古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本宿天神社

『北本市HP』には、「北本の地名の起こり」と題した市の名称由来を綴ったページがある。それを参考として話を進めるが、当市は「戦国期に鴻巣宿の宿場があったが、慶長(けいちょう)年間に宿を今の鴻巣に移転し、当地を本(もと)鴻巣村と改称し、元禄(げんろく)年間ごろ本宿村と改称した」という。
 というのも江戸時代、中山道の宿場町に鴻巣宿と桶川宿があり、この二つの宿場町の距離が近かったことがその理由であったようで、「元」鴻巣宿だった当地は、元鴻巣宿があった場所なので「本宿村」と名づけられたという。
『新編武蔵風土記稿 本宿村』
 本宿村は古へ宿驛(駅)なりしが、慶長年中今の鴻巣へ移せしよし、正保の國圖(国図)には本鴻巣村と記し、元禄の圖(図)には本宿村とあり、
 ところが、明治時代となり、同じ北足立郡のなかに本宿村という村名が2カ所(現在の北本市とさいたま市)あり、不都合なので、北にある本宿村を「北本宿村」とすることになった。
 因みに現在浦和市(土合(つちあい))の本宿について、「元宿」とも書いた。明治十二年北足立郡に(中略)同名の村があったため南元宿村と改称したという。
 この「北本宿」が、昭和3年に開設された駅の名前として使われることになり、更に、昭和18年に石戸村と中丸村が合併したときの村名は、この駅名からとられた。その後、昭和34年に町制を施行するときに、「北本宿町」では『語呂が長く呼びにくいので、宿をなくして北本町にした』といわれている。
 こうして、現在の「北本」という地名ができた。北本という呼び名は昔からのものではなく、比較的新しい地名といえる。
        
              
・所在地 埼玉県北本市本宿28
              
・ご祭神 菅原道眞公
              
・社 格 旧本宿村印綬・旧村社
              
・例祭等 例祭 225日 春祈祷 325日 
                   夏祭り 
724日・25
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0316998,139.5349709,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線北本駅東口に通じる駅前通りと、旧中仙道との交わる「北本駅前」交差点を左折し、すぐ先の「多聞寺」交差点のすぐ左側に本宿天神社の鳥居が見える。
 駐車スペースは境内北側にあり、「多聞寺」交差点を左折すると、進行方向右側に「鴻巣警察暑 北本交番」があり、その手前に専用駐車場の看板が見えるので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                           旧中山道沿いに鎮座する本宿天神社
 北本市本宿地域は、
市の中央部に位置し、西の高崎線と東の国道17号線にはさまれた地域。足立郡鴻巣領に属する(風土記稿)。「元宿村」とも記され、村名は嘗ての宿駅にちなむ。因みに田園簿には「本鴻巣村」と記されている。
 1丁目と2丁目の間を中山道が走り、このあたりが近世本宿の集落が発達していたところで、今も何戸かの屋号にその名残りをとどめている。2丁目には、鴻巣警察署北本幹部派出所、北本市商工会、市立図書館(昭和49年開館)、古くからの集落北本宿の鎮守の天神社・新義真言宗宝塔山多聞寺があり、寺院境内に県指定天然記念物のムクロジがある。
        
                               本宿天神社神明系の一の鳥居
 社は駅前近くの繁華街に鎮座しているにも関わらず、欅などの大木が大切に保存され、静かな神域を保っている。
 
  一の鳥居の右側にある「本宿天神社の幟」    案内板の隣には社号標柱あり。
       が設置されている。
 本宿天神社の幟〈北本市指定文化財〉
 維神之霊涉在天 文久元年酉年夏六月富所氏子中
 聖徳寔馨降格地 雪城澤俊卿書
 北本市教育委員会は、平成二十八年六月二十四日の定例教育委員会において、本宿天神社が所蔵している幟を市指定文化財(有形民俗文化財)に指定しました。
 幟の文字は江戸時代後期に活躍した書家・中沢雪城によるもので豪快な筆使いによる書体は迫力があり、見るものに強烈な印象を与えます。大きさは長さ8m、幅0.8mで、材質は幅広に織られた木綿が使用されています。
 雪城は江戸を中心に活躍した越後長岡藩出身の書家で、「幕末の三筆」の一人、巻菱湖の高弟、俗にいう「菱湖四天王」の一人です。幟の奉納は文久元年(一八六二)六月とあり、皇女和宮降嫁の折、歓迎の意を込めてこの幟を揚げたと伝えられています。
 この幟は、①書家の評価が高いこと、②書家の筆跡を知るうえで貴重な資料であること、③保存状態が良好であること、④市内に残る江戸時代の幟として希少であること、などの理由からその文化財としての価値が認められたものです。
                                      案内板より引用
        
 本宿天神社の創立は、岡野家に伝わる『神社由緒書』によれば「寛文2年(1662)当時ノ領主三上筑前守敬神ノ念篤ク特二京師北野天神ヲ崇敬セリ依テ当地ノ領主タルニ当り当地ノ風致ヲ採り領地アリ五穀豊穣ノ祈願トシテ…」とみられている。しかし、この本宿村の領主三上筑前守は、文政年間(181824)の領主で、年代にずれがあり、その実際の沿革は不明である。ただ昭和45年本殿改築の折に工事の邪魔となることから、現手水舎の隣にあった御神木を倒しているが、その年輪が450年ぐらいあったことからして江戸時代(16031867)の頃からあったことは推察される。
 昭和30年代には、宝登山神社・稲荷社・大国真大神・猿田彦命など数社を末社として境内に勧請している。また昭和52年には、弁財天社も勧請している。
 嘗て絵馬なども多く奉納されていたというが、明治初期の神仏分離の折に処理され今日に至っている。『新編武蔵国風土記稿』によれば、天神社は当時、隣接する多聞寺持となっている。
        
           参道の先にある朱を基調とした木製の二の鳥居
     二の鳥居の正面には社務所があり、社殿はその手前で左側に鎮座している。
 
       二の鳥居の左側には天圀蔵五柱稲荷大神社が鎮座(写真左・右)
 参拝当日は気づかなかったが、稲荷大神社に向かう参道右側には、嘗て存在していた樹齢450年程の大杉のご神木があったようだ。昭和45年社殿改築の際に倒木、現在は根本のみの切りかぶのみとなっているとの事だ。
 
 天圀蔵五柱稲荷大神社と社殿の間には手水舎があり(写真左)、その右手には「算額」の案内板が設置されている(同右)。社には自らの由緒を記した案内板の他、各地域での算額を記したものも多数見かける。江戸時代から和算の普及により、庶民レベルまでも数学に対する知識も高かったことが、このような案内板からも伺い知ることができよう。

 北本市指定有形民俗文化財 算額   昭和五十三年三月十五日指定
 算額は和算家が問題と解法を記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことである。これは難問が解けたことへの感謝や勉学向上の祈念、また和算における成果発表などのために掲げられた。
 和算は江戸時代中期以降に関孝和(一六四三~一七〇八)らによって発展した日本独自の数学を意味し「算学」と呼ばれ、明治時代中頃になってもこれを学ぶ社中(塾)が各地にあった。
 当天神社に所在する算額は横一七八cm、縦八八cmという大型のもので、明治二十四年(一八九一)に奉納されている。内容は杉の柾目板に十二問が記され、そのすべてが、組合わされた図形から答えを導き出す平面幾何の問題である。
 算額掲示の発起者は本宿在住の清水和三郎及び林専蔵であり、これに名を連ねる解答者は本宿八名、ほかに北中丸二名、桶川の小針領家一名となっている。当地における算学研究が盛んであったことを証明する貴重な資料である。
 平成二十七年三月 北本市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
        
 天神社 御由緒  北本市本宿二--七
 □御縁起(歴史)
 北本宿は、慶長七年(一六〇二)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村(明治二十二年に北本宿と改称)は、宿場の中心地に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。
 元宿村の名主は、「機屋」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で二五代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文二年(一六六二)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祀ったのが、当社の始まりであると伝えられる。したがって、当社は元宿村の鎮守であると同時に岡野家の氏神でもあ ったため、この岡野家やその分家では邸内に氏神を祀っていない。
江戸時代には、当社の東南に隣接する多聞寺の持ちとして、同寺の管理を受けていた。『風土記稿』元宿村の項に「天神社 多聞寺持」とあるのはそうした状況を示すものである。
 この多聞寺は、多聞律師が文永年間(一二六四-七五)に創立したと伝えられる真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天である。神仏分離の後は同寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。太平洋戦争後、社殿の老朽化が目立ってきたため、中丸小学校の奉安殿を移築して本殿とした。本殿の御扉に菊の紋が入っているのはそのためで、拝殿も昭和四十三年に再建された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                       神楽殿
 本宿天神社獅子舞は、一頭立ての大神楽獅子舞で、本宿天神社に伝わる伝統芸能である。
 愛知・熱田神宮に起源を持つという関東地方の大神楽は、現在、寄席の芸能として有名な江戸太神楽と、茨城県指定無形民俗文化財、茨城県・水戸大神楽が知られているが、かつては千葉、群馬、埼玉、栃木にも、この系統の大神楽の組があった。――明治期、〈丸一〉と称されるほどの本格的な太神楽が、川越にはこの丸井太神楽のほか見当らないことからしても、本宿天神社獅子舞は、この組に関係する人物から伝承したものであると推察される。
 本宿天神社獅子舞は、幣舞、蝶舞、蚤取り、ヒョットコの獅子釣り、狂い獅子で構成されていたが、平成二十一年〈おかめの舞〉を復興させた。面だけが残されていたところ、従来から伝わる岡崎の囃子に舞と笛を乗せ再構成したもので、内容は、おかめの羽根突きである。なお、おかめの舞の岡崎は、その後につづくヒョットコの舞に比べゆっくりと叩かれる。そこに乗せられる篠笛の民謡・童謡は十数曲に及ぶが、お正月の曲にはじまり、春夏秋冬を表現したものである。
 囃子連の演じる獅子舞としては、県内では珍しい、歴史ある本格的な芸能として近年注目され、よくある、江戸囃子の囃子連が、見様見真似で行う屋台囃子、馬鹿囃子の獅子舞とはちがい、ここの獅子舞には幣舞があり、本格的な〈蚤取り〉の舞も伝承している。このような太神楽獅子は、埼玉県内では類を見ない、大変貴重なものであるという。
 

    境内社・天五色辨財天大神社       境内社・三社大口真大神社、登山神社
        
                     本 殿


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本市HP」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板」等



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