とうかん山古墳
正式な発掘調査はされておらず、墳丘で採集された埴輪片から、6世紀中頃から後半の築造と推定されている。古墳名は墳頂にある稲荷社(おとうか様)や十日夜碑に由来する。
所在地 埼玉県熊谷市箕輪
区 分 平成元年(1989年)3月17日 埼玉県指定史跡
埋葬者 不明
築造年代 6世紀中旬から後半にかけて(推定)
とうかん山古墳は冑山神社、同古墳から北へ2㎞位進んだ箕輪地区にある前方後円墳である。冑山神社は国道407号線沿いに鎮座しているが、その国道の東側に走っている埼玉県道257号冑山熊谷線を熊谷市方向に北上すると右側に吉見小学校があり、その手前にとうかん山古墳が見えてくる。
このとうかん山古墳は箕輪地区の住宅地の中にあり、大きさが分かりずらい古墳だが、登ってみるとくびれ部もハッキリあって、比較的良好な形状を保ってると思われる。また甲山古墳と築造年代も距離も近いことから、関連性が唱えられている古墳でもある。
前方部にあるとうかん山古墳の案内板
埼玉県指定文化財 史跡 とうかん山古墳
指定 平成元年3月17日
所在 大字箕輪字北廓
この古墳の名称は、墳頂に稲荷社(おとうか様)や十日夜碑があることから、とうかん山古墳と呼ばれています。
古墳の形は前方後円墳であり、規模は、全長74メートル後円部の高さ5,5メートル、前方部の高さ6メートルです。時期については、発掘調査が実施されていないので明確では有りませんが、採集された埴輪破片から6世紀中頃と考えられております。
かつてこの地域には沢山の古墳が存在しており、本古墳はその中心的古墳だったと思われます。現在では周辺の古墳は失われ幾つかが残るだけですが、その残された古墳の中でも本古墳は当時の原型をとどめていることで大変貴重なものと考えます。
平成3年3月 埼玉県教育委員会 熊谷教育委員会
とうかん山古墳案内板より引用
とうかん山古墳は東平台地上に位置している。この東平台地は荒川扇状地に形成された櫛引台地・江南台地とは直接連続しないが、ほぼ同時期に形成されたものとされる。東平台地は西方に広がる比企丘陵と南方は比企丘陵の残丘と考えられている吉見丘陵に挟まれ、東方の大里沖積地で区分される。台地頂部は比較的平坦で標高50~30mを測る。沖積地との比高は10~15mである。台地を構成する基盤層は灰色砂質泥岩と青灰色砂岩からなる土塩層と呼ばれる新第三期層に当たる。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。
現在は低平な水田地帯となっている低地部には古代の大里条里帯が設定されており、可耕地としての整備が比較的早くなされた一帯であるが、後世の荒川等の乱流と新田開発などによりその実態はほとんど不明である。だが、ときには2m以上の下面から古代の遺構が確認される場合があり、大半の古代面は埋没しているとも想定される。
ところでとうかん山古墳がある熊谷市箕輪地区は標高10m内外の台地を侵食した細長い谷に取り囲まれた低平な丘状の畑地に広がっている地域で形成されている。この「箕輪」の地名の由来を調べてみると川の曲流部や曲がった海岸などの半円状の台地のことで、つまり水の輪(=みのわ)に囲まれているような状態だそうだ。
地名語源辞典(山中襄太著、校倉書房)に的確な表現があるので、引用してみる。
『箕という農具はヘリが深い弓形に曲がっている。その曲線を、箕輪、箕曲、と書いてミノワという。川、堤防、土手、道などが、そういう曲線になっているところをミノワという。弓のツルにあたるところを直線に通れないで、弓の曲線のところを遠まわりしなければならぬような場合、こういう地形は大きな関心を持たれて、こういう地名がつけられた』。三ノ輪、三輪、三野和、蓑輪、等とも書く。
そこから発展して、中世武士の居館を中心として、周囲に農民が居住して発展した集落のことを指すようにもなったという。
不思議なことに行田市和田地区に鎮座する和田神社の「和田」も同様な意味があり、この「和田」は「輪+田」で川の曲流部内の平らな場所という由来があるそうだ。「和田」も「箕輪」の地名と同じく「輪」を共通とする地名ではないだろうか。