古社への誘い 神社散策記

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真名板高山古墳

 真名板高山古墳は埼玉古墳群と同時期の古墳で、六世紀後半頃の築造と推定される古墳である。行田市のもっとも東端に位置しているこの地域には珍しい単独墳であり、東西に主軸を持つ前方後円墳で、前方部には浅間社が祭られている。
 西方約4kmに位置する埼玉古墳群は時期的に鉄砲山古墳が造られていて、また小見地区にある小見真観寺古墳も同時期という。この狭い地域に100m以上の大型古墳が3基造られる、その背景、原因とは一体何だったのだろうか。
所在地   埼玉県行田市真名板1532
区  分   埼玉県指定史跡
埋葬者   不明
築造年代 6世紀後半(推定)

 真名板高山古墳は埼玉古墳群から東に4km程、埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に進み、「真名板」交差点を右折し、同県道32号鴻巣羽生線を500m弱南下すると、右手にこんもりとした森と寺院が見える。この古墳は「群」と呼ばれる一定集団の古墳群ではなく、行田市の東の隅に独立している単独古墳で、埼玉古墳群等に比べ存在感の薄いマイナーな古墳である。
 またこの古墳は埼玉古墳群の全前方後円墳の主軸(後円部)が北東方向に向いているに対して、東西方向で後円部は西方向と全く逆に向いている点にある。
 この古墳の西側には真名板薬師堂があり、そこの駐車場を利用して撮影を開始した。

 
真名板高山古墳
                          昭和49年3月8日指定
 この古墳は、東西に主軸をもつ前方後円墳で、旧忍川の沖積地に向かう微高地上に立地している。
 現存の墳丘の大きさは、全長90.5m、前方部の高さ7.3m、最大幅50m、後円部の高さ5.4m、直径40mである。
 墳丘の形状は、かっての多量の封土が除去されたために、大きく変形している。
 築造年代、埋葬施設、副葬部品については明らかではないが、周辺から採集された埴輪破片から、六世紀後半の築造と考えられている。
 武蔵最大の規模を誇る埼玉古墳群は南西約4キロメートルにあるが、時期的には並行しており、その関連が注目される。     
 平成2年3月
    埼玉県教育委員会, 行田市教育委員会
                                                                                                                    案内板より引用
 
    案内板の近くから墳丘に続く道がある。     墳丘はかなり狭まっていて、特に前方部の変形が
                                               著しい。

     後円部、墳頂部にある仙元(浅間)社
 現在、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来  の地表面が地下に約3メートル埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約9~10m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、 この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明したらしい。
 
              真名板高山古墳 実測図

 真名板高山古墳は利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3メートル埋没しているという。永明寺古墳の項でも紹介したが、行田市を含む埼玉県の東部は、関東平野のほぼ中央部に位置し、利根川や中川にそって上流から妻沼低地、加須低地、中川低地と続き、低地に囲まれるように大宮台地が大きな島状にあり、 このうち羽生市がある地帯は加須低地と言われ、利根川中流域の低地のひとつとして南の大宮台地と北の館林台地の間に位置している。
 この加須低地の場合、ほかの低地とは少々違う点があり、ひとつは自然堤防と思われる微高地の地表のすぐ下からしばしばローム層が発見されることで、低地の浅い部分の地下にローム層が存在することは一般では考えられないことらしい。。しかもなぜか微高地の下にローム層があり、後背湿地の下からは見つからない。ふつう自然堤防と後背湿地の構造的な違いは表層部付近だけであり、地下はともに厚い沖積層が続くものらしい。
 もうひとつは後背湿地と思われる部分の一部では軟弱な泥炭質の層が著しく厚いことで、代表的なのは羽生市三田ヶ谷付近(現在さいたま水族館がある付近)で、泥炭質の層が10mもあるという。

 つまり、加須低地のすぐ下には台地が隠れている埋没台地ということだ。それも古墳時代前後の。加須低地は沈んだ台地の上にできた特殊な低地だったというのだ。前出の小松古墳は地下3mから古墳の石室が発見され、古墳が沖積層の下に埋没していることがわかり、また行田の埼玉古墳群や真名板高山古墳なども本来台地の上につくられたものが、2.3mの沖積層(古墳が築かれた後に堆積した土砂)で埋まっていることが明らかとなったという。

 この地域は約3mの堆積物に覆われており、この真名板高山古墳が築造された年代、周囲には古墳が数多く存在した,ということも考えられる。しかもこの古墳は二子山古墳と同規模の大きさという。相当実力のある人物が埋葬されたこととなる。
 また真名板高山古墳が築造された6世紀後半時期は全国的には古墳の規模は縮小時期に当たるにも関わらず、埼玉県北部においては第2次大型古墳の建設ラッシュ時期が起こっている。埼玉古墳群では丁度鉄砲山古墳(全長約109m)や将軍山古墳(全長約90m)の築造時期に当たり、埼玉古墳群から北に転じると小見地区にある小見真観寺古墳(全長112m)も同時期である。また鉄砲山古墳の東側には若王子古墳群があり、その中の最大の古墳である若王子古墳(昭和9年の小針沼干拓工事の際に埋立用土に用いられ、現在は全て消失、103m)も同じ時期に造られた。さらに南方向には久喜市菖蒲町の天王山塚古墳(109m)と、100mを超す大型古墳が5基も出現するその背景とはいかなる事態なのであろうか。

 6世紀後半に築造された古墳
  ・ 真名板高山古墳  127m
  ・ 鉄砲山古墳     109m 埼玉古墳群
  ・ 小見真観寺古墳  112m 小見古墳群
  ・ 若王子古墳     103m 若王子古墳群
  ・ 天王山塚古墳    109m 栢間古墳群

                        
          古墳の南側には真名板薬師堂、正面には楼門
                                                                                  

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