古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北本東間浅間神社

『 北本市産業観光課HP 東間の富士塚』
東間の富士塚は高さが約6mで、頂に社殿を祭っています。かつては塚に登頂すると、遠く南西方向に富士山を眺望することもできました。塚の中腹には享保8(1723)に建てられた「石段供養塔」があり、
信仰の古さを伝えています。
 富士塚は旧中山道沿いの浅間神社境内にあり、実際の富士山の山開きに合わせた630日、71日には初山行事が行われます。初山は、この一年に生まれた赤ちゃんを富士塚に登らせ、額に朱印を押し、お払いを受け成長を祈願する行事です。北本に夏を告げる風物詩として多くの参拝客でにぎわいます。

        
              
・所在地 埼玉県北本市東間16
              
・ご祭神 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧東間村鎮守・旧村社
              
・例祭等 獅子祭り 3月第4土曜日 春祭り 429
                   
初山例大祭 630日・71日 秋祭り 1129
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0352417,139.5320187,18z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線北本駅東口から駅前通りを進み、「北本駅前」交差点を左折、旧中山道で現在の埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線を北東方向に350m程進むと、道路に面した左側に北本東間浅間神社の鳥居が見えてくる。そこから奥にかけて真っ直ぐな参道が延び、その正面には北本市指定有形民俗文化財である「東間の富士塚」という小高い塚頂上部に社は鎮座している
        
             旧中山道沿いに鎮座する北本東間浅間神社
 東間浅間神社の創建年代には諸説あり、崇徳天皇の御世、武蔵国守大納言藤原俊行公が霊夢により当社を創建したとも、江戸時代初期に大島家の先祖深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊が当社を勧請したとも、また鴻巣の勝願寺の和尚の世話で大島家の氏神を鎮守のなかった当地に遷し祀ったともいう。明治6年村社に列格している。
 地域名「東間」は「アヅマ」と読み、『新編武蔵国風土記稿』のよる由来によれば、寛永年間(16241643)頃は鴻巣の内の「東新田」と唱え、東間は鴻巣の東方にあったことによるという。
 
   入口付近に設置されている掲示板     掲示板の並びにある「東間の富士塚」案内板
 東間の富士塚
 地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこの富士塚は、東西約三十七m、南北約二十七m、高さ約六mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段および社殿は直線状に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保八年(一七二三)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。
 このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造である、近在においても類例が少なく大変貴重である。
 毎年六月三十日、七月一日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。
 平成二十五年六月
 北本市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                  鳥居からの眺め
 嘗て筆者も仕事の関係で、この北本市・旧中山道は良く利用し、当然この地に鎮座している社の存在も知っていたが、残念ながら通り過ぎるのみで参拝するまでには至らなかった。
 専用駐車場も完備。北本駅にも近く、街中に鎮座する社。近郊に居住している方々が散歩がてら参拝している人も少なからず見かけ、地域に親しまれているお社なのだなあ、と実感した。
 旧中山道沿いという利便性から車両の往来はあるものの、広い境内に入ると不思議な静けさに包まれ、正面に見える古墳にも似た「富士塚」がこの地の歴史の深さを語るようで、一種威厳さえ感じてしまう。
        
             鳥居の右側手前に祀られている庚申塔
 
  鳥居を過ぎてすぐ右手に設置されている    記念碑の先で並びに祀られている境内社
   「東間浅間神社の由来」の記念碑             ・弁天社
        
              長い参道の先に富士塚が見える。
         他の社に時折祀られている富士塚とは一線を画す程の規模。
 恥ずかしい話になるが、正直この塚の案内板を確認するまで、これほどの規模でもあり、当然古墳だと思っていたところ、築造時期は江戸中期で、富士信仰の為に造成された塚との事。江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰とのことで、この地域の方々の時代の流れを掴む先進的な物の取り組みには頭が下がる。
 同時に現在、巨木等により覆いつくされているが、築造当時はどのような威容であったのであろうか、筆者の想像を逞しく書き立てさせてくれる塚だ。
        
                富士塚頂上部に鎮座する社
「北本東間浅間神社 沿革」
 もとは、代々宮内村の名主をつとめた大島彦兵衛家(当主穎太郎氏の4代前)の氏神だったという。彦兵衛家は北条氏の家臣の家柄であったが、月ヽ田原落城の際、落ちのびて岩槻から宮内村にきて定住したと伝え、当社も最初は宮内の大島家地所内に祭られていたという。
 彦兵衛は鴻巣の勝願寺の和尚と懇意であったが、その僧の言に「宮内では、お詣りする人も少ないじゃないか。東間は通りっぱたで人通りも多い、東間には鎮守様がないから持って行ったらどうだ」ということで、東間の勝林寺の近くに祭りなおしたものという。ちなみに勝林寺は勝願寺の隠居寺(末寺)だといい、勝林寺地所七反弔ももとは大島家の地所だったという。また、かっては大島家から行かなければ、浅間様の鍵は開かなかったといわれ、招待されて行ったという。
『新編武蔵風土記稿』の東間の条に「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」との記載がみえる。また、大島家で所蔵する明治期の浅間神社境内地をめぐる訴訟時の記録からみても、これらの伝承には信憑性が認められる。
 また、浅間神社の別当寺であった宝光寺は、明治39年の勅命に基づき、明治4298日に合祀され、宝光寺持146畝の宮林は、浅間社に払い下げられた。
 なお、当社の書類等は、先代の宮司千葉松彦氏が戦後川越の喜多院に預けてそのままになっていると伝える。
「北本デジタルアーカイブス」より引用


『新編武蔵風土記稿 東間村』
 淺間社
 村の鎮守なり、本地薬師を安ず、秘佛なりとてたやすく示すことをゆるさず、
 末社、天神社、稲荷社
 別當寶光寺
 天台宗、川田谷村泉福寺末、東土山實相院と稱せり、近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士淺間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長榮坊大乗坊勧請すとあり、是當社のことなるべし、此内深井藤右衛門は鴻巣の内宮地の民勘右衛門、及び生出塚村の民源右衛門が祖先なり、其餘二人は何れの人なるや詳にせず、分科年中回録の災に罹り、未だ再興せず、
 鍾樓。貞享三年新鑄の鐘をかく、銘文あれど考證に益なければ取らず、 
          石段登る中腹附近で左右に祀られている境内社。
      左側には八幡社(写真左)、右側には天神社(同右)が鎮座する。
       
                                  拝 殿
        
              拝殿近くに設置されている案内板
 浅間神社 御由緒   北本市東間一-六
 □御縁起(歴史)
 当社は中山道に面し旧北本宿の北部にあり、江戸中期、富士山信仰の広まりにより富士塚として築かれた山の上に社殿が建つ。
 創建については、諸説が伝わる。一説は、万延元年(一八六〇)当時別当を務めていた宝光寺(明治四年に廃寺)が、当社本尊であった薬師如来像御開帳の折に、版木を刷って配布した「富士大権現略縁起」によるもので、崇徳天皇の御世、武蔵国守であった大納言藤原俊行公の霊夢に、最初は本地薬師如来の姿で、二度目は木花開耶姫となって現れた祭神が、社地を示し、貴賎男女の繁栄の地となすべしと言って東を指して飛び去った。その後、直ちに社殿を建立したという。
 また一説は、『風土記稿』東間村の項に載るもので、「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」とある。ちなみに当社は、寛永年間(一六二四〜四三)のころまでは鴻巣領東新田と呼ばれていた。また、ここに見える名主彦兵衛は、現在も宮内に住む旧家大島家の先祖で、もとは北条家の家臣で、岩槻城太田氏房の城代家老を務めていたが、小田原落城の折、当地に落ち延びたという。
 しかし、その大島家の口碑には「当社は元は当家の氏神であったが、鴻巣の勝願寺の和尚の世話で鎮守のなかった当地に遷し祀った」とあり、いずれとも決め難い。明治六年四月、当社は村社となった。(以下略)
                                      案内板より引用

        
          富士塚石段の左手に立つ「浅間神社社殿修復記念碑」
            
         「浅間神社社殿修復記念碑」の左並びには「東間浅間神社再建之碑」が立つ。 
 東間浅間神社再建之碑
 当社は東間の鎭守として八百八十年の歴史を有し、御祭神木花咲耶姫命は古来子育ての神崇敬され、初山例大祭には近隣市町村はもとより遠方からも子供の健やかな成長を祈る多くの参拝者で賑わっている。
 平成十七年六月一日深夜、築約二〇〇余年の社殿が不審火により全焼した。氏子を始め宮司、総代等神社関係者にとってはまさに晴天の霹靂、ただ茫然自失するばかりであった。
しかしながら、幸い社殿を失った悲しみと憤りの中から、時を経ずして神社再建への機運が高まり、その意をうけて有志による再建準備会が発足した。ついで同年十月九日東間地区氏子の総意に基づき「東間浅間神社再建委員会」が設立された。東間一~八丁目およびサンマンション各自治会からの推薦による委員各位の積極的かつ献身的な活動と氏子を始め関係各位の心温まる御協力により奉賛金の募集並びに建築工事も円満に進行し、平成十九年六月無事竣功を迎えることが出来た。
 これ偏に御祭神の御神徳と氏子各位並びに東間地区外有志の方々の御理解と御支援の賜と深く感謝する次第である。
 茲に社殿再建に至る経緯の概略を刻し、この地域伝統の文化を後世に伝えるとともに併せて御祭神の御神徳を広く宣揚する事を祈念して建立するものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
       
                             広い境内の一風景 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本市産業観光課HP」「北本デジタルアーカイブス
    「境内案内板等」等
 

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