古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

佐谷田神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市佐谷田310
              
・ご祭神 主祭神 
                  (佐谷田)八幡神社 譽田別命・神功皇后・玉依姫命
                   相殿神 
                  (戸 出)神明神社 大日孁貴命・天鈿女命・手力雄命
                  (平 戸)住吉神社 
底筒男命・中筒男命・表筒男命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 春季大祭 415日 例祭 85日 秋季大祭 1015
                   
燈明夜 1123
 佐谷田神社は国道17号線を行田駅方向に進み、「佐谷田」交差点を左折、埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、400m程進んだ「佐谷田歩道橋」先で右側の道路沿いに鎮座している。
 県道からも「佐谷田神社」の大きな看板が見えるので、分かりやすい社と言える。県道の十字路を右折し、左手に見える社入り口には「佐谷田中央集会所」も左手にあり、駐車スペースも確保されているので、その一角をお借りしてから参拝を開始した
     
            社号標柱           入口に設置されている佐谷田神社の案内板


 熊谷市佐谷田地域は市の東部に位置する標高21m26mの低地帯の地域である。旧中山道沿いにある「埼玉県農林総合研究センター」を起点に、東方向にかけては「秩父線」が、南東方向には「元荒川」が地域の境となって、概ね3㎞程放射線状に広がっている地域であると考えて頂ければよい。
 この地域は国道17号線と埼玉県道128号熊谷羽生線が分岐していて、地域内には上越・長野新幹線、高崎線、秩父線が通っている。平成163月には、指導130号線立体交差が開通し道路整備も進められ、交通量も増している地域でもある。昭和50年代後半以降、圃場整備の進展があり、地域内は市街化調整区域として耕地確保の施策が続いているという。
        
                              佐谷田神社 正面鳥居
  
  鳥居には「八幡大神」と刻印されている。     参道途中には紙垂がまかれた松が
  「佐谷田村鎮守」の頃の名残りだろう。   まるで参道にせり出すかのように伸びている。

 佐谷田神社は元々「旧佐谷田村鎮守社」であり、隣接する「旧戸出村」の神明社、「旧平戸村」の住吉神社(他国社)にもそれぞれ鎮守社が存在していた。
『新編武蔵風土記稿』においてそれぞれ以下の記載がある。
 佐谷田村「八幡社 村の鎮守 永福寺持」
 平戸村「他國明神社 村の鎮守なり 祭神詳ならず 或云住吉を祀りし社なりと云 超願寺持」
 戸出村「神明社 社領七石の御朱印を賜へり 別当金錫寺」

 因みに平戸村の「他国社」に関して、慶長年間の記録に、九州は肥前の国松浦郡平戸郷より藤井稚楽之助なる郷士が当初に住し、村の北東丑寅の地に境内を定め住吉大明神を勧請し氏神として祀ったのが始まりとある。

 
古くは隣接する集落であったが、国郡郷制度の定めでは統治下が異なり、佐谷田村は郡家郷に、平戸・戸出村は埼玉郷に属し、郷治されていた明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となり、この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。 
             
                      参道左手で境内には「佐谷田中央集会所」があり、
                    その入り口前には立派な松のご神木が聳え立っている。                                         
        
                         参道の先に鎮座する佐谷田神社

「佐谷田(サヤダ)」という地名由来はどこからきているのであろうか。
1 サヤ(佐谷)には、小川、水溝の意味があり、谷は(や)で(たに)とのみ考えるのではなく、水辺に萱やよしなどの多く生える低湿地に与えられた地名である。このため「谷」のつく地名は山地よりもむしろ平野に多い。〔埼玉県地名誌〕
2 土地の人々は、サエダと呼んでいる。これによると、“サエダ”は、“サエド”の転化と考えられ、道祖(サエ)の神を祭るところの意味からこの名がついたと思われる。〔埼玉県地名誌〕
「新編武蔵風土記稿」には佐谷田は古く佐谷郷と唱えたという。

付け加えて「戸出(とで)」「平戸(ひらと)」に関しては
戸出(とで)
1 アイヌ語で(トエヌタブ:Toyenutep)川が蛇行するという意味から付けられた。
2 「ト」は外を意味し、「テ・デ」は方面を意味する語なので、「トデ」は外の方面という意味。もとは「外手」であり、「堤の外の地」あるいは、「集落の外の地」を指した地名。
平戸(ひらと)
平たい地形で川の堰(戸)が付近にあったから名づけられた説と、現在の長崎県平戸(肥前国松浦郡平戸郷)から藤井氏が移住し、同名の地名を付けたという説がある。
        
                     拝 殿
 佐谷田神社 熊谷市佐谷田三一〇(佐谷田字不動堂)
 明治二十二年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となった。この合併に伴い、佐谷田の八幡社に、明治四十年に戸出の神明社、大正二年に平戸の他国社を合祀して成立したのが、佐谷田神社である。
 佐谷田の八幡社は『風土記稿』に「八幡社村の鎮守、永福寺持」と記され、『大里郡神社誌』には享保七年(一七二二)三月十一日に宗源宣旨を受け、正一位になったことや、寛政五年(一七九三)に伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記事がある。ただし現在では、この宣旨や添え状は残念ながら確認できない。
 一方、戸出の神明社は、『風土記稿』に「神明社 社領七石森の朱印を賜へり、別当金錫寺 新義真言宗」とある神社であるが、七石の社領を明治初めに上地されて以来零落し、県行政文書によれば、明治三十二年に、時の社掌杉浦正太郎は内務大臣・農商務大臣に上地林を下げ戻しの上、境内に編入することを嘆願している。しかし、この嘆願により調査を行った東京大林区署長島田剛太郎の「該神社は、村社なるも全く荒廃に任せ、神体は唯御幣のみ存するの状況、殆ど無格社に劣る」との報告に、上地林の下げ戻しは実現しなかった。
 平戸の他国社は『風土記稿』に「他国明神社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、或云住吉を祀りし社なりと云、超願寺持」と載り、口碑に「長崎平戸の神を祀り他国という」と伝え、戦後旧地に戻っている。
                                   「埼玉の神社」を引用
        
                     本 殿
        
               社殿左側に祀られている合祀社
 手前の四社は社頭にある案内板によると、厳島神社、日本武尊神社、天児屋根命神社、大山祇神社のようだが、札等がないので詳細不明。奥に祀られている社は、左から天神社、八坂神社、琴平神社、稲荷神社があり、その奥には三峯神社が祀られている。
 
   合祀社の手前には塞神が多数ある。     合祀社の並びには石祠や石碑等が並ぶ。
        
   社殿右側には富士塚があり、塚の上には浅間神社と小御嶽石尊大権現が祀られている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「熊谷Web博物館」
    「Wikipedia」「佐谷田神社HP」「熊谷市公連だより」「境内案内板」等

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