古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

露梨子春日神社


        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町露梨子160
             
・ご祭神 天児屋根命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 328日 例祭 1022日 新嘗祭 1218
      地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.113096,139.2168037,17z?hl=ja&entry=ttu
 露梨子春日神社が鎮座する「露梨子」地域。「露梨子」と書いて「つゆなし」と読む。書沢川沿いの車が1台通るのがやっとの小道を進んだ最終地点にひっそりと鎮まっている。
『大里郡神社誌』においてこの社が紹介されているが、「当初より此の地に鎮座し社地も従前の形を保ちて變(かわ)らず」と記載され、創建当時からこの地にあったことが伺われる。
 集落から離れているためか、日中でも人影は全くなく、森林に覆われているため心細くなるくらいの第一印象。但しそのうちに、ふと耳を澄ますと、清流の音と鳥の声や木々の葉音が、静けさの中に心地よく響き渡ってくる。新緑の時期でもあり、青々とした生命力が溢れ、樹木に覆われているためか、体感温度が23℃低く感じる。
        
                                 露梨子春日神社 正面
 正直この社に到着させるのに実のところ2回失敗している。ナビで住所検索しても全くヒットしない。近隣の住所にも全く反応なし。露梨子地域が決して長閑な田畑地域だけではなく、国道254号線沿い、及びその周辺は宅地化も進んでおり、決して検索も難しくはないと高をくくっていたのが間違い。社は露梨子地域北側に鎮座しているが、国道254号線北側の宅地化された場所は意外と細かい道で、またこの辺りは荒川の河岸段丘が支流の深い谷で削られているので、土地のアップ・ダウンもあり、回り込むのがえらく大変である。
             
                
露梨子春日神社 社号標柱

 また社の北側で小園地区に鎮座している壱岐天手長男神社からも東武東上線を挟んで南西方向で250m程しか離れていない場所であるのも関わらず、そこから社に到着する簡単なルートがない。
 結局南側の国道254号からチャレンジする道順か、保田原波羅伊門神社の南側を東西に通っている道路からグルっと南側、その後北東方向へ進路をとる道しかなく、安全を期して、国道254号線から北上するルートでチャレンジする。
        
                                     石製の鳥居

 国道140号バイパスから寄居・長瀞方面に進み、「玉淀大橋(北)」交差点を左折し国道254号線に合流するところまでは、「鉢形白山神社」と同じであるが、荒川を南下してそのまま暫く道なりに進む。
 国道の進路が南方向から東方向にカーブし、「玉淀観光バス」の看板が見えた次の
T字路を左折。その後2番目のT字路を右折して暫く民家が並ぶ道を北上するが、すぐに周囲は田畑風景が広がる地帯となる。240m程進むとY字路となるので、道幅の狭い右斜め方向に進路をとる。この車両1台がやっと通るくらいの道幅が狭い道路で、途中からは深い森林が道周囲を覆い始め、心細い気持ちを抑えながら進むと、その小道の最終地点に露梨子春日神社はひっそりと佇んでいる。
       
         鳥居のすぐ先には紙垂が巻かれている杉の御神木がある。
              見たところ樹齢はまだ若そうである。
         
 拝殿手前には1対お決まりの狛犬が設置されているが、よく見ると参拝客に対して正面を向いている格好となっていて、珍しい配置である。加えて拝殿は参道に対して左側に少しずれて鎮座している。拝殿の左側には切り立った崖となっていて、書沢川が拝殿の向きに沿って流れているようだ。『大里郡神社誌』ではこの社は創建当初からこの地にあり、社殿の配置も変わっていないようなので、河川に関連した社の可能性もある。そのことは「埼玉の神社」春日神社の項にも同様の記載がされている。
        
                                     拝 殿
        拝殿正面には青々とした樹木があり、その下から苦しい体勢で撮影

 春日神社 寄居町露梨子一六〇(露梨子字滝之原)
 書沢川沿いの桑畑の中の小道を進むと、こんもりとした森に至る。この奥を入った所に当社はひっそりと鎮まっている。氏子の集落から離れているためか、日中でも人影はなく、眼下を流れる清流の音だけが静けさの中に響き渡る。
 当社の創建は、社家である相馬家の伝えによれば、明暦元年(一六五五)十二月十日のことでありた。この年、一帯に悪病が流行し、更に数年来の天災続きで村は疲弊していた。一計を案じた神職相馬筑後守宗次は春日神社をこの地に鎮祭し、村民と共に祈願したところ、たちまちにして悪病が治り、天災もやんだ。以来、村人は厚く当社を崇敬しているという。
『風土記稿』は「春日社村の鎮守にて、折原村神主相馬播磨持」と載せている。明治九年五月に村社となり、同四十四年十月には地内の字宮前から村社白山神社を合祀した。
 相馬家は、天長元年(八二四)から神主を務めると伝える旧家である。相馬筑後守宗次は明暦元年八月十日に同家で初めて神紙管領から「折原村聖天之祠官」として神道裁許状を受けている。
境内に祀る不動尊にちなみ、書沢川にある小さな滝を「不動の滝」と呼ぶ。あるいは、不動尊は当社創建以前から祀るものであろうか。
                                   「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」による露梨子春日神社の由来の中で、創建に「神職相馬家」が関わっているとの記載がある。この「相馬家」は、露梨子春日神社のみならず、近隣の社の神職や社掌となっており、同じ系統一族の名も存在する。
大里郡神社誌』
折原村佐太彦神社(旧聖天社)は、人皇五十三代淳和天皇の御宇、長慶元年、相馬清太郎宗満祠官となりて当社を鎮祭す。この相馬氏は木持村神職家と同人なりて、現社掌は相馬二郎なり。
・男衾郡木持村稲乃比売神社(旧氷川社)は、人皇五十三代淳和天皇の御宇天長年間に至り相馬氏祠官となりて之を奉仕せり(中略)
・当神職の員数及職名並に許状下腑年月左の如し
 天長元年甲辰六月廿十八日 相馬清太郎宗満
 明暦元乙未年八月十日   相馬筑後守宗次
 宝永二年乙酉三月十五日  相馬筑後守宗隆
 宝暦十一年四月九日    相馬筑後守吉秋
 延享四年二月十一日    相馬筑後守隆久
 明和四年二月九日     相馬大和守隆継
 寛永五年六月八日     相馬和泉守尊明
 
寛政十年二月十九日    同人
 文化十年八月七日     相馬播磨守知祇
 文政六年二月十一日    同人
 天保九年七月六日     相馬伊豫正知豫
 天保十三年一月十六日   同人
 文久二年二月四日     相馬仲平明祇
 明治八年七月十七日    相馬金吾
 明治四十一年五月十四日  相馬次郎
『新編武蔵風土記稿 折原村条』
聖天社 村の鎮守とす、神主吉田家配下、相馬播磨持、
諏訪社 相馬播磨持、

 淳和天皇(じゅんなてんのう)は、日本の第53代とされる天皇(在位823年~833年〉である。天皇在位時、用いられた歴号は「弘仁」「天長」。それに対して長慶元年は中国・唐代穆宗の治世で使用された元号で、821年~824年とされる。『大里郡神社誌』は何を元本にしてわざわざ唐国の歴号を用いたのであろうか。
        
 
      拝殿・向拝部や木鼻部に施されている彫刻の数々(写真上段及び下段左・右)
 
   社殿の左側に鎮座する境内社・天神社      社殿の左側奥に祀られている神興庫と八坂神社
 
  社殿の右側奥に鎮座する境内社・稲荷神社   稲荷神社の近隣に並んで祀られている石祠群
        
           稲荷神社や石祠群の前方に祀られている不動尊

「埼玉の神社」春日神社の由緒にも「境内に祀る不動尊にちなみ、書沢川にある小さな滝を「不動の滝」と呼ぶ。あるいは、不動尊は当社創建以前から祀るものであろうか」と記載され、春日神社創建前からこの地に祀られていたかもしれない可能性を示唆している。修験道に関わりのある祠であろうか。

 不動尊とは不動明王の尊称で、明王とは密教系の仏神で、悪魔を撃退する「仏の知恵(真言)を身につけた偉大な人」という意味である。
 明王の中でも中心的役割を担う5名の明王の中の中心となっているのが不動明王であり、「お不動さん」の名で親しまれ、大日如来の化身とも言われる不動明王は、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されていて、真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。
 
                社の東側を流れる書沢川。
 この社は数百m程しか離れていないにも関わらず、民家から隔絶された場所に鎮座し、この社周辺のみ孤立しているように見える。

 一方、古来より日本人は山岳を神が宿る場所、 あるいは神そのものとして崇拝してきた。奈良時代になると修験道の祖と称される役行者のように山岳に籠もって修行し、験力を得た異能の人物も現れてくる。ことに平安時代になると、密教の験者たちは競って山岳で修行し、密教の修法に神道や道教の要素も取り入れた修験道の教義をもとに独自の峰入りの作法や呪法を編み出した。彼らは山に伏して修行するところから山伏とも呼ばれた。
 修験者たちが特に多く集まったのは、 紀伊の熊野と大和の金峰山である。熊野を拠点とする修験者たちは、天台寺門宗に属する三井寺派の僧たちであった。ことに三井寺長吏で聖護院門跡を開いた増誉(一〇三二~一一一六年) が、白河上皇の熊野参詣の先達をつとめ最初の熊野三山検校に任じられて以降は、三井寺派の山伏は本山派と呼ばれる修験道の一大集団へと成長する。
修験道の基本的な考え方は、修行する山岳を曼荼羅(金剛界・胎蔵界)そのものと捉え、その中心に不動明王が住む聖地があり、その霊力を体得しようとすることにある。もともと不動という言葉は動かない大山をさし、不動明王は山の守護神として修験者の本尊としてふさわしい存在であった。したがって修行に用いる法具(山伏十二道具)も、本尊不動明王の姿と金剛界・胎蔵界の両曼荼羅を象徴している。歌舞伎『勧進帳』の山伏問答で、弁慶が 「それ修験の法といえば胎蔵・金剛の両部を旨とし、峰山悪所を踏み開き…」 と弁じ、「して、山伏のいでたちは」 という富樫の問いに「すなわち、その身を不動明王の尊容にかたどるなり」 と答えて道具の説明をするくだりはあまりにも有名である。
 江戸時代になると、修験者あるいは山伏は、山岳修行者としてよりも、民間の御祈祷師として、そういう意味での「行者」として人々の目に映ることが多くなった。彼らは不動明王の像をおいた堂をもって、農村に定着し、人々の病気をなおしたり、憑(つ)きものを落したり、吉凶禍福の判断のため、予言のため頼りにするほか、何か失物(うせもの)があったときにも、占ってもらうような相手として、民衆生活に密接なつながりをもっていて、村人にとっては、村の医者であり、また、村のいざこざを調停する判事であったりした。
        
                    境内の様子

 ところで修験道の開祖には、大和葛城(かつらぎ)山にいて、優れた呪術師と知られた役小角を、役行者(えんのぎょうしゃ)としていただき、真言宗系の験者(げんざ)は、醍醐(だいご)寺の聖宝(しょうぼう)を中興の祖と尊んだ。その根本道場は、吉野・大峯(おおみね)・熊野の連峯が第一に考えられ、山伏は大峯入りを何回重ねたか、その度数の多いのが上層にランクされた。しかし、日本列島の山岳には全国到るところ修験の霊場が開かれた。中部では越中立山・白山・戸隠、関東では伊豆箱根・日光補陀落(ふだらく)山、東北では出羽三山が特に重要視された。

 武蔵国における修験霊山・霊場は以下の場所である。
 ①都幾山慈光寺 
 ②越生山本坊 
 ③笹井観音堂(梅之坊)
 ④武甲山 
 ⑤三峯山 
 ⑥両神山 
 ⑦武州御嶽山
 上記の内越生山本坊は、越生町の黒山三瀧(男滝・女滝・天狗滝)及び熊野神社、本山派修験の道場であり、入間・比企・秩父三郡、常陸・越後(一部)の年行事職大先達であった。熊野神社は古くは将門宮と称し、平将門の後裔との伝承が残る栄円(箱根山別当相馬掃部介時良)により、関東の熊野霊場として応永五年(1398)に修験道場(越生山本坊)を開いたと伝えられていて、京都聖護院配下の本山派修験二十七先達の一つに数えられている。

 この山本坊栄円は「相馬掃部介時良」が本名であり、露梨子春日神社や折原佐太彦神社稲乃比売神社の神職と同姓である。何か関連性はあるのだろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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