古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秋山十二天社

 日本人の多くはその時々の行事を通じて多種類な信仰を持つ不思議な民族だ。例えば子供が生まれた時には「宮参り」と称して神社(神道)にお参りするのに、お葬式はお寺(仏教)で行うという人が多数派だ。クリスマス(キリスト教)を祝ったかと思うと年末はお寺に除夜の鐘をつきに行き、翌日の新年は神社に初詣でをする。そのくせ、何故か自分のことを無宗教と思っている人が多い。逆に無宗教だからこそ、複数の神や仏を拝むことに何の違和感を覚えないのかもしれなし、それを不思議なことと感じる事すらない。
 こうした日本人の信仰に対する特性を育んだ背景の一つには、日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた「神仏習合」の歴史があったからではないかと考えられる。
 神社とお寺は、ご承知の通り神道と仏教という、それぞれ異なる宗教であるが、私たちは神と仏の区別をそれほど意識することなく信仰の対象として生活に取り入れ、見事に融和させながら過ごしてきた。これはいわゆる「神仏習合」、又は「神仏混沌」ともといわれる信仰だが、このように異なる二つの宗教文化を、1000年以上にわたり共存させている国は世界でも類をみない稀有の国柄といえる。
        
              
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山3566
              ・ご祭神 天部十二柱
              ・社 格 関東10霊場 第7番霊場
              ・例 祭 不明

 秋山十二天社は本庄市児玉町秋山地区南部、上武山地の北東端に位置し、十二天山頂に鎮座する。十二天山の南西には陣見山(531m)があり、北東側には松久丘陵、児玉丘陵、本庄台地の稜線が広がる。途中までの経路は秋山河原神社秋山新蔵人神社を参照。丁度秋山河原神社から秋山新蔵人神社に通じる道路をそのまま南下するように直進。秋山新蔵人神社から秋山十二天社駐車場のある十二天池まで約1㎞強だが、道幅は狭くなるため、対向車線の車両には注意が必要だ。
 
 十二天池(写真左・右)は治水用の池であり、山懐に静かに佇む小さな池。秋の紅葉を感じつつ、暫し休憩する。
 
十二天池脇に車を止め、秋山十二天社に徒歩で参拝。山頂への石段の中段のところまで細い林道があり、狭い道に自信のあるドライバーなら車で行けるようだが、筆者にはそのような自信はなく、素直に徒歩で参拝する。
        
                 秋山十二天社 参道正面
 
 十二天池南側には社務所(写真左)ががあり、社務所の手前並びには石祠(同右)があるが、詳細は不明。道を隔てた反対側には鬱蒼とした草木に隠れてしまった鳥居もある。社務所入り口には「社務所掲示新聞記事」が張り付けてある。

 社務所掲示新聞記事
 秋山十二天は、JR八高線児玉駅の南方約5キロ、364メートルの十二天山頂にあります。文献には1204年前の平安時代始めの創立と記されています。現在の社殿は212年前の1799年に建てられました。本庄市の文化財に指定されています。
 ご神体は毘沙門天、帝釈天、閻魔天など古代インド 12の神々(十二天)で、仏教の護法神として八方・上下など12の方向を守っています。
 社殿は権現造りの神社様式ですが、鐘楼もあり、祭典にはお経を唱えるなど、神仏混合の形を残しています。 関東10霊場の第7番霊場で、戦後間もないころの春の祭典には、参詣する人 々で行列ができたほどです。
 いまでは社殿の近くまで道路ができ数台の駐車場もありますが、時間があれば十二天池の駐車場から30分ほど歩いてお参りするとよいでしょう。境内から本庄市街地が一望できます。空気が澄んでいる日には東京スカイツリーもかすかに見えます。
 来年の元旦察には、スカイツリーの左背後から昇る初日の出を拝み、家族の幸せなどを祈願してみてはいかがでしょうか。
                                   掲示新聞記事より引用

        
 参道を徒歩にて出発。参拝当日は天候も良く、正にウォーキング日和であったが、鬱蒼とした参道に入った瞬間からヒンヤリとした温度差、また適度な湿度も体感した。
        
 徒歩にて数分進むと見えてくる石製の鳥居。社務所前にある鳥居があるので、これは二の鳥居か。
この鳥居を越えてから第一の目標である「寺戸の樫(かし)」に向けて進む。
       
      歩く事数分後にたどり着いた「「寺戸の樫(かし)」。行政区域上では美里町となる。
            
                  左脇にある案内板
 寺戸の樫 町指定文化財昭和55725日  推定樹齢700年
□由来
この樫の木は、アカジタの
伝兵衛樫*とも呼ばれている。
地元の伝承によると、
昔、榛沢村(現深谷市榛沢)に住んでいた伝兵衛という若者が神様に力を授けてもらいたいと考え、秋山十二天社へ21日間の丑の刻詣りをした。お参りをする際、一反(約10mほど)のさらしの端を鉢巻にして、長い布を後になびかせ、その先が土につかぬように走り続けた。満願の日、神様のお告げがあり、伝兵衛は太刀を授けられた。彼は大悦びで下山したが、樫の木のところまで下りてきたとき、自分がまだ鉢巻をしたままでいるのに気づき、その鉢巻を解いて、大樫の幹に巻きつけて帰った。以来、この木を伝兵衛樫と呼んでいる。
*「アカジタ」とは、字寺戸の一部の地名で樫の木周辺のことをいう。樫の木の周辺で大蛇が出たことから「赤舌」と呼ぶようになったといわれている。(以下略)

                                      案内板より引用
 
 寺戸の樫の撮影等を終了し、水分補給後、改めて出発。正直言うとこの時点で足の疲労はかなり来ている。車を使用しなかったことへの後悔を押し殺して進む(写真左)。そしてやっと「十二天参道」の標識(同右)までたどり着くことができた。
        
                         秋山十二天社 木製の三の鳥居
 
鳥居を過ぎると参道の両脇に石碑等が立ち並ぶ。    社殿に通じる石段にたどり着く。
    左側には松尾芭蕉の句碑もある。     体力的にはかなり限界。残りは精神力のみ。

 参拝終了後、編集時に知ったことだが、この石段は163段高低差26mあるそうだ。中々の勾配でもある為、踊り場も数カ所利用し、何度も休憩を入れながら登る。
 
 よく見ると石段正面には鐘撞堂(写真左)が見え、登り切った場所から左側にまた道があり、そこからまた社殿に通じる石段(同右)がある。
        
                                       拝 殿
          参拝時は昼過ぎで逆光。また疲れもある為、やや傾いてしまった。

 標高364mの山頂にある秋山十二天社。秋山十二天社社殿は、神仏混淆の神社でもあることから、十二天堂とも呼ばれた。江戸時代に度重なる火災に見舞われたが、寛政11年(1799)になって杮葺き権現造りの社殿として再建されたという。現社殿の屋根は、1979年(昭和54年)に修築で銅板葺きに改修された。創建は平安時代初期ともいわれ、古い歴史をもつ。

 新編武蔵風土記稿 那賀郡秋山村
 十二天社 村ノ南ノ方ニアリ大同年中ノ勸請ト云那賀郡十四カ村惣鎭守ナリコノ社アルヲモテコヽヲ十二天山ト呼ヘリ今モ護摩所籠堂二天門□ノ宮等ソナハレリ 鐘樓 寬永四年造立ノ鐘ヲカケシカ寬政七年野火ノ爲損シテ未タ再興ニ及ハス
 
別當本覺院 新義眞言宗小平村成身院末聖德山光政寺ト號ス本尊不動ヲ安ス

 十二天とは東西南北、東北・東南・西北・西南、天地、月日の十二の天をお守りする神様だそうだ。言い伝えによると坂上田村麻呂がこの地で暴れていた大蛇を退治するために十二の天に祈ると十二人の神々が現れて大蛇を退治したという。
             
      
本庄市指定有形建造物 秋山十二天社社殿 昭和六十三年一月一日指定碑
 秋山十二天社は山頂に鎮座していて、同時にその山頂に至るまでに、かなりの体力を必要とするにも関わらず、このような荘厳で凝った建築、彫刻(写真左・右)が施されている。
        
                     神仏習合が色濃く残されている
鐘撞堂

 神道とは、山川草木など自然の生命にも霊的な存在が宿る、いわゆる自然神への信仰を起源とする日本独自の宗教だ。日本人はあらゆるものには生命が宿るという、八百万(やおよろず)の神という考え方を古くから持ち、自然の恵みに感謝する収穫祭や豊作祈願などの祭事を行ってきた。
 一方の仏教は、2500年ほど前に北インドで釈迦(ブッダ)が創始し、中国を経て6世紀ごろに日本に伝来。教祖である釈迦像などをご本尊として、聖典として大蔵経(お経)を唱え、厳しい修行を行うことで悟りを開き来世で救われるという思想を持つ宗教だ。教祖も経典も無く、拝むことで現世での救いを求める神道とは、その由来も思想も大きく異なる。
 仏教伝来当初は、古来より崇められてきた神道に対して、新たな仏教を受け入れるかで政治的な対立もあったが、もともと明確な戒律や教義を持たない柔軟性のある神道と、体形的な考え方を持つ仏教は、それぞれの特徴をいかしながら、一体のものとして考えられるようになり、仏が神という仮の姿で現れる=権現という考え方なども生まれ、「神仏習合」という、独自の宗教観に結びついていく。
        
                        
秋山十二天社 社殿からの見事な眺め

 現生人類が日本にたどり着いた約4万年前から縄文時代、そして現在に至るまで海に囲まれたこの日本は後に「日本国(大和国)」と形成するわけだが、どこの国からの侵略も受けずに今に至っていて、そのような国は世界どこを探してもない状態の中で、奇跡の国ともいえる。
 その淵源とした日本人の心の奥底に活き、受け継がれ、日本文化を形成する大きな要因となってきている「自然宗教」といえる神道。そこから6世紀以降から派生し市民生活に受容された、死後の世界の保証を求める「仏教」を日本人は神道に入れ込み、「神仏習合」として信じているのである。それらを「宗教」であると意識せずとも「習慣」として日常的に行っている日本人のことを「無宗教」であると言い張ることは出来ないのではないだろうか。

 一般的な日本人の捉える「宗教」はキリスト教やイスラム教等の所謂「創唱宗教」であり、「自然宗教」は「宗教」として捉えられていない傾向がある。しかし、現実には日本人は何万年という歳月で積み重ねられ、幾重にも醸造された「自然宗教」という「宗教」の信者なのであり、決して「無宗教」ではないのである。
 先祖代々受け継いできた「奥深い宗教心」を知らず、何の躊躇もなく「無宗教だ」と答えることは、自らの存在や日本という国について知らないということと同じではないだろうか。

 世界はグローバル化が進み、今後私たちはますます多くの外国人と接する機会があるだろう。外国文化に興味を持ち、留学を志す学生も多くいる。しかし、自らの国の文化を作り上げる上で非常に大きな要因になっている宗教について知らずして外国人と接すれば知識の欠如によって恥をかくことになりかねない。外国文化を学ぶ前にまずは自国の文化を形成する大きな要因となっている宗教について知るべきではないだろうか。自らの思想、文化、信条を作り上げている「宗教」という存在をもっと身近なものとし、その本質を捉えること。日本人を名乗って生きていくならば、知っておくべき教養なのではないだろうか。
 難しい話となってしまったが、今回秋山十二天社を参拝して、改めて「神仏習合」の成り立ち等を学び、その中でふと感じた日本という国形成の奥深さを改めて感じた次第だ。

参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「社務所掲示新聞」等

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秋山河原神社

 秋山川は埼玉県本庄市を流れる利根川水系の一級河川である。本庄市児玉町秋山地区の陣見山の十二天嗣付近に源を発し、児玉丘陵内を南から北に向かって流れる。源流点付近には十二天池がある。字陣街道で小山川に合流する。途中、児玉用水が伏せ越しで交差する。 水量は多くなく、川底には雑草が生い茂る。支流の水押川には川沿い1kmにわたって曼珠沙華が10万本自生しており観光地となっている。
        
            ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山1401
            ・ご祭神 河原次郎盛直
            ・社 格 指定村社
            ・例 祭 祈年祭 315日 大祓式 630日 夏祭り 715日
                 例大祭 1015日 新嘗祭 1123日 大祓式 1225日

 秋山河原神社は秋山新蔵人神社から800m程北側に鎮座している。社に隣接して「河原神社社務所」があり、道路沿いには適当な駐車スペースも確保されていて、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
 社周辺には長閑な田畑風景が広がり、時間がゆっくりと過ぎているようで、穏やかな気持ちに包まれながらの参拝となった。
        
                                     秋山河原神社正面
    東側には「指定村社 河原神社」の社号標柱があったが、撮影はしなかった。
         社は決して規模は大きくないが、手入れは行き届いている。
        
                                         秋山河原神社に設置された案内板

 河原神社御由緒  本庄市児王町秋山一四〇一
 ▢御縁起
『風土記稿』秋山村の項では、当社について「河原明神社 元暦元年(一一八四)二月摂州生田(現神戸市)において打死せし、河原次郎の霊を祭りしと云、隣村風洞分に太郎高直を祀れる社あり、埼玉郡河原村は河原兄弟居住の地にて、其墳墓といへるものあり、夫等の因にて当所に祀りしなるべけれど、其詳なることをつたへず、日輪寺持」と記している。ここに載るように、当社の祭神は河原次郎盛直で、隣接する風洞の地には、兄の河原太郎高直を祀った同名の社がある。
 河原氏は、武蔵七党私市党に属する一族で、現在の南河原村や行田市北河原に住したといわれている。太郎高直と次郎盛直の兄弟については、『平家物語』に綴られているように、生田の森の合戦において、源範頼に従って勝利をもたらしたことで知られ、太郎が「自分が敵陣に討ち入る時はお前が残って証人になれ」と次郎に頼んだところ、次郎は「二人きりの兄弟で、白分一人だけが残っていられようか」と、兄弟共に先陣の名乗りを上げて討死した挿話は著名である。
 この河原兄弟は、当地をも領有し、牧場を管理していたといわれている。その霊を祀る神社が、この秋山及び風洞の地に祀られるようになったのは、こうした領有関係によるものであろう。『児玉郡誌』は当社の創建を文明十八年(一四八六)とし、一説に河原兄弟の縁故者が秋山に来て居住し、その主君の霊を祀ったとの伝えを載せている。
 □御祭神 河原次郎盛直…開運厄除、五穀豊穣
                                      案内板より引用
        
                          拝 殿
 
   境内の西側に隣接している社務所      社務所の並びには石碑や石祠群が並ぶ。
               
                     境内にはゆったりとした時間が流れているようだ。

 この本庄市児玉町秋山地区は、南方の十二天山、陣見山からなだらかな稜線が広がり、北側で境となる小山川、その支流である秋山川等の水資源も豊富な丘陵地帯であり、古くから拓かれていたらしく、縄文時代や古墳時代の集落跡など古跡が多い。

 秋山古墳群は、埼玉県本庄市児玉町秋山にある古墳群で、本庄市指定史跡に指定されている。現在、前方後円墳2基を含む43基の古墳が現存し、墳丘を失った古墳跡を含めると100基近い古墳があったと推定されている。古墳の分布は秋山地区の塚原・塚間・宿田保に多く所在し、1965年(昭和40年)31日付けで児玉町(当時)指定史跡に指定された。

この秋山河原神社から東側近郊に「秋山庚申塚古墳」が存在する。残念ながらこの古墳を知ったのは、参拝終了し、自宅で編集中であり、写真等で収められなかったことは残念だ。

秋山庚申塚古墳
秋山庚申塚古墳は、直径約三十四メートル、推定高五メートルの規模をもつ円墳で、 南南西に閉口する横穴式石室を備えています。 昭和三十年に横穴式石室の発掘調査が行われ、多数の副葬品が出土しました。
また、昭和六十二年には、古墳の範囲確認調査と石室の実測調査が行われ、堀の形状や埴輪の存在、石室の構造的特徴が明らかになりました。 古墳の堀は、円墳には珍しく、墳丘の周囲を二重にめぐり、墳丘の周 や堀の内部から家、人物、馬などの形象埴輪の破片が出土していま す。 横穴式石室は、埋葬空間である玄室の側壁が緩やかな曲面をなす 「胴張型」と呼ばれる型式で、大きな塊石と細長い河原石を組み合わせ て積み上げる 「模様」という技法を取り入れています。 また、石室か ら出土した副葬品には、直刀や鉄、弓などの武器類、金銅装の馬具類、碧玉製や瑪瑙製の管玉や勾玉、ガラス製丸玉、金鋼製耳環などの装身具のほか、須恵器の高杯、短頭壺、堤瓶、などがあります。 秋山庚申塚古墳の築造年代は、出土した埴輪の型式などから六世紀後半頃 と考えられていますが、石室から出土 した副葬品には、時期差が認められる。
ことから、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが推定されます。
                                      案内板より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」




        


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秋山新蔵人神社

 秋山地区は児玉町児玉の南部に位置し、上武山地の東緑、陣見山の北側に広がり、小山川(旧身馴川)で境界となる。陣見山から秋山川他幾筋の河川が流れて、小山川に合流し、これに伴う谷戸田(丘陵地の谷あいの地形のことを「谷戸」と呼び、その地形を利用して作られた田んぼのこと)が発達されている。
 地区南部は山地とそれに続く丘陵地帯で、北側に緩い斜面と宅地があり、小山川に迫り、北東部には水田や畑が広がる。尚北東部の小山川氾濫原と丘陵上には秋山古墳群が存在する。
 秋山の地名はほぼ全国的に存在するが、旧甲斐国(山梨県)の秋山が特に有名である。中世でも武田支族・秋山氏が存在し、南北朝の動乱期には秋山新蔵人光政が加茂河原で丹党安保直実と一騎打ちをしたことは『太平記』に記載されている。
 埼玉県寄居町にも秋山という地名があり、児玉の秋山とよく似た位置関係にあるという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山242
             ・ご祭神 秋山新蔵人光政
             ・社 格 不明
             ・例 祭 祈年祭 315日 例大祭 015日 
                  新嘗祭 
1123日

 秋山新蔵人神社は本庄市児玉町秋山地区のほぼ中央部に鎮座する。埼玉県道175号小前田児玉線経由で美里町・広木みか神社を目指し、その後大きな右カーブに差し掛かり、左側に
「鎌倉街道上道の案内板」が見える手前のT字路を左折する。
 暫くはこの道を西行すること約1.2㎞、小山川支流秋山川の端を越えたところから細いY字路を左折し、更に南下。600m程進むと右側に秋山新蔵人神社の社叢と、白い鳥居が見えてくる。近郊には児玉カントリー倶楽部があり、そこを目指して行けば分かりやすい。
 駐車スペースは境内にある様子だが、鳥居を越えなければないようなので、一旦通り過ぎて、秋山川を越えた西側にお寺(本覚院)があり、道路沿いに駐車場があるので、そこの一角に駐車し、社の参拝を行う。
        
                          静かに佇む社。鳥居正面を撮影。
 
  撮影する角度にもよるが、鳥居の正面は    社殿等は、鳥居正面ではなく、やや西側に
  どうやら社日神、石碑が設置されている。     設置されている配置となっている。
        
                                     拝殿覆屋
        
                           拝殿覆屋の右側に設置されている案内板

 
新蔵人神社 御由緒  本庄市児玉町秋山二四三
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の秋山は、小山川(身馴川)南岸に位置する農業地域であり『太平記』などにその名を残す秋山新蔵人光政ゆかりの地である。『西武南朝功臣事蹟』によれば、この秋山新蔵人光政は、南北朝期に桃井直常の部下として各地で転戦し、驍勇無双の猛者として知られていたが、正平六年(一三五一)九月に同僚の多賀某と私闘し、敗死したという。
 当社は、その社号が示すように、この秋山新蔵人公を祀った神社で、『風土記稿』秋山村の項には「光政社 秋山新蔵人光政の霊を祀れりと云、この人当所に集住せしよりかく唱へしなるべしといへど、其詳なることをしらず、昔甲州秋山邑に住し、在名をもて、秋山太郎光朝といひ、右大将頼朝に仕へしものあり、この光政もその子孫なるにや」と記されている。ただし『明細帳』によれば、当社の創建は天和三年(一六八三)のことと記されているため、光政の没後すぐに創建されたものではなく、その遺徳を讃える後世の人々が社を建立して、光政の霊を祀ったものと思われる。
 
内陣には、甲冑を付けた武将の騎乗の像が安置されているが、これは祭神の秋山新蔵人光政公の像である。この像には銘が入っていないため、いつごろ作られたものかは定かではないが、少なくとも明治以前のもので、穏やかな表情をしている。
 □御祭神 秋山新蔵人光政
                                       案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額          拝殿覆屋左側には神楽殿か

 甲斐源氏秋山氏は武田支族で、巨摩郡秋山村(山梨県)より起ったという。秋山系図(続群書類従)に¬加々美次郎遠光―光朝(秋山太郎)―光季(常葉次郎)―光家―時信―時綱―光信―光助―光政(秋山新蔵人太夫)、弟光房(蔵人次郎、兄討死之時、属桃井、帰于甲州)―光延―光盛―光方―光季―為光(大炊助、寛正六年二月十一日被誅、法名妙秋。弟彦九郎昌光・法名妙山)―光利―信利―信房―光任―信任―信藤(平十郎、伯耆守、仕信玄勝頼、後仕神君、天正十三年卒)
 
 
秋山氏は清和源氏武田氏の分かれで、名字の地は甲斐国巨摩郡秋山村である。すなわち、武田氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見清光の二男加賀美遠光の長男光朝が、秋山村に居住して秋山氏を名乗ったこと始まるとされている。累代の居城地は中野村にあった。初代の光朝は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に応じ、平家追討の戦いには源義経の指揮下に入って、屋島、壇の浦の合戦に参加した。その西征の途中に平重盛の娘を娶ったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれることになる。
 
     拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社       鳥居正面にある社日神と石碑
         詳細不明

 平家を滅ぼしたあと、頼朝は甲斐源氏の勢力拡大を恐れ、武田氏一門の武将たちを次々と謀殺していったのである。武田一門に連なる光朝も重盛の娘を娶ったのは平家再興の下心があるとのいいがかりをつけられて、鎌倉において処刑されてしまった。甲斐に落ち延びた遺児や秋山一族らは鎌倉幕府の追及を恐れ、加々美の荘に籠って武具を隠して農耕に務めたという。

 没落していた秋山一族が「承久の乱」で尼将軍北条政子の下知に従い、ふたたび武装して官軍追討の東山道軍の総大将に任じられた武田石和信光の幕下に従って上洛、戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、武田氏一門は安泰を迎えたのである。秋山光朝には数人の男子があり、常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖になったという。新蔵人光政は光季から数えて7代目の子孫であり、光政の弟光房(蔵人次郎)の子孫には、戦国時代に信玄に仕えて活躍する秋山伯耆守信友がいる。

 甲斐国出身の甲斐源氏・秋山光政がなぜ秋山地区に館を構えたと伝わるのかは不明。「承久の乱」において活躍した秋山氏が、本貫地である甲斐国の回復と共に、この地に所領を得ていたのだろうか。
 秋山地区と山を隔てた南方反対側には長瀞町があり、そこに伝わる伝説で『信仰利生観』という古書に、秋山に秋山城主秋山新九郎続照(つぐてる)なる人物がいて、長瀞町小坂の仲山城主阿仁和兵衛直家との確執があったといい、新蔵人館は新九郎館の転訛ではないかともいわれるが、詳細は不明だ。
        
                         
秋山新蔵人神社遠景


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名(児玉地域編)」「続群書類従(秋山系図)」等

       

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四軒在家日枝神社

 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社で、式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。嘗ては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていて、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社であり、通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いである神猿(まさる)とする。同時に大津市坂本は日吉大社と天台宗総本山延暦寺が共存し、神仏習合のまちとして栄えた。それというのも延暦7年(788年)、最澄が延暦寺を建立するに際して、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬、社は天台宗の護法神であり、延暦13年(794年)の平安京遷都により、社殿の立つ場所が平安京の表鬼門にあたるため平安時代より都の守護神としても信仰され、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった
 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立されたという。
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡神川町四軒在家134
            ・ご祭神 大山咋命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 祈年祭 319日 おくんち 1019日

 四軒在家日枝神社に至るルートは、神川町、元阿保地区鎮座の阿保神社から児玉往還を北西方向に進み、最初の十字路を右折。100m程行くと左前方に四軒在家日枝神社の朱の鳥居が見えてくる。
 途中までの経路は阿保神社を参照。阿保神社に通じるこの道路は、児玉往還というそうだが、児玉往還は江戸から上州への近道となる川越・児玉往還の内の川越から上州藤岡までの街道で中山道の脇往還として賑わっていた。江戸から上州への中山道の近道となる道で、中山道は大名などが利用していたのに対し、川越児玉往還は役人などが多く利用していた。中山道より距離が短い事もあり、その通行者はかなり多かったようである。現在の国道254号のルーツとなった道であるが、国道254号は各市町村を経由しているので川越市~東松山市間(川島町を経由)、嵐山町~寄居町間(小川町や寄居町を経由)などで一部区間では大きくルートを外れる。
 一説によれば、この児玉往還は嘗ての鎌倉街道上道であったともいう。
        
                            四軒在家日枝神社正面

        
                 鳥居の右側に設置されている案内板

 日枝神社御由緒 神川町四軒在家一三四
 □御縁起(歴史)
 四軒在家の地名について、『神川町誌』は「その昔四人の者が最初にこの土地に住みついたところから名付けられた」との伝えを記している。当社は、恐らくそうした村の草分けの人々が鎮守として勧請したものと思われ、『明細帳』によれば、その創建は正平年中(一三四六~七〇)のことで、近江国日吉山王社の御分霊を遷座して鎮守として崇敬してきたものであるという。なお、同書は更に、元和六年(一六二〇)に山王大権現の扁額を代官伊奈半十郎から寄附されたこと、宝暦三年(一七五三)に本殿を再興した旨を記している。
『風土記稿』に「山王社 村の鎮守にて、長浜上郷村上松寺持」と載るように、江時代の当社は長浜上郷村の上松寺の管理するところであった。神仏分離によって、同寺の管理を離れた後は、村社となり、明治四十三年に社務所を新築し、同四十五年五月二十一日には字降り松の無格社稲荷神社を本社へ合祀、同年五月八日には字稲荷林の無格社稲荷神社と字山王前の無格社御嶽神社を境内社として移転した。
 拝殿の建築年代は不明であるが、正面に千鳥破風、向拝部は軒唐破風の付いた凝った造りで、鬼瓦には「日枝」の文字が入っており、こうした造りから当社の建設に関する関係者の熱意の程がうかがえる。
 また、拝殿の右脇には神木が枝を広げ、境内には遊具も設置され、子供の良い遊び場となっている。
 □御祭神 大山咋命…五穀豊穣 健康良運
                                       案内板より引用

        
                        拝殿覆屋
 数年前に訪問した時は、古びた社殿でありながら、それなりに趣きがあったが、令和元年秋に建て替えになっていて、今風の建築になっていて、少々残念。
        
                                 拝殿前に聳え立つご神木。
 
   拝殿覆屋の左側に鎮座する石祠2基        拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社
         詳細は不明                                    稲荷神社か
 
 社の北側に隣接する四軒在家集落センター並びにある石祠群(写真左)と石碑が祀っている祠(同右)。案内板以外社の由来等を説明する資料等が少ないため、詳細不明。
        
            拝殿上部には「日枝」と刻印された鬼瓦が扁額代わりに設置されている。

 四軒在家日枝神社が鎮座する神川町四軒在家地区。四軒在家は「しけんざいけ」と読む。中々個性的な地区名だが、歴史的な初見は慶長965日および同月11日の検地帳に「賀美郡安保領四軒在家村」と見え、『神川町誌』において「その昔四人の者が最初にこの土地に住みついたところから名付けられた」との伝えを記している。
 因みに「在家」とは「領主が年貢を賦課する時の単位」を意味する。中世、荘園・公領で、農民と耕地とを一体のものとして賦課の対象としたもので、平安時代後期に、荘園公領制が展開するなかで、公事負担者として国衙や荘園領主から把握された一般農民、ないしその屋敷地のことをいうそうだ。
                
                         四軒在家日枝神社 ケヤキのご神木の遠景
           冬時期の北風の影響か、樹木が南側に傾いている。


参考資料「
Wikipedia」「新編武蔵風土記稿」等

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肥土廣野大神社

 肥土廣野大神社の鎮座する肥土の地は、埼玉県(武蔵国)に属しているが、かつては上野国(今の群馬県)に属し、国内神名帳(上野国神名帳)に緑野郡「従三位廣野明神」に比定されている社であった。上野国に属していた時は、上野國粶野郡村波爾(土師)郷の内だったが、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わった為に、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという。
 創建には諸説あり、『児玉郡誌』には天平宝字三年(759年)とあり、『明細帳』には一条天皇御字正暦五甲午年(994年)創立とある。後に「八幡天神駒形明神合社」となり、「神流川神社」とも呼ばれ、明治39年神名帳に載る社号に戻したものと思われる。
        
            ・所在地 埼玉県児玉郡神川町肥土380
            ・ご祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命
            ・社 格 旧郷社
            ・例 祭 節分祭 23日 例大祭 319日 大祓式 731
                 秋季大祭 1019

 肥土廣野大神社は神流川の東側に南北に細長い神川町肥土地区に鎮座する。JR八高線・丹荘駅を起点として、西側方向に八高線線路に沿って進み、埼玉県道22号上里鬼石線に合流するT字路を右折し、ガソリンスタンドやJAひびきの神川支店がある信号を左折する。道なりに進み、八高線の踏切手前の道を右折し、線路に沿って600m程進むと突き当たるので、そこを右折し、暫く進むと左側前方に肥土廣野大神社の一の鳥居が見えてくる。
  駐車スペースは一の鳥居の北側130m程先に肥土廣野大神社が鎮座し、東側に駐車可能な空間があり、そこに停めてから参拝を行った。
            
                    社号標柱 
        
                              肥土廣野大神社 一の鳥居
    肥土廣野大神社境内からずいぶんと離れた所に社号標と一の鳥居(神明式)が立つ。

 肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという。
 肥土廣野大神社は神流川を挟んで西側近郊に本郷土師神社が鎮座しているが、この土師神社は古代の土師部の集団で元を辿れば出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考える。
 ご祭神である天穂日命は天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(うけい)をした際、天照大神の珠(たま)から生まれた五男神のなかの一神でありながら、出雲国津神に味方した神でもある。「古事記」「日本書紀」で葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達が大国主神の子である事代主神や建御名方神を平定し、地上の支配に成功すると、不思議と大国主神に仕えるよう命令され、子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。
 因みに現在埼玉県久喜市鷲宮に鎮座する鷲宮神社のご祭神も天穂日命と建比良鳥命である。この社は「土師宮」とも称し、関東神楽の源流とされる「鷲宮催馬楽神楽」は正式には「土師一流催馬楽神楽」と呼ばれていて、土師集団との関係も深い。
 肥土廣野大神社の南方には「出雲神社」も鎮座していて、この地域周辺は出雲族・土師部との関係性がかなり強かったと考えられる。
 
一の鳥居から長い参道を経て(写真左)、社の境内に到着。二の鳥居前には神橋(同右)がある。

 天穂日命は天津系の神でありながら、国津系の神々に心服した二面性のある神で登場しているその背景を考えると、もしかしたら本来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、葦原中国平定譚の成立時、出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し,膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになったのではなかろうか。
        
                    二の鳥居
        
                             二の鳥居の近くにある案内板

廣野大神社御由緒  神川町肥土三八〇
□御縁起(歴史)

当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(一七〇一)から武蔵国に属するようになった。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。
当社の社宝として、上野国司が作成した国帳で永仁六年(一二九八)に改写された『上野国神名帳』一巻が蔵されている。これに載る緑野郡十七座の内「従三位廣野明神」が当社に比定されている。その創建については諸説あり、『児玉郡誌』には「淳仁天皇の御宇、天平宝字三年(七五九)上野国司の創立なりと云ふ」と記すが、『明細帳』には「一条天皇御宇正暦五甲午年(九九四)創立」とある。
当社の社号は、『上野国神名帳』にあるように、「廣野明神」と記され、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号である。しかし、当社は化政期(一八〇四~三〇)には『風土記稿』に見られる「八幡天神駒形明神合社」と号し、更に『郡村誌』には「神流川神社」と記載されている。社殿の背後に「奥宮」と呼ばれる神流川神社(祭神天穂日命)を祀ることを考え合わせると、三間社の本殿は八幡天神駒形明神合社として造営し、廣野明神を奥宮とした経緯が考えられる。それが、明治三十九年の郷社昇格に際し、神名帳に載る社号に戻したものと思われる。
□御祭神 天穂日命 倉稲魂命 誉田別命

                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
 
 拝殿の左側には五社の石祠が並ぶ(写真左)。左から野原神社・太元神社・産泰神社・倭文神社・若宮八幡神社。五社の石宮の並びには三社の境内社が鎮座している(同右)。左から八坂神社・琴平神社・摩多羅神社。この摩多羅神社にはご神体である石棒が祀られている。
        
        三社の境内社と拝殿との間には境内社・今宮神社が鎮座している。
 
  拝殿の右隣側には境内社・稲荷神社が鎮座。    稲荷神社の手前には石祠が4基。
                       住吉神社・伊勢神社・千勝神社・戸隠神社。
       
               稲荷神社の隣に聳え立つご神木

 ところで古代上野国で埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られているが、藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点が知られている。生産地があるという事実は、それに伴う供給地もあり、その流通ルートは神流川を利用する水運による交易が主流であったことは想像に難くない。
 古代この地に居住していた土師一族集団はこの水運を利用して各地に流通ルートを広げていたことだろう。河川に近い場所に社を鎮座させることは、水運交通の無事と共に度々発生する洪水等の自然災害を防ぐために祀られるケースが多い。河川近郊に鎮座する社は、このようなメリット・デメリット両方併せ持つ地に対しても、命を賭して果敢に挑戦しようとする人々の本能的な欲求に帰依したことで、その精神は現代の我々にも受け継がれていると筆者は信じたい。
 
     社殿の後方には、神流川神社が鎮座。            この石宮が奥宮になっているという。

        
                          静かに鎮座する肥土廣野大神社

肥土」という地区名は一見「地味が豊かで、土地に作物を育てる養分が多い 肥土・肥沃」との意味があり、豊かで肥えた土地という印象を持つ。他方で「肥土」の地名由来として、嘗て「阿久津(アクト)」と称していたらしい。
この「阿久津(アクト)」は「悪戸(アクト)」が語源の佳字で、熊谷市・河原明戸諏訪神社でも紹介した通り、上流から流出した土砂が堆積した場所、川添平地の意味であるから、この土地は水害がひんぱんに起こり、更に湿地であったため耕作にも適さず、人々は(おこって)悪字を用いて悪戸と書いたともいう。
 字数の関係でこれ以上の考察は省くが、さて真相は如何であろうか。



 参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「藤岡市HP・はにわ窯と土師神社」
      
Wikipedia」等


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