出丸中郷若一王子社
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸中郷1866
・ご祭神 伊弉冉命 速玉之男命 事解之男命
・社 格 出丸中郷村鎮守
・例祭等 不明
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9595935,139.5164955,16z?hl=ja&entry=ttu
川島町出丸地区には二社『若一王子社』存在する。前項「出丸本若一王子社」は、出丸本、上・下大屋敷、曲師、西谷五ケ村惣鎮守として、出丸本地域に鎮座しているが、そこからそれ程遠くない出丸中郷地域で、入間川左岸にもう一社若一王子社鎮座している。
出丸本若一王子社は埼玉県道339号平沼中老袋線「上大屋敷」交差点を左手前方向に進んだが、出丸中郷地区に鎮座する若一王子社はそのまま直進する。1.4㎞程進んだ十字路を右折後入間川土手に到着後そこを左折すると、ほぼ正面に出丸中郷若一王子社の社叢林が見えてくる。
社の位置を確認すると鳥居正面は入間川の土手に向いていて、集落に対しては背を向けるように建てられている不思議な配置である。この配置は鴻巣市滝馬室地域に鎮座する滝馬室氷川神社と同じ形態だ。
社の西側脇に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行う。そこには参道らしき舗装されていない入間川堤防方向に進む道があり、突き当たりを直角に左方向に進むと鳥居が見えてくる。鳥居は堤防のすぐ北側にある為、堤防を少し登らなければ正面鳥居全体を撮影することができない。
出丸中郷若一王子社正面
出丸中郷地域は川島町東南部にあり、西側には入間川が、東側に流れる本流である荒川に合流しようとする間に位置しており、地域全体が沖積低地に属している。社のすぐ南側には入間川の堤防が広がり、堤防に対して鳥居が立つ。出丸中郷の集落は社の東側にあり、鎮座している場所からはやや離れている。
拝殿付近は昔からの自然堤防なのか、盛り土が施しているのか不明だが、社の西側にある水田地帯が10mに満たない標高、東側にある集落も10m~11m程であるのに対して、社殿は11.5m程で、周囲よりは若干高い場所にあるようだ。
それでも一度洪水等の自然災害が起これば、真っ先に被害が及びそうな場所に敢て鎮座しているようで、まさに神様が身を挺して地域を守っているような第一印象はぬぐえない。
拝 殿
社殿全体高い場所にあり、手前には石段も見える。
出丸中郷村に関して『新編武蔵風土記稿』において以下の記載がある。
「出丸中郷は本村とは自ら別村にて、昔は只中郷を唱へしを、前村に云如く七村組合しより、今の村名とはなりしと云、然れども今本村中郷・下郷の名あれば、恐くは皆前村より分れし村なるべし、正保の頃のものには中の郷とばかり載たるも、寛は出丸の唱ありしならん、元禄改定の国〇郷帳には、出丸の二字を加へたり」
つまり元々は「出丸中郷」ではなく、単なる「中郷」であった地域が、元禄時代に改定された「郷帳」で、出丸中郷となったと書かれている。
「郷帳」とは、江戸時代,幕府による国絵図作成事業の際,同時に作成された村名・村高を記載した帳簿。郷村高帳の略。原則として1国1冊作られた。江戸幕府は,慶長・正保・元禄・天保期の4度,国絵図・郷帳を作成したが,慶長のものは御前帳とよばれる。正保郷帳は,1644年(正保元)各国1人ないし数人の大名に作成が命じられ,村高のほかに田畑の内訳,新田の有無,干損・水損の別,山林の種別など元禄・天保郷帳に比べて詳しい記載が求められた。元禄郷帳は,97年(元禄10)諸大名に作成が命じられ,1702年までに提出された。天保郷帳は,幕府勘定所が直接作成にあたり,1831年(天保2)開始,34年に完成した。元禄・天保両郷帳の記載形式は,正保郷帳に比べ簡略である。元禄郷帳の石高が表高であるのに対し,天保郷帳では新田高などを含めた実高が記載されたという。
拝殿手前右側に鎮座する境内社(写真左)。三社合祀社のようだが、一番左側は納札所で、他の社は字が薄くて解読不能。また参道左側には参道に沿って並べられている力石(同右)。
社殿全体を横側から撮影。
洪水対策として拝殿部底部には水を流すような高台と柱が並び、本殿部位は石垣を高く並べているのが分かる。
拝殿からの一風景
鳥居の南側に入間川の堤防があるのが一目瞭然で、お判りいただきると思う。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「山川 日本史小辞典 改訂新版」「Wikipedia」等