飯田天満神社
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町飯田815
・ご祭神 天穂日命 菅原道真公
・社 格 旧下飯田村松坂鎮守
・例祭等 例大祭 2月25日に近い日曜日 秋祭り 8月最終日曜日
地図 https://www.google.com/maps/@36.0341131,138.9825815,17z?hl=ja&entry=ttu
小鹿神社の大鳥居が見える国道299号線を西行し、「黒海土バイパス前」交差点を直進し、400m程先の左方向へカーブし終えた三叉路を右斜め方向に進む。その後120m程先の路地を右折し、そのまま進んでいくと、「天満神社」と刻印された社号標柱が正面に見えてくる。社号標柱の手前には駐車可能なスペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
社入り口に設置されている社号標柱
『日本歴史地名大系』 「下飯田村」の解説
赤平川左岸の山間地に位置し、西は中飯田村、東は上小鹿野村、南は赤平川を境に薄(すすき)村(現両神村)、北は上吉田村(現吉田町)。上小鹿野村からの往還が村内を横断し、中飯田村に向かう。元文五年(一七四〇)それまでの飯田村が上・中・下の三ヵ村に分立して成立した(「風土記稿」「郡村誌」など)。
しかし郷村帳類では分村後も飯田村一村で高付されることが多かった。田園簿では飯田村として高五〇七石余・此永一〇一貫四一七文とある。天保郷帳では飯田村の高は四三八石余。飯田村は元文四年まで幕府領。同年、当村の村高一四〇石余のうち七七石余が旗本深津領となり、明和二年(一七六五)残余の高六四石余が旗本松平領となって、両者の相給で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。
社号標柱左側に見える舗装されているが道幅が狭いゆるやかな勾配のある上りの道路を徒歩にて進む(写真左)。この道も参道であったのだろう。参拝時期は7月上旬の本格的に暑さが強まる晴天での参拝であったが、小道の両側には林の緑が勢いよく生い茂り、緑の木陰がこの周辺の気温を抑えてくれる効果があるようで、歩いていても心地よい。そのような気持ちに浸りながら進んでいくと、ほどなく飯田天満神社の鳥居に到着する(同右)。
細い路地の先にあるためか、あまり目立たず、静かに地域住民を見守っているという印象。
城を思わせるようながっしりとした石垣
石段上にある鳥居
石段の手前で左側に設置されている案内板
天満神社 御由緒 小鹿野町飯田八一五
◇古くは末社の諏訪社が松坂の鎮守であった
当社は飯田の一耕地である松坂の北端の高台に耕地を見下ろすように鎮座している。境內の裏には吉田町の上吉田へ通じる峠があるが、この峠は当社に因み天神峠と名付けられている。創建は「正遷宮 謹請天満宮鎮座守護」とある棟札の年紀によれば文化四年(一八〇七)であり、以来、松坂耕地の鎮守として厚く信仰されており『新編武蔵風土記稿』にも「例祭正月二十五日、七月二十五日小名松坂の鎮守なり、村持」と記されている。また末社として、伊勢太神宮が安政二年(一八五五)、産泰社が明治四年(一八七二)に勸請され、今日に至っている。
一間社流造りの本殿には天神座像が納められている。杉木立に囲まれた境内には、社殿のほかに「お日待堂」と呼ばれる社務所や、神楽殿をはじめ、末社(前記二社および諏訪社、但し産泰社は稲荷社との合殿になっている)などがあり、道真公ゆかりの「飛梅」の故事に倣って梅の木も植樹されている。
なお、創建の年代が比較的新しいことと、現在は末社の一つとして祀られている諏訪社が古くから大切にされていることから、往古は諏訪社が松坂の鎮守であったと伝えられている。
◇御祭神
天穂日命 菅原道真公
◇御祭日
・例大祭(二月二十五日に近い日曜日)
・秋祭り(八月最終日曜日)
案内板より引用
数段の石段を登り終えると社殿に達する。
境内の回りには深き森に囲まれていて、気持ちも和む社。
鳥居を過ぎてから石段を登ると参道左側に見える神楽殿。
拝 殿
創建時期は「正遷宮 謹請天満宮鎮座守護」とある棟札の年紀によれば文化四年(一八〇七)であり、それ程古いわけではないが、社に漂う雰囲気は、かなり歴史の深さを感じる。
社殿の左側に祀られている境内社 境内社内部
境内社内部には、左から「伊勢大神宮」「稲荷神社」「諏訪神社」が祀られている。
創建の年代が比較的新しいことと、現在は末社の一つとして祀られている諏訪社が古くから大切にされていることから、往古はこの諏訪社が松坂の鎮守であったともいう。
拝殿からの一風景
ところで、飯田天満神社のすぐ西側には「光源院」という寺院がある。『新編武蔵風土記稿』によれば、「坂松山と號す、曹洞宗、甲州山梨郡落合村永昌院の末なり、天正十九年十一月寺領三石の御朱印を賜ふ、本起立し、元亀二年四月廿三日示寂す、末寺二十五ヶ寺あり、」とあり、そのあと、「高札」の掲載がある。
「高札 高源院
當手甲乙之軍勢、於于彼寺中不可亂妨狼藉、若背此旨者可被行罪科者也、仍如件、
永祿十三年庚午二月十八日
山県三郎兵衛尉奉之」
この「高札」は「武田の高札」といわれ、本高札は、武田軍の高源院(光源院)に於ける乱妨・狼藉を禁じ、背いた者を罪科に処するという掟書きである。永禄13年(1570)2月28日の日付と武田家重臣山県三郎兵衛の名が記され、二重円の中に龍を描く武田家の朱印がある。また光源院は武田氏重臣逸見氏が開基と伝わる。(縦30.2cm、横40.4cm軸装)。
この「高札」は、小鹿野町・町指定有形文化財[古文書]で、昭和34年8月24日指定を受けている。
小鹿野町のこのような辺境の地においてにも、このような戦国時代の歴史の一端を示す文献・資料が存在する。不思議なものである。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「小鹿野町HP」「現地案内板」等