和田神社
また「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じているらしく、例えば昔の大阪には「わたなべのつ(渡辺津)」があり、いまは「渡辺橋」に名残りをとどめている。さらに、海や川に祈りを捧げる場所である「わたらい(渡会、度会)」の地名ともつながっており、三重県には伊勢神宮にまつわるその地名がいまも残っている。
所在地 行田市和田192
御祭神 大己貴命・少彦名命
社 挌 旧村社
例 祭 不明
行田市和田神社は国道17号バイパス線を熊谷、行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。ちなみにこの道路は埼玉県道128号熊谷羽生線で、熊谷市筑波交差点を起点として羽生駅東口交差点が終点の約15kmの県道で、国道125号バイパス線に並行して造られているのだが、上之(雷電神社)交差点から新道の合流交差点までの約930メートルの区間が、熊谷羽生線の指定を外されているという。もっともそれによって走行上は何も影響はないことなのだが、和田神社のルートを説明する際に細かく説明すると厄介なので前置きをさせていただいた。
この埼玉県道128号線は南側には国道125号バイパスがあり北側には忍川が流れ、和田神社付近まで丁度この間を並行している格好になっている。
とにかくこの埼玉県道128号線を道なりに真っ直ぐ進むと約10分くらいで左側に和田神社の社号標が見えるT字路があり、そこを左折すると、正面突き当りに和田神社の鳥居が見えてくる。
県道128号線上、左側にある社号標 真っ直ぐ進むと和田神社一の鳥居がある。
和田神社正面
一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
和田神社の創建年代は不詳だが、江戸時代には蔵王社と称していたという。明治維新後御嶽神社と改称、明治2年には村社に列格、明治41年には和田村内の八坂神社(伊森明神社)を合祀したという。関東大震災により全壊、和田地区の中心にあたる当地に遷座・再建したとのことだ。
拝 殿
この和田神社が鎮座する和田地区は忍川が起点である熊谷市平戸から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流するのだが、その曲流部の南側に位置している。まさに「和田」という地名にピッタリな地形だ。
本 殿
よく見ると本殿のすぐ先、つまり北側に忍川が流れている。
和田神社 由来
和田はかつて条里制水田が広がっていた地域で、現在も水田の中に位置する。
「風土記稿」和田村の項には「伊森明神社 村の鎮守とす。宝珠院持。蔵王社 同持。宝珠院 新義真言宗、上之村一乗院末、和光山と云、本尊地蔵を安ず」と載せ、このうち「蔵王社」が当社であり、往時、蔵王権現と称していたという。
明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治二年に村社となった。同四一年、字北屋敷の八坂神社及び境内社八幡社を合祀し、社号を和田神社と改めた。八坂神社は「風土記稿」に載る「伊森明神社」である。
大正一二年の震災により本殿・幣殿・拝殿が全壊したため、これを機に従来の社地が偏狭なことから、和田の大地主竹田恒太郎所有の地が和田の中心地であるとして、この地を求め大正一四年社殿を新たにし一段と尊厳を加えた。この移転及び造営のために要した費用は七千八百円余りといわれ、氏子一同がこの再建に尽くした並々ならぬ熱意がうかがえる。
本殿は一間社流造りで、大己貴命・少彦名命の二柱を祀る。
埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
拝殿の左側にある石祠、石碑(写真左)、そして本殿の右側奥にひっそりとあった石祠(同右)
どちらも由緒不明だ。
日本は大昔から山や川等の自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見い出す多神教国家だった。それ故に西洋国家のように「自然を支配する」ことを嫌い、「自然の造形美」を人間の手によって造りだし、左右対称性、幾何学的な池の配置や植栽の人工的整形などを特徴をもつ「西洋的庭園」方式をせずに、その土地の気候や風土にあった仕事や家づくりをするなど、自然と生活が互いの一部として存在していて、自然に人の営みが加わることがそのまま美しい景観になっていた。
それは地名にも当てはまり、自然との共生から培った古代の人々の知恵からくるものだったのだろう。この「和田」という地名一つとってみてもそれが分かるものだ。埼玉県には行田市和田以外にも「和田」のつく地名は意外と多い。
最後に埼玉苗字辞典にも「和田」について以下の記述があり、それを紹介したい。
和田 ワダ 綿(わた)・和田(わた)は、海(ばた、はた)の転訛にて、海(あま)族居住地を称す。ベトナムから中国雲南省附近に居た海洋民は黒潮暖流に乗って沖縄・九州・太平洋岸へ、また中国沿岸部や朝鮮半島・日本海岸へ土着した。海洋民のことはウツミ・コシ・斎藤・鈴木・秦・渡辺等参照。先代旧事本紀巻一陰陽本紀に「伊弉諾、伊弉冉の二尊、海神(わたつみのかみ)を生む。名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)」とあり。大綿津見神の子宇津志日金折命は別名穂高見命とも云い、安曇族の祖神なり。此の海神は慶尚南道釜山港附近にあった委陀(わだ)・和多から渡来す。金官・須奈羅は今の金海。背伐(はいばつ)・費智(ほっち)・発鬼(ほっき)は今の熊川。安多(あた)・多多羅(たたら)は今の多大で、四村(村は今日の郡程度)は対馬海峡・朝鮮海峡に面した南加羅の地である。日本書紀継体天皇二十三年条に「新羅は四村を攻略す、金官・背伐・安多・委陀、是を四村とす。一本に云はく、多多羅・須奈羅・和多・費智を四村とするなりといふ」。敏達天皇四年条に「新羅は、多多羅・須奈羅・和陀・発鬼、四村の調を進る」と見ゆ。南加羅の和多村の渡来人集落を和田と称す。
○男衾郡折原村字和田及び立原村字和田(寄居町)は古の村名にて、今の寄居運動公園附近なり。鉢形古城跡内郭案内記に「武州鉢形の古城跡追手は立原村也、続て諏訪の神社あり、此社の南堀の上に御金倉と言所有是なり、北の方は和田村なり鉢形へ通る小路あり、和田坂の東に巻渕あり」と。鎌倉浄光明寺嘉慶三年文書に浄光明寺領武蔵国男衾郡内和田郷事、応永二十七年文書に武蔵国男衾郡内和田郷、享徳二年文書に武蔵国男衾郡和田郷と見ゆ。和名抄の男衾郡幡郷の地か。
○秩父郡下飯田村字和田(小鹿野町)は、平村慈光寺元禄八年棟札に「和田村、飯田村、須々木村」と見ゆ。元応二年丹党中村文書に「秩父郡三山郷小鹿野の和田の屋敷一所」と見ゆ。下飯田村は小鹿野村より分村す。
○那賀郡中沢郷駒衣村字和田(美里町)は、丹波国中沢文書に「明徳元年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道在家・同田一町・同名々寺の事」。「永正四年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道有宗同田一町の事」と見ゆ。
○高麗郡脚折村字和田(鶴ヶ島市)は古の村名にて、天正二年白鬚社棟札に「白鬚大明神七ヶ村惣社、臑折、太田ヶ谷、針宮、和田、高倉、大六道、小六道」と見ゆ。
○大里郡和田村(熊谷市)、入間郡入西領和田村(坂戸市)、越生郷和田村(越生町)、埼玉郡和田村(行田市)あり。
○小名和田は、葛飾郡神間村、埼玉郡久喜町、足立郡大牧村、入間郡上谷村、高倉村、二本木村、下安松村、高麗郡平沢村、栗坪村、高倉村、比企郡玉川郷、上古寺村、横見郡御所村、幡羅郡弥藤吾村、秩父郡久長村、河原沢村、下吉田村、長留村、日尾村、日野村、薄村、横瀬村、中野上村、下名栗村等にあり。また、葛飾郡花和田村、宇和田村、足立郡大和田村、新座郡大和田町、入間郡箕和田村、横見郡大和田村、児玉郡沼和田村等あり。此氏は海岸部の常陸国、海神安曇族の渡来地信濃国に多く存す。