかけたという。
 当社の例祭は当初825日であったが、昭和56年より21日から27日までの間の日曜日に行うこととなった。氏子はこの日を「待(まち)」と呼び、古くからササラ獅子舞を行っている。前日は「揃い(そろい)」と呼ばれ、御幣・万燈・山伏・天細女命・猿田彦命・笹楽子・導き・蠅追い・獅子・歌謡い・笛吹きの順に獅子舞の行列が氏子の檀那寺である真言宗宝雲山観音院滝泉寺へ参詣して、境内で舞うとの事だ。
 当日は「本待(ほんまち)」と呼ばれ、神職家・鳥居・神社・社務所・神社・庭(境内)・社務所・神社・庭・神職家の順に舞い巡る。
        
                 境内社・笠森稲荷社
       
    笠森稲荷社近くに聳え立つご神木で、「郷土の樹」でもあるムクロジの木(写真左・右)
 ムクロジは「無患子」と書き、本州中南部以南の山林に自生し、夏に淡緑色の小花をつける。実は球形で、中の種子は黒くて硬く、正月の羽根つきの玉に使用されるとの事だ。
 樹高 14m 幹周 2.3m。「日高の古木・名木をたずねて」に選定されている。
             
            社殿前で石段脇に聳え立つイチョウの御神木
 
  社の参道を降りると自然に高麗川にたどり着き、遊歩道沿いに清らかな川を眺める事が出来る。(写真左・右)参拝日は11月初旬。秋の紅葉はもうすぐであるが、風情を楽しむことができた。今年の夏は格別に暑く長かったが、それでも四季は必ず訪れる。ありがたいものだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
  

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高麗本郷九万八千神社

 巾着田(きんちゃくだ)は、埼玉県日高市高麗本郷(こまほんごう)に位置し、高麗川が南向きに大きく蛇行することで形成された巾着のような形状の平地である。地元では川原田と呼ばれている。「高麗(こま)」の地名は、716年(霊亀2年)に朝鮮半島からやって来た渡来人がこの地に移住し、高麗郡が設置されたことに由来する。
 直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた平地には、菜の花、コスモスなどの花々が咲き、中でも秋の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)群生地は辺り一面が真紅に染まり、まるで赤い絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたようで、毎年多くの人がその美しさに惹かれて訪れる。
 昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ヘクタール(17万平方メートル)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに草藪の草刈りをしたところ、大規模なヒガンバナの群生が見られるようになり、報道が始まったことで、有名スポットとなった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。
 日本一の群生地である巾着田の曼珠沙華は2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出されている。
 この巾着田の北側、旧元宿の小高い丘上に高麗本郷九万八千神社は静かに鎮座している。
        
             
所在地 埼玉県日高市高麗本郷252
             
・ご祭神 八千矛命(やちほこのみこと)
             
・社 格 旧高麗本郷元宿鎮守
             
・例祭等 例祭 113
 埼玉県道15号川越日高線を西行し、高麗川に架かる「天神橋」を越えると正面に巾着田の看板が見え、そのすぐ先に「高麗本郷」交差点があり、そこを右折する。通称「カワセミ街道」に合流後、すぐ右手に「元宿公会堂」らしき建物が見え、そこから徒歩にて北側にある小高い丘に向かって進むと、立派な大杉等で形成されている豊かな社叢林の間に社の鳥居が見えてくる。
 但し、車のナビには社の場所はしっかりと表示されているのだが、まず、どこに車を駐車させるかが分からず、通り過ぎてしまうこと数度(しかも「カワセミ街道」は思った以上に交通量が多い)。偶々、公会堂の西側で、街道沿いにある適当な駐車スペースに停めることができたのは幸いであった。
        
             少し分かりずらい参道の先に見える鳥居 
『日本歴史地名大系』「高麗本郷」の解説
 横手村の東、高麗川左岸にあり、南は同川を隔てて台村・久保村。「和名抄」記載の高麗郡高麗郷を当地付近に比定する説がある。小田原衆所領役帳には小田原衆岡上主水助に蔵出分より宛行われた一五貫文は「但大高麗之内にて前引」とある。この「大高麗」を当地とする説もある。近世には高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。徳川家康の関東入国後の天正一九年(一五九一)から当地に大久保石見守(長安)の陣屋(高麗陣屋)が置かれ、当時は高麗町とよばれた。だが慶長二年(一五九七)火災に遭ったため陣屋は梅原村との境に近い栗坪(くりつぼ)村地内に移った。このため高麗町の名称は梅原・栗坪二村の通称となり、旧陣屋所在地は高麗本郷と称されるようになったといわれる(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書、「風土記稿」)。
 高麗本郷は埼玉県南部、日高市西部の地域で、秩父山地の東麓、高麗川の谷口集落である。嘗ての高麗村の中心地で、東部の旧高麗川村とともに8世紀初頭、朝鮮半島から渡ってきた高麗人が集団移住した地として知られている。この地域は江戸時代初期から市場町として発達したが、のち飯能と競合して商圏を奪われた。畑地が多く、かつては養蚕を中心としたが、現在は野菜づくりと養鶏が行われているという。
        
                
高麗本郷九万八千神社正面
 高麗本郷元宿は、元宿という名称が示すように、早くから開拓された場所といわれている。また、巾着田は高麗川の蛇行により形成された土地で、現在では東京近郊の行楽地として休日はたいへん賑わっている。
 社は元宿の北側にあり、南面して地域を見下ろす位置にある。祭礼の幟が立つと、後方の日和田山の緑に幟旗の白い布地が映え、村中どこからでも神社を望むことができるという。
  社叢林の中に入ると厳かな雰囲気となる。    参道右側に祀られている稲荷社二基。
        
                 高麗本郷九万八千神社
『新編武蔵風土記稿 高麗本郷』
 九萬八千社 高麗本郷の鎭守なり、例祭九月廿九日、梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此三郎兵衛はもと當所の民なりしが、高麗町を移せしとき、彼村に移住すと云、

 九万八千神社(くまんはっせんじんじゃ)  日高市高麗本郷二五二(高麗本郷字上ノ原)
 当社は日和田山の南麓に鎮座し、八千矛命を祀り、古来高麗本郷元宿の鎮守として仰がれてきた。『風土記稿』に「梅原村の里正三郎兵衛が持なり、此三郎兵衛はもと当村の民なりしが、高麗町を移せしとき、彼村に移住すと云」とあり、更に『明細帳』に「創立詳ナラズ正中二年建立ノ棟札アリシ由口碑二伝フト雖モ棟札今存セズ。貞亨二乙丑年堀口西源同息三郎兵氏子一同シテ再建後宝永六巳丑年二月廿六日水災アリ同七寅年三月氏子中ニテ再建」とあり、察するに三郎兵衛と関係の深い神社と思われるが、同人については不明である。
 また、宝永六年の水災については、鎮座地が山麓の高地であることから古くは高麗川辺に鎮座していたものと考えられる。
 往時、別当を務めた長寿寺という寺が神社に隣接する。この寺は、宝永七年棟札写しに「別当真言宗萬福山長寿寺法印秀傳」とある。現在は無住の寺で改築して地域の集会所として使用している。社名九万八千は珍しい名であるが、一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。この高麗地域は上古渡来人の住居した場所であることから興味深い説ではある。
 社地は杉や楠の大木が茂り、更に茅葺の社殿であるため一層神さびた印象を与える。付近の日和田山・巾着田は行楽地であり、神社の傍らの道は自然遊歩道として休日の散策を楽しむ人が多い。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
              社殿上部には社号額が飾られている。
 社のご祭神である「八千矛命」は大国主の別名の一つとされている。大国主は日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正文によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。
 このように日本神話の中でも一際目立つ神であるにも関わらず、多くの別名を持つ。大穴牟遅神・大穴持命・葦原色許男・葦原醜男・葦原志許乎・三諸神・宇都志国玉神・大国魂神・伊和大神・国堅大神・占国之神・所造天下大神・杵築大神等で、これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっているといわれているようだ。
 八千矛命も別名の一つとされている。この八千矛命は「多くの矛」の意味で、記では「八千矛」、紀では「八千戈」と表記されることから武神と解釈もされるが、男根を象徴するという説もある。
        
                   社からの風景
「埼玉の神社」によると、社名「九万八千」の由来の一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという。
 716610日(霊亀2516日)、朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、高麗郡を設置したとされ、初代郡司は高麗若光である。この高麗若光は高句麗王族で、高句麗の宝蔵王の息子という。
 日本書紀に書かれた記録の一部では、天智5年(666年)「百済人男女2千余人東国移住」天武13年(684年)「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」持統元年(687年)「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」と記され、百済人・新羅人・高麗人はしっかりと移住の場所を区別されている。日高市を含む嘗ての高麗郡には、新羅人の移住はほぼなかったか、ほとんどいなかったと思われる。
 そもそも朝鮮半島では、高句麗国・新羅国・百済国の三国時代から新羅国の統一という時代背景がある中で、高句麗国や百済国と新羅国は敵対関係にあったのであるから、「埼玉の神社」で述べている九万(高麗)・八千(新羅)との並立表記は成り立たないと思われる。

 筆者は八千は社のご祭神である「八千矛命」からくるものと考える。つまり、高麗(九万)地域に(八千)矛命を祀る社、と推測するのだが、いかがであろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
世界大百科事典(旧版)」
    「
日高市・曼珠沙華の里「巾着田」公式HP」「Wikipedia」等

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