古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

靭負熊野神社

「靱負尉(ゆきえのじょう))は「えもん(衛門)の尉」の別称で、律令制における官司。律令制以前は大王の親衛軍をさし、靫負(ゆげい)と言われていた。原義は「矢を入れる靫(ゆき、ゆぎ)を負うもの」であり、靫を持って朝廷の警護の任に当たった武官を指す言葉である。舎人同様、上に天皇や宮号を称するものであり(白髪部靫負・勾靫負など)、国造の子弟を主として編成されたもののようである。舎人が東国出身者が多かったのに対し、靫負はどちらかというと西国が中心である。舎人が天皇の警護を主としたのと異なり、靫負は宮城の門を守護することが主任務とされていたが、宮号を称する靫負が少ないことから、舎人の勢力に押され、儀仗的な存在になったことが推定される。
 宮城・衛門府の第三等の官で、左右二府に大尉(だいじょう)、少尉(しょうじょう)がある。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。律令制では、従六位下、正七位上相当の官で、衛門府のことを「靫負司(ゆげいのつかさ)」と呼ぶこともあり、衛門佐を「靫負尉」とも呼称していて、検非違使庁も衛門府の官人の兼任からなるところから、「靫負庁」とも呼ばれている。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町靭負343
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 43日 御例祭 1015

 国道254号バイパスを寄居町方向に進み、進行方向左側に見える「ホンダオート オークション東京会場」を越えた直後のT字路を左折する。道なりに800m程進行すると右側に東武東上線東武竹沢駅ロータリーが見え、その先の突当たりを左方向に進路をとる。その後「靭負区民センター」手前にT字路があるので、そこを左折し、暫く進むと正面方向に曹洞宗竹沢山雲龍寺の標柱が見えるが、同時に熊野神社の参道入口でもある。地形を確認すると東武東上線東武竹沢駅から直線距離で東300m程の場所にある。
 曹洞宗竹沢山雲龍寺には専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行った。
               
                                 靭負熊野神社入口
                    
曹洞宗竹沢山雲龍寺の北側で高台に鎮座する。

  小川町靱負地域は嘗て竹沢郷と云われ、この一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
・武蔵七党系図
「有三郎別当大夫経行―保義―竹沢二郎行高―五郎行定(三郎トモ)」
冑山本の武蔵七党系図
「保義―行家―富野四郎大夫行義―□□―雅行―竹沢二郎行高―五郎行定」
               
                                      正面一の鳥居

 槻川支流の兜川流域に位置する小川町笠原・原川・木呂子・勝呂・木部・靱負は、かつて、竹沢村という一村であったが、その前身は中世における竹沢郷であったと推定される。児玉党に属する竹沢氏は、同郷を「名字の地」とする武蔵武士で、南北朝内乱のとき足利尊氏に従った竹沢右京亮はその一族と思われる。
『太平記』によれば、かつて南朝の新田義興に従ったことのある竹沢右京亮は、延文3年(1358)に畠山国清にそそのかされ、江戸高良や同冬長とともに多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で新田義興を謀殺したという。江戸時代中期にこの事件を浄瑠璃に翻案した福内鬼外(平賀源内のペンネーム)の『神霊矢口渡』は大当たりし、歌舞伎の台本にも転用された。そこでは竹沢右京亮は竹沢監物という名前の悪役として登場し、義興の亡霊に身を引き裂かれ最期を遂げるという役回りになっている。
 竹沢郷は、平一揆の乱ののち、竹沢氏から没収されて猪俣党に属する藤田覚能に宛行われたが、やがてその一部は鎌倉の円覚寺に寄進されて同寺領となった。
                                                「小川町編集発行 小川町のあゆみ」より引用
            
 一の鳥居を過ぎ、緩やかな坂を上ってき、石段を登った先には二の鳥居がある(写真左)。また石段の手前右側には「改築記念碑」がある(同右)。

「改築記念碑」の手前には平成二十三年(2011)記述の「郷土史案内」の立札もあり、そこには「この記念碑は大正八年(1919)に当熊野神社々殿が改築されたのを記念して設置されたもので、碑の正面には「閲額」(武蔵一の宮氷川神社宮司額賀大直氏)と経過を綴った碑文(撰文社掌根岸学丸氏)を掲げ、裏面にはこの事業に賛画された方々に加え、明治二十三年(1890)宿願の社殿新築がなされた折に尽力された人達をも刻するなど、万事にぬかりが見られず、そしていま……先人達が鎮守の社に掛けた思い・願いを伝えるこんも碑も時を経て百歳を迎えようとしています」と記載されている。
               
                                  木製の二の鳥居
                   
          二の鳥居のすぐ左側に聳え立つ「熊野神社の大スギ」

 町指定文化財 天然記念物 「熊野神社の大スギ」
 所在地 小川町
靱負三四一
 昭和三十八年三月十二日指定
 目通り四・三メートル 樹高約三三メートル
 昭和六〇年十二月二十五日 小川町教育委員会 熊野神社

「埼玉の神社」には「昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった」という。
               
                  
靭負熊野神社境内 
 おそらく削平により平場にしたのであろう。右側の崖を見るとふと先人の方々の苦労を鑑みてしまう。
               
                                      拝 殿

 熊野神社(靱負三四三)
 靭負の熊野神社は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族で、竹沢郷一帯を領した竹沢氏の館跡とされる場所に祀られており、境内には竹沢左近将監の供養塔と伝えられる五輪塔がある。熊野神社の創建の年代は不明であるが、神社に隣接する竹沢山雲龍寺には、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(一三〇三-〇六)にここに草庵を設けたことに始まるとの寺伝があることから、熊野神社の創建もこれと同時期と見る人もある。
 靭負では、熊野神社と雲龍寺が密接に関係していたため、いわゆる神仏分離令が出された後も、実態としてはなかなか分離が進まなかった。そのため、雹祈祷(春祭り)は雲龍寺の僧が祭りを行い、秋祭りは神職(地元にいないため飯田から呼んだ)が祭りを行うといった状況が明治二十年ごろまで続いていたという。
 熊野神社の社殿は、元来は南向きであったが、明治二十二年に拝殿を建築した際に立地上の理由から東向きに変えた。また、境内には昭和三十八年に「熊野神社の大杉」として町指定天然記念物になった老杉があるが、戦前はさらに大きい老杉が鳥居の脇にあった。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
       社殿左側(南側)にある五輪塔     社殿右側に鎮座する境内社・大山神社 天満宮
竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる。
               
               参道方向から見る靱負地区の眺め。
      先人たちはどうのような気持ちで現在の状況を思っているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「小川町の歴史別編民俗編」「小川町編集発行 小川町のあゆみ」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」等
      



       


            



   





 

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荒子八幡神社


                 
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町荒子472
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 不明
             
・例 祭 不明

 万光寺氷川神社を東方向に進み、埼玉県道76号鴻巣桶川線に交わるT字路を右折する。周囲を田畑風景が広がる中、県道進行方向に対して左側に鎮守の杜らしい社叢林が見えているものの、左折して直接社に繋がっている道がない。一旦社叢林を通り過ぎてから「衛生研究所入口」交差点を左折し、同県道33号東松山桶川線を東方向に進み、500m程進んだT字路をまた左折し、道なりに進み「台山排水路」を越えた北側に荒子八幡神社の社叢がはるか遠くに見える。

『新編武蔵風土記稿』によれば、荒子は、「村民良助が先祖茂兵衛」という人物が慶長年間(一五九六-一六一五)に開発したという。慶長十九年の伊奈半十郎の検地や正保の改めの図からも知られるように、当初は開発者の名を採って「茂兵衛新田」と呼ばれていたが、寛文のころ(一六六一-七三)に現在の名に改めたと伝えている。当社の境内は、この荒子の集落の北方にあり、村の鎮守として祀られてきた。境内の周囲は一面の水田で、社殿は水害を避けるために塚の上にある。
               
             「台山排水路」から見る荒子八幡神社

 実はそこから舗装された道はなく、車両は勿論路駐。徒歩にてあぜ道を進み、やっと社に到着する事が出来た。周囲は舗装されていなく地元民でないと分からない場所にあるわりには、不思議と神社の前には大きな駐車スペースが有る。
                
                                  荒子八幡神社正面

 一面の田畑風景の中にポツンと古墳のように見える塚状の丘があり、その丘周辺に社叢林が覆っていて、よく見ると鳥居が2基並んで立っている。遠目からでも規模もそれほど大きくはないようだ。
「陸の孤島」と表現しても全く違和感なく、それでいて長く続く参道のようなあぜ道の先に見える小さい鳥居に、特別な感覚をおぼえたことも事実である。社に通じる道が舗装されていない所も、逆に威厳さや荘厳さを醸し出しているような摩訶不思議な社。
 
      荒
子八幡神社 一の鳥居        境内参道の先、丘上に拝殿が見える。
  参拝客など筆者以外全く見られないが、一旦境内に入ると意外と綺麗に整っていている。
               
                石段を登った先に拝殿が鎮座する。

 吉見町荒子地域は、市野川と文覚川、その間を流れる農業排水路である「台山排水路」が合流する地点から北側にその地域の大部分が該当し、平均標高は12m程の低地帯である。子八幡神社が鎮座する場所は、荒子地域中央部・台山排水路の北側にあり、社に近づくにつれ徐々に標高が緩やかに高くなり、尚且つ丘上に鎮座するので、周囲に比べても高い場所となっている。
 因みに荒子八幡神社の標高は14.7mである。
 
            拝 殿                拝殿上部にある扁額

 八幡神社 吉見町荒子四七二
『風土記稿』によれば、荒子は、「村民良助が先祖茂兵衛」という人物が慶長年間(一五九六-一六一五)に開発したという。慶長十九年の伊奈半十郎の検地や正保の改めの図からも知られるように、当初は開発者の名を採って「茂兵衛新田」と呼ばれていたが、寛文のころ(一六六一-七三)に現在の名に改めたと伝えている。当社の境内は、この荒子の集落の北方にあり、村の鎮守として祀られてきた。境内の周囲は一面の水田で、社殿は水害を避けるために塚の上にある。
 当社の本殿は、文政四年(一八二一)に熊谷の宮大工によって造営されたと伝えられているが、それ以前のことについては、明らかではない。また『風土記稿』荒子村の項には、村内の神社についての記載がない。しかし、当時の荒子は「家数七十余」と、この地域では比較的大きな村であったから、村に鎮守がなかったとは考えにくく、『風土記稿』も善長寺(明治四年に廃寺)について「八幡山と号す、本尊不動」と載せているところから、そのころ既に当社が存在していたことがうかがわれる。
 したがって、当社は、はじめは『風土記稿』の筆者に見落とされるほど、塚の上に石の祠が一つある程度の極めて小さい神社であったのを、文政四年に至って社殿を造営し、その後次第に設備を整えて現在の姿になったのではないかと考えられる。
                                  「
埼玉の神社」より引用
               
                 拝殿上部から石段下を撮影

「横見郡」は横見郡(よこみぐん)は、埼玉県(武蔵国)にあった郡で、現在の比企郡吉見町。古くは熊谷市の一部(旧大里郡吉見村、古代の御坂郷)の地域も含まれていた。安閑天皇元年(534年)の武蔵国造の乱後に献上された4つの屯倉のうちの1つ横渟屯倉はのちの横見郡に当たると推測されている。
 当時の資料では「小」郡で、高生郷(たけふ)・御坂郷・余戸郷(あまるべ)の3郷で、今の比企郡吉見町にあたると通説では言われているが、一説によると、古代における横見郡の郡域は、より広範囲に広がっていたと考えられている。

『和名類聚抄』によれば、横見郡は高生郷・御坂郷・余戸郷の三郷で構成されていた。
 このうち高生郷は吉見町田甲を遺称地と見て、吉見町北西部から東松山市北東部に、御坂郷は熊谷市南東部から東松山市北部に、余戸郷は吉見町「荒子」を遺称地と見て、吉見町南部から川島町にかけての一帯に、それぞれ比定するのが一般的である。


 荒子八幡神社の右側隣には境内社・稲荷神社が鎮座している。
        
                                  稲荷神社正面
 
        稲荷神社鳥居             鳥居に掲げられた社号額
               
               隣に鎮座している八幡神社と同じ形態の参道と丘上に鎮座する社
               
                                 稲荷神社 拝殿



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等


 

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万光寺氷川神社


                       
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町万光寺82
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 吉見町万光寺地域は下銀谷地域の北東に位置し、且つ隣接している地域である。また下銀谷稲荷神社に接している道路を南下し、すぐ先のT字路を左折すると、左側に万光寺氷川神社の鳥居が見える。距離にして100m程しか離れていない。
               
                             南向きに鎮座する
万光寺氷川神社

 荒川と市野川の間の低地帯に位置する場所にひっそりと鎮座している。標高図を確認すると、万光寺地域の平均標高は12m13m程だが、社は16m程。社殿は1m程の高台か古墳の上に建てられているが、社殿の裏はさらに石垣が基礎となっていて、また一段高くなっている。恐らく自然堤防の縁にあるのであろうと推測される。
               
                     規模は小さいながら、何とも趣のある社の一の鳥居
 
 一の鳥居のすぐ先には石製の二の鳥居がある。       二の鳥居の上部にある社号額
               
                  鬱蒼とした林の中、参道の先に拝殿が高台上に鎮座する。

『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』において、「往昔當村に萬光寺と云寺ありし故に村名起れりと云、されど村名正保の改には見へず、元禄の改に始て裁す(中略)吉見用水を引て耕植し、また天水をて助水とす、」と記載がある。
 荒川と市野川の間の低地帯に位置し、河川の氾濫地帯であるにも関わらず、一度飢饉等の干ばつ用に天水を溜める対策も講じなければならない当時の方々の苦労を感じてしまう記述である。

 また小字に「墓ノ前」とあり、これも「萬光寺跡なり、たまゝ墓碑など掘出せしことありと云」と書かれていて、嘗て萬光寺というお寺があったが、今は既に廃寺となっていて、その面影すら残ってなく、ただ「墓碑」が偶然掘り起こされて、元禄年間に村の名前となったという事となったという。
               
                                      拝 殿

○氷川社
 村の鎮守なり、神體は丸き青石にて圓經一尺許、面に永和六年二月廿八日凌佛建立の数字を彫れり、古き勸請なること知べし、
 土人の語に今田中村の高負比古神社、御所村の横見神社と當社とを合せて、横見郡三社と唱ふと、されど彼二社はともに式内の神社にして、當社は永仁六年勸請といふ、其の年代遙に下りたれば、並べ稱すべき社にはあらざるべし、
                          『新編武蔵風土記稿 萬光寺村条』より引用

 万光寺氷川神社の創建は、日本の南北朝時代の元号の一つである永和6年(1380)とも、鎌倉時代後期の永仁6年(1298)ともいう。確かに歴史ある古社であろう。当地の人々は、この社を田中村の高負比古神社、御所村の横見神社と合わせて「横見郡三社」と唱えていたという。
 
          万光寺氷川神社の東側に隣接してある地蔵像と、板碑群(写真左、右)。


参考資料「新編武蔵風土記稿」等

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下銀谷稲荷神社


               
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町下銀谷1
              
・ご祭神 倉稲魂神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 例祭 1015

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)沿いにある「道の駅いちごの里よしみ」を通り過ぎた最初の信号のある交差点を左折する。辺り一面田畑が広がる中にポツリポツリ民家が立つ長閑な風景を愛でながら1㎞程進むと、正面右側に社叢林らしい場所があり、そこの十字路を右折するとすぐ左側に下銀谷稲荷神社の鳥居が見える。社としての規模は小さく、東西に通じる道路に対しても社殿は背中を向けていて、尚且つ社叢林に隠れているので、ルートの説明は意外と簡単でも、やや目立たない場所である。
 民家が隣接しているため、また社務所等もないので駐車スペースはない。車両等の邪魔にならない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
               
                  下銀谷稲荷神社正面

 下銀谷稲荷神社が鎮座する吉見町下銀谷地域、嘗ては「下銀谷」と書いて「しろかねや」と言っていたようだが、現在「しもぎんや」と読まれている。「埼玉の神社」による地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。

『新編武蔵風土記稿 上銀谷村条』には「古杉薬師」に関して以下の記載がある。
 〇薬師堂
「腹籠に、行基の作佛を置り、傳え云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て小杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分かれて繁茂せり」
 
 鳥居に掲げてある社号額。字が見えずらい。    参道の先の高台上に社殿が鎮座しているが、
                           前面の樹木の為隠れてしまった。
               
                     拝 殿
           高台の上に鎮座しているが、古墳かどうかは不明。

 稲荷神社  吉見町下銀谷一
 下銀谷の地は、もと銀谷村の内であったが、貞亨二年(一六八四)に上下に分村した。地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。
 社伝によると、第五一代平城天皇の御代である大同年間(八〇六-一〇)に一つの村落として開かれてより神明社(現在の上銀谷の鎮守)を久しく崇敬してきたが、分村後三十年余を経た享保二年(一七一七)に下銀谷村の鎮守として稲荷神社を奉斎した。安政二年(一八五五)に石段を建設し、文久三年(一八六三)には石鳥居を建立したという。
『風土記稿』には「稲荷社 村の鎮守とす、清雲寺持」とあり、清雲寺については「新義真言宗、御所村息障院末、本尊不動を安ず、天王社」と載る。同寺は祭りの花火による失火が原因で周囲の民家と共に焼失したと伝えている。その跡地には現在下銀谷の集会所がある。
 本殿両脇に二つの石祠がある。一つは八坂社(旧天王社)で、明治四十年に清雲寺跡地から移された。もう一つは八幡社で、その由来は明らかでない。共に天明八年(一七八八)の年紀が刻まれている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
               
              拝殿上部に掲げてある木製の案内板

 当地は五十一代平城天皇の御代大同年間に白銀谷部落として発詳してより神明社を久しく崇敬し来れり宝永六年に至り地区を分割して上銀谷下銀谷となる
 享保二年に現在の地に倉稲魂命を奉斎して鎮守として崇敬し来れり
 安政二年石段を建設、文久三年鳥居を建立す 明治四十年に八坂神社を合祀す 昭和七年に再建す(以下略)
                                      案内板より引用

           
                        拝殿手前で右側に聳え立つ巨木。

『新編武蔵風土記稿久米田村条』には「褒善者内山孫右衛門、世々里正を勤む。郡中飢饉の時夫食を施し其外奇特の事あり、時の御代官今井九右衛門言上して、宝暦六年三月九日白銀若干を給はり、且其身一代帯刀及苗字は永く名乗る事を許されしと云。孫右衛門が先祖は内山外記とて松山城主上田氏の臣たりしが、落城の後当村の民となりしと云」と記載がある。
 因みに久米田村には字「外記谷」があって、内山外記が天正十八年の豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏は滅亡、同時に松山城落城した際に土着して帰農したといい、その由来にてつけられた地名という。

 また、おそらくこの内山氏が残したであろう「内山文書」には以下の書簡が伝存している。

・「当原地三貫文之所(足立郡)并大串之内銀屋不作十七貫文之所(横見郡)出置候、永禄九丙寅十月二十四日、内山矢右衛門尉殿、氏資花押」
・「自前々大串之内銀屋より召仕陣夫、如先御印判、無相違、可召仕者也、午十一月二十七日(元亀元年)、内山弥右衛門尉殿、奉之笠原藤左衛門」
・「自前々召仕候陣夫壱疋、只今松山領大串の内白金屋、松山へ断相済間、為先此印判、自来調儀可召仕、松山へも、猶此旨、有御下知者也、天正六年戊寅三月十四日、内山弥右衛門尉殿、奉之垪和伯耆」

 ここには「銀谷」が嘗て「銀屋」又は「白金屋」と記載されている。
 
 
   巨木の手前に鎮座している境内社。       境内にある庚申塔 青面金剛像。
案内板等に書かれている八坂社か天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「内山文書」「埼玉の神社」等
 

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大串氷川神社

 大串次郎重親(おおくし じろう しげちか)は、平安時代後期の武士。武蔵国を拠点とした武士団、武蔵七党の一つ、横山党の出身。大串氏は、由木保経の次男・孝保が称したのに始まり、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする家柄であり、重親はその孝保の子であった。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものと考えられている。
 宇治川の戦い、その後奥州合戦で活躍する。奥州合戦では、重忠に随伴し、阿津賀志山の合戦で敵の総大将藤原国衡を討ち取ることに貢献した。和田義盛が矢を射掛けて国衡が負傷してうろたえたところに重親の部隊が猛攻撃をしかけ、深田に馬の足を捕らわれもたついている国衡を討ち取り首級をあげたことが、『吾妻鏡』に記されて、重親は討ち取った国衡の首を重忠に渡している。
 その後畠山重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦する。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて撤退した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれている。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものでもあり、度重なる合戦では畠山一党として随伴した「情」もあったろう。なんと心優しい坂東武者ではなかろうか。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大串613
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)と埼玉県道33号東松山桶川線の交わる「大串」交差点南側に大串氷川神社は鎮座している。地図を確認すると、前河内日吉神社からほぼ南側で、直線距離でも100m程しか離れていない。
               
                              大串氷川神社正面
         氷川神社の鳥居前には庚申塔と辯財天が共に祀られている。
               
                          庚申塔(写真左側)と辯財天(同右側)。
           辯財天は右手に剣を、左手には宝珠を持っている。
               
                      大串氷川神社鳥居。右側端部が欠けている。

「埼玉の神社」によると、「武蔵七党の一つ横山党の大串氏は、八王子市由木に住する由木氏から分かれた一派で、当地を本貫とし、前河内・江綱・久保田などを領したという。中でも、大串次郎重親は、寿永三年(一一八四)の宇治川の先陣で平家と戦ってその名を馳せ、更に、文治五年(一一八九)の源頼朝の奥州征伐に従って戦功のあったことでよく知られており、その後も戦国時代まで、鎌倉管領方に属し、武功を立てている」との記載があり、鎌倉時代大串氏はこの「大串」地域のみならず「前河内・江綱・久保田」地域も領有していたという。

大串次郎重親に関して「新編武蔵風土記稿 大串村条」において長文を載せて紹介している。途中漢文体もあるので、筆者の解釈にて訳す。
大串次郎重親墓、毘沙門堂の背後に在り、五輪の石塔にして、面に永和二年丙辰十二月日沙弥隆保と彫る。これ重親が法諡なりと云ふ。大串は武蔵七党の内、横山党にて、祖先は小野篁の後胤、横山大夫義高の苗裔、由木六郎保経の二子を大串次郎孝保と号す、是れ大串の祖にして、其子大串次郎重保、又重親と号せし由、彼の系譜に見ゆ。又【東鑑】文治五年八月十日錦戸太郎国衡討死の条に、重忠門客大串次郎、国衡に相逢ふ。国衡駕する所の馬は、奥州第一の駿馬、高楯黒と号する也。大肥満、国衡之に駕す。毎日必ず三箇度平泉高山を馳登ると雖、汗を降さざるの馬也、而して国衡義盛の二箭を怖れ、重忠の大軍に驚く。道路を閣て深田に打入るの間、数度鞭を加ふと雖、馬敢て陸に上る能はず。大串等於得理梟首大遮也云々と見ゆ。此の余【平家物語】、及び【源平盛衰記】宇治川合戦の条に、重忠に扶けられて重親が川を渡せし事を載せたり。重親は畠山重忠が鳥帽子子にして、屡々戦功もありしとぞ。さるを今此の墓に永和二年とあれど、重親が錦戸太郎国衡を討しは文治五年にして、其の年代百八十余年を隔たる、されば爰に記せる沙弥隆保は大串氏の人にて、重親が子孫などなるを、たまたま著名たるによりて、重親が墓といひならはせしか」
 
      参道の先に拝殿が鎮座する。           拝殿の手前に設置されている
                           「氷川神社由来記」

 氷川神社由来記
 本社は鎮座の年代を詳かにせざるも、大串次郎重親、武蔵一宮氷川神社より勧請すと伝えらる。社蔵の記録文書等は累次の洪水により流亡し尽し、僅かに比企郡神社誌に「口碑に永徳及び元禄の社殿造営を伝う」との記事あるのみ。然れども作神として時代を超えて農民に尊崇されて今日に至りしこと明らかなり。
 明治四年六月村社に列せられ、明治四十年四月大串六社の合祀をみる。大正二年拝殿の造替を視、昭和五十九年十二月には拝殿が改築され、次いで平成八年三月神門建替を行ふ。
 社前には享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり。また三十五貫目と刻せる石あり、芭人の力競べせし有様僅かに伝ふ。
 是に由来の散逸を懼れ、石に刻して識となす。(以下略)
                                     由来記文より引用

               
                     拝 殿
               
                            拝殿前にある石燈籠
享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり、左側の燈籠には「正一位氷川大明神」と刻印されている。
               
 境内には石祠(写真左)あり。詳細不明。また社殿奥には「愛宕大権現」の石碑もあり(同右)


 ところで横山党大串氏は小野氏系図によると、「「〇横山次郎大夫経兼―由木六郎隆家―大串野五隆保(少代)―次郎重保(重親)」と記載されていて、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする武蔵七党・横山党に属する一族である。

 大串次郎は畠山重忠同様に、大串郷の鍛冶支配頭領の可能性も高い。というのも、始祖であり、重親の父である隆保は「大串」苗字であるのと同時に「少代」を号していて、比企郡正代村(現東松山市正代地域)の有名なる『正代鋳物師』の出身、もしくは知行地ゆえに少代氏をも称していたという推測は眉唾ものではない。
               
                                  境内の一風景

 
因みに正代地域は鎌倉時代には「小代郷」と呼ばれ、小代氏(児玉党を出自とする武士)の居住地であった。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、小代鋳物師(いもじ)と呼ばれる集団である。
 大串次郎重親はこのように「大串」地域を中心に「前河内・江綱・久保田」各地域を領有し、「正代」地域も支配していた。もしかしたら「前河内・江綱・久保田」各地域も、鋳物生産をする拠点がそれぞれあったかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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