古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鹿下越生神社

 埼玉県入間郡越生町。この「越生」は「おごせ」と読むが、普通に考えてもこの地名は「おごせ」と読むにはかなり無理のある地名である。世にいう「難解地名」の一つとしても有名であるが、『越生町HP』によると、「越生(おごせ)」とは、平野部と山岳地域の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければならず、それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されているようだ。
 対して街中を流れる「越辺川(おっぺがわ)」からくる地名由来という説もある。この越辺川の「おっぺ」はアイヌ語で「豊かな川」、古朝鮮語では「布地」を意味する。 この「越辺」から「生越」、「越生」へと転じたともいわれているが、未だ真相は分かっていない
 地名にはその土地の地理などの歴史が色濃く集約されていると言っても過言ではないという。「越生」という地名にもその深い歴史の中で、いずれ由来等が判明する時がくるのであろうか。
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町鹿下256
             
・ご祭神 [主神]大山祇神 大雷神 高龗神 [合祀] 大山咋尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9960427,139.2792774,15z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線明覚駅のあるときがわ町・番匠地域から八高線沿いにある道路に沿って3㎞程南下し、丁字路を左折し、更にすぐ先の丁字路を左折する。丁度南下していた道を左方向に北上するようなルートとなるが、それ以外に適切な道がないのでそこは仕方がない。道なりに進むと「学頭沼」に到着するのだが、その南側手前で右側に鹿下越生神社が見えてくる。地形を確認すると、岩殿丘陵西麓の斜面上に社はあるようだ。
 周囲一帯長閑な田畑風景と雑木林が広がり、緑豊かで清閑な自然環境に恵まれた環境に囲まれた一角にひっそりと鎮座している。
        
              森の中に静かに鎮座する
鹿下越生神社
『日本歴史地名大系』 「鹿下村」の解説
 成瀬(なるせ)村の北東、越辺川支流渋沢川流域の岩殿丘陵西麓に立地。鹿の下・鹿ノ下とも記す(田園簿など)。入間郡の郡境の村で、北西は比企郡古池(ふるいけ)村。応永三二年(一四二五)八月二三日の尼禅智寄進状写(報恩寺年譜)に「入西郡越生郷恒弘名鹿下」とみえ、鹿下内高房(こうぼう)の東長五郎入道在家付きの田三段からの毎年の得分一貫九〇〇文を報恩(ほうおん)寺に寄進している。堂山最勝(どうやまさいしよう)寺蔵の大般若経奥書(武蔵史料銘記集)に延徳三年(一四九一)一二月二八日「鹿下幸伝書」とみえ、寺正保二年門徒帳には「加野下村」と見える。
        
                  鹿下越生神社正面
 越生町には「越生神社」が二社存在する。一社は越生地域に鎮座する越生神社で、旧今市村鎮守社。この社は街中に近い越辺川上流の河岸段丘上に鎮座していて、規模も大きい。それに対して、当社は嘗て「根元神社」と称し、その後明治40年(1907年)に日枝神社が合祀し、「越生神社」と改名した。
 但し創建年代は意外と古く、一説では、今から1200年ほど前に遡るといわれ、高僧・行基が法恩寺を建立した際に、現在のご祭神を勧請し、守護神として神事を執り行ったのが始まりという。
 
 鳥居の右側に立つ社号標柱。左側にあるのは     石段を登り終えるその先に境内、
  「越生町再発見100ポイント」のプレート        及び社殿が見えてくる。
       
              静まり返った境内の先に佇む社殿
『入間誌』『新編武蔵風土記稿』『越生町HP』による越生神社や鹿下地域、地名の説明。
「鹿ノ下」
〇越生神社
・東北部にあり。社地に近く、学頭沼あり。学頭沼は行基の学寮を起てたる処なりと称す。社は元根本(元)神社?にして古くより存し、応永年中越生左工門尉光忠再営、延徳二年幸伝再営後寛文八年代官深谷善右工門再営せりと言伝ふ。明治四十年村社日枝神社を合祀し、越生神社と改称した(入間誌)
〇沼
・村の北にあり、廣さ二町許、土人學頭沼と呼べど、名義はしられず(新編武蔵風土記稿)
沼の名の由来は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)、江戸城に登る都幾川の慈光寺の学頭(僧侶の役職名)に、村人たちが沼の修理願いを託したことによると伝えられています。(越生町HP
〇大行院跡
・元の修験にして、今は民家となれり。川角村西戸山本坊の配下にして、文化の頃越生岡崎より法流を譲られ、今も其文書を存すと言ふ。風土記には岡崎吉実の子孫正元元年越生岡崎に移住し、修験となり源栄と改む。是大行の開祖なりとあり(入間誌)
本山派の修驗、西戸村山本坊の配下なり、寺記を閲するに、岡崎吉實と稱せし人の子孫、正元元年武州入間郡越生岡崎に移住して修験者となり、源榮と改號す、是大行院の開祖なりと云、今按に近鄕今市村の小名に、岡崎と云ものあれば恐くは彼を指て云しならん(新編武蔵風土記稿)
小名 高房
応永三十二年尼禪智が寄附狀にも、此名見えたれば、舊くより唱へし名なることしるべし、殊に其地廣くして隣村成瀬にも續けり(新編武蔵風土記稿)
       
           境内右側奥に設置されている「越生神社再建記念碑」
      石碑の内容はかなりの長文なので、後半の「越生神社再建について」は略す。
          越生神社再建記念碑 埼玉県神社庁長 横田茂拝書
                  越生神社の由来
      当越生神社は元は根本神社と称し その起源は古く今から千二百年前の
     天平年間(第四十五代聖武天皇・七二九~七四八)にさかのぼり 時の高
     僧行基菩薩が東國遊行の時越生法恩寺を創立 さらにその時学寮を当地に
     選びその守護神として大山祇神、大雷神、高龗神を勧請して神事を行った
     のがそもそものはじまりと伝えられております その後兵乱の為衰頽して
     いたが 応永年間(第百一代称光天皇・一三九四~一四二七)の御代越生
     左衛門尉光忠が再興し越えて延徳元年(第百三代後土御門天皇・一四八九)
     鹿下幸傳が再営したと口碑に伝えられている 後 寛文八年(第百十二代
     霊元天皇・一六六八)の御代 当地の代官深谷喜右門が社地を寄付し再修
     致しました その後明治五年社格制定により村社に列せられた 明治三十
     七年八月官有地一反二畝七歩を神社境内地として払い下げ 明治四十年一
     月同字宿にありました日枝神社を合殿 合祀し社号根本神社を越生神社と
     改称した  尚 祭神大山祇神は山の神で 大雷神は雨の神であり 高龗
     社は龍の古字で祭神は龍神で水の神として尊敬され稲穀の豊作を願う庶民
     的信仰に発しているように思われる なお 根本神社とは山の根方の祠に
     ある神社という意味と思われます 大山咋尊は 大歳神素淺鳴尊の子で日
     枝山王社の祭神で穀物の神です 日枝神社は 天台宗比叡山延暦寺守護神
     として祭祀されたのがその起こりとも言われております
      また 口碑に日枝神社よりも根本神社のほうが古いのでこちらに合祭に
     なったという 昭和三十四年には同敷地内にありました末社愛宕大神 鬼
     神大神を合祀しております
        
                    拝 殿
『越生神社再建記念碑』の石碑には、「越生神社の由来」の他に「越生神社再建について」が刻まれており、石碑の上段に「越生神社の由来」・下段に「越生神社再建について」と2段構成となっている珍しい石碑である。下段にある「越生神社再建について」を確認すると、昭和六十年二月十九日に放火と見られる火災により焼失したといい、年月日は記されていないが、その後再建を行い、昭和六十三年十二月にこの記念碑を建立したとの事だ。
 
     拝殿に掲げてある扁額          境内に祀られている境内社・三峰大神
        
                           境内より石段下の鳥居を望む。
        
              鹿下越生神社の東側にある学頭沼


参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間誌」「日本歴史地名大系」「越生町HP」「Wikipedia」
    「境内石碑文」等
               

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