牛ヶ谷戸諏訪社
・所在地 埼玉県比企郡川島町牛ヶ谷戸669
・ご祭神 建御名方命
・社 格 旧村社
・例祭等 新年祭 3月27日 八坂様 7月13日 例祭 8月27日
新嘗祭 11月27日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.987028,139.498083,17z?hl=ja&entry=ttu
三保谷宿氷川神社から埼玉県道74号日高川島線に戻り、首都圏中央連絡自動車道の高架橋下を南下、500m程進むとY字路となり、その三角形沿いに牛ヶ谷戸諏訪社は鎮座していて、「山ケ谷戸」交差点のすぐ北側にあるので比較的分かりやすい。社は南向きで、Y字路の先に鳥居が立っていて、鳥居の南側には若干の駐車スペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
牛ヶ谷戸諏訪社正面
社号標柱
通常「牛ヶ谷戸」は「うしがやと」と読むが、別名「うしがいと」とも呼ぶ。嘗て足立郡側海斗村字牛飼・並木村字牛飼(大宮市)及び円阿弥村字牛飼(与野市)の一帯は古の牛ヶ谷と書いて「うしがい」と呼ばれていた。また入間郡宗岡村には小字に牛ヶ谷戸が存在して「ウシガイト」と註している。
三保谷宿氷川神社同様に「谷」と名の付いた地域名であり、地形を確認すると、都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地域に属するこの牛ヶ谷戸地域は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。
現代を生きる我々の常識では、「谷(や・やつ)」の概念が強く響いてしまい、山間にはさまれた狭い谷(たに)間と単純に考えてしまうが、本来の意味は、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこの地に「谷」と名づけたのではなかろうか。
境内に設置されている案内板
御由緒
御祭神 建御名方命
古文書に初代の神主は、天文十三年(四四二年前)禰宜馬場帯刀とある。氏子中の馬場家先祖が、信濃国御本社より御分霊を勧請し、建立したと伝えられ、其の後、寛永十三年七月(三四〇年前)当地生れ、鈴木三右エ門立願して、社殿を造営されたと当時の棟札に明記されている。
明治初年、神仏分離に当り、諏訪大明神は諏訪大神社と改称し、現在の諏訪社となった。
明治三十年九月、大暴風雨に、社殿後方の御神木が倒れ、同時に社殿も大破したので、三二〇万円の経費を以って、倒された大杉一本で改築された。
昭和五十年十一月、御本殿大改修を、経費七五万余円を投じて完工し、現在に至る。
八坂社
大正元年十二月に、牛ヶ谷戸字天王の地に鎮座せるを移転して、境内社と改めた。
天神社
古来より境内社として祀られている。(以下略*句読点は筆者追加筆)
案内板より引用
拝 殿
諏訪社 川島町牛ヶ谷戸二二三(牛ヶ谷戸字本村前)
都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。そうして開かれたのが八ツ林郷と呼ばれる地域で、当社が鎮座する牛ヶ谷戸は、その中の一村として開発され、永禄年間(一五五八-七〇)には北条氏秀の所領として検地を受けている。
創建については、後鳥羽天皇の御代(一一八三-九八) に足立郡から当地に移り住み、開拓を行った数家が式内社氷川大神の分霊を奉祀し、のち永正十二年(一五一五)に当地の矢部伊賀一族が再興したとする説、正応年間(一二八八-九三)に相州(現神奈川県)三浦郡矢部村から当地にやって来て帰農した太田資時が五穀成就を祈ってその産土神である氷川大神を祀ったことに始まるとする説などがある。ちなみに、江戸時代には当社の別当であった大福寺の東側と西側にある二軒の矢部家は、古くから当社の祭祀にかかわりが深く、神仏分離の後は行詮・覚太郎・周矩の三代にわたって当社の神職も務めた。
当社には棟札が数枚残っているが、その中で最も古いものが永正十二年四月に本殿を造営した時のもので、表には「復興玉殿本地拾面観音垂迹氷川大明神」とある。その後、慶長三年(一五九八)九月に再度造営され、更に安政三年(一八五六)十二月に造営されたのが現在の本殿である。また昭和三年には御大典を記念して覆屋も造られた。
「埼玉の神社」より引用
「埼玉の神社」「境内案内板」には諏訪社創建に「馬場家」及び「矢部家」が関わっていたという。馬場家・矢部家に関して「比企郡神社誌」には以下の記述がある。
〇比企郡神社誌
・馬場家
「大字牛ヶ谷戸諏訪社由緒。氏子中の馬場家の先祖信濃国より氏神として祀る。古文書に初代の神主は天文十三年禰宜馬場帯刀とあるを見れば、其頃の御分霊を悟る事も出来る」
・矢部家
「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」
境内社・八坂社
拝殿の左隣に鎮座していて、近代補修の為か、拝殿より見た目立派に見える。
八坂社の隣にある石碑 拝殿右隣に鎮座する境内社・天神社
本 殿
最後に「牛ヶ谷戸」という一見変わった地名について考えてみた。日本全国には様々な地名があるが、一説には7万種類もあるとも言われている。地名の命名経緯については、原始・縄文の頃の言葉、アイヌ語に起因するものや、自然災害、地形の形状、動・植物等に起因するものや、全くの人造語など様々である。その中でも自然災害や地形の形状から付けられた「地名」は、ある意味、自然災害への戒め、警告、メッセージであり、これも石碑等と同様に、偉大な「先人の教え」とも言えよう。
残念なことに、中には、既にその命名の経緯が忘れ去られているものも数多くある。また、地名は時を経るにつれ少しずつ変わっていく場合があり、古く忌み嫌われた名前から新しく現代的な名前に変わったりする場合や統廃合などの行政的理由による場合等もそれに当てはまる事例であろう。
『地名』に込められたメッセージは使用されている「文字」そのものではなく、その「読み」に本来の意味がある場合があることで、全く別の漢字が当てられている場合があるという。
まず「牛」という「文字」で最初に思いつくのは家畜としての「牛」であろう。この家畜としての「牛」は、牛の起源は,200万年前にインド周辺で進化したと考えられる、今では絶滅した野牛の「オーロックス」が家畜用に改良されたものとの説が有力されていて、3世紀以降に朝鮮半島から日本へ輸入されたという。「牛」の名前由来は,色々な説があり、新井白石が著した日本語の辞書である『東雅』と言う本には,韓国語の方言で牛のことを「う」と言っているので,この「う」が日本にも伝わって「うし」になったと書かれている。また『日本名言集』では,牛は「うしし」と言っていたものが,「うし」になったと説明している。その理由として牛は,農耕などの使役のとき牛を鞭で打ちながら労働させたので「打ち使う獣」と言う意味で「うし」になったと解釈されているようだ。
境内の一風景
対して「読み」としてのウシは「憂し」という古代語の意味を持っていて、不安定な土地を表し、過去の地すべり崩壊地や洪水の氾濫地、津波の常襲地域に名付けられた場合があるという。
地域自治体ではハザードマップを作成・配布して、地域住民にその地域の様々な自然災害の危険を注意喚起してくれるが、そのうえで、自ら「先人の教え」でもある古い地名を調査して知っておくことは危機管理上更に有効であろう。ご家族で、近所を歩いて古い神社仏閣を探してその由緒などを調べてまわるとか、図書館で地域に関わる古文書を紐解くとか、土地の長老の方々に昔話を聴いてみるなどすれば、意外と地域の「古い地名」が得られるかもしれない。
偉大なる祖先の方々は、嘗て自分たちに起こった災害の記憶を、「地名」や「言い伝え」として残してくれた。現代を生きる我々は、このことを十分に理解・感謝し、今後必ず起こりえるであろう「災害」から身を守る手立てを導き出さねばならないと今回の参拝で強く感じた次第だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「東雅(国立国会図書館デジタルコレクション)」「比企郡神社誌」
「政府広報オンライン『防災』」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等