三保谷宿氷川神社
・所在地 埼玉県比企郡川島町三保谷宿572
・御祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧村社
・例祭等 祈年祭 2月24日 例祭 4月10日 神興渡御式 7月15日
新嘗祭 11月30日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9913326,139.4964761,17z?hl=ja&entry=ttu
両園部氷川神社から日高川島線を東方向に5㎞程進む。首都圏中央連絡自動車道の陸橋が前方に見える右カーブ付近の十字路を左折するとすぐ左側に氷川神社の社号標柱が立っていて、そこから北側に舗装された参道が延びているのが分かる。参道を200m進むと北側正面に「三保谷宿集落センター」とその並びに三保谷宿氷川神社の鳥居が見えてくる。
鳥居の南側で、道路となっている参道右側には小さいながら児童遊具のある公園があり、その並びには駐車が数台可能なスペースも確保されており、そこに停めてから参拝を開始した。
鳥居から200m南側に立つ三保谷宿氷川神社の謝号標柱
この三保谷宿地域は荒川と市野川が合流する地点の南側に位置していて、辺り一面に水田を中心に低地が広がっている。「谷」と名の付いた地名が周辺多いが、これは低湿地だったことに由来すると考えられる。その河川の氾濫等で形成された自然堤防上に社は鎮座している。
三保谷宿氷川神社鳥居正面
三保谷宿は嘗て「ミオノヤ」と云い、比企郡三保谷宿はミオノヤと号していた。時には「三尾谷」「三尾乃野」「水尾谷」「丹生屋」「美尾屋」とも記すこともあるようだ。江戸時代には三保谷宿村及び山ヶ谷戸・吉原・牛ヶ谷戸・紫竹・表・上新堀・下新堀・宮前の九ヶ村は三保谷郷を唱えていて、現在は「ミホヤ」と読まれている。
広大な境内、静かな空間が辺りを包む。
この三保谷郷より出た一派に三尾谷氏がいて、この地は室町期から戦国期に見える三保谷郷の本郷の地といわれている。『平家物語』寿永四年(一一八五)二月十八日の屋島合戦に見える美尾屋十郎広徳の本拠地で、美尾屋氏の居館は現在三保谷宿の南側にある大字表にあり、社の南方1㎞周辺にある広徳寺が菩提所であるという。
〇比企郡表村 廣徳寺
大御山西福院と號す、新義眞言宗、二十六ヶ寺の本山にて、江戸大塚護持院の末山也、古は三河國誕生院の末なりしが、元禄の頃今の如く本山をかへしと云、天正十九年寺領五石の御朱印を賜へり、相傳ふ當山は水尾谷四郎廣徳が開基なりと、廣徳が法謚を勇鋒殘夢居士と號す、開山の僧名を傳へず、中興開山宥範應永六年寂す、本尊五大明王弘法大師の作也、
大御堂。此堂は大同年中造立せし所なりと云、されば水尾谷が、當山を開きし前より、道場はありしと見ゆ、然れども密宗の祖弘法大師大同中の人なるを以て末流の寺院やゝもすれば大同と稱するは常なり、とかく古き堂なることは疑ふべからず、大御堂と云こといづれ故あるべし、本尊三尊の彌陀定朝の作なりと云、ときはこれも大同より遥の後のものなるべし、
水尾谷四郎墓
大御堂の背後に高一丈、はゝり十間程の塚あり、石塔などもなし、是源平戰争のとき源氏に屬して、惡七兵衛景清と勇を争ひし、水尾谷四郎が墓なりと云、此人著名にて犬うつ童もしれど、【平家物語】に武蔵國の十人水尾谷十郎。同四郎と並べ記して、此事實は十郎がことゝなせり、されば寺傳は全く俗説に從ひたるものと見ゆれど、その誤りしも古きことにや、謡曲八嶋の内に、水尾谷四郎が景清とかけ合たる由見えたり、又【東鑑】文治五年七月奥州征伐の供奉の列に、十郎が名は載たれど、その他の事實を記さざれば、とかく考るに由なし、羅山詩集に、水尾谷四郎舊跡の詩あり、題下云、此處有小祠、世傳水尾野谷四郎舊跡也、其詩に云、刀劔忽摧心欲迷、此人力與景清斎、一頸一腕角相觸、兩箇闘牛元是泥、又土人の説に、いつの頃か塚中より古鏡・古鈴等を得しとて、今寺二収む鏡は圓徑四寸四分裏面に鳳凰の形に似たる模様あり、別に文字もなければ、年代考ふべきことなけれど、古物なることは論なし、古鈴は満面錆やつれて、緑色塗抹せしごとし數すべて五あり、その形上の如し(以下略)
「新編武蔵風土記稿」より引用
拝 殿
三尾谷氏は平家物語や吾妻鑑において以下の記述がある。
【平家物語】 屋島の戦い
「判官義経、あれ馬乗りの上手な若党ども、はせ寄せてけちらせと宣へば、武蔵国の住人みをの屋の四郎・同藤七・同十郎、上野国の住人丹生四郎、信濃国の住人木曽の中次、五騎つれてをめいてかく。楯のかげより漆塗の矢竹に黒ぼろの羽をつけて作った大きな矢をもって、まっさきにすすんだる、みをの屋の十郎が馬の左のむながいづくしを、ひやうづばと射て、筈のかくるるほどぞ射こうだる」
【吾妻鑑 巻五】
「文治元年十月十七日、関東の厳命により、水尾谷十郎以下六十余騎は、義経を六条室町亭に襲ふ」
【同書 巻六】
「文治二年六月十八日、水尾谷藤七は、使節として上洛す」この巻にはミオノヤと註している。
【同書 巻九】
「文治五年七月十九日、頼朝奥州進発随兵に、三尾谷十郎」
【同書 巻十】
「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に三尾谷十郎」
【同書 巻十六】
「正治二年十二月二十七日、官軍、帝命に背く柏原弥三郎が住所近江国柏原庄に発向するの刻、三尾谷十郎は件の居所の後面の山を襲うの間、賊徒逐電す」
廣徳寺の縁起には「當寺は平城天皇の御代大同年間の創立にして鎌倉時代に至り漸く衰毀の傾向を来した頃當郷を食邑した頼朝の驍将美尾屋十郎廣徳の菩提所なるを以って夫人二位の尼公が主となり大御堂及び本堂、坊舎の数棟を再建せられ廣徳寺と稱して、廣徳の冥福を祈った」と記されており、源頼朝に仕えていた美尾谷十郎廣徳の菩提を弔うために、女将軍である北條政子が廣徳寺の大御堂・本堂など坊舎を再建し、寺名も美尾屋十郎の「廣徳」と名付けたという。頼朝のみならず北條政子にもお気に入りの家臣だったことがこの一文にも分かるであろう。
境内に設置されている「氷川神社幣拝殿改築記念碑」
「氷川神社幣拝殿改築記念碑」 御由緒
当社の創建年代は、不詳であるが、武蔵国一宮氷川神社より御分霊を奉祀したと伝えられている。
社伝によると、元禄十年九月に社殿を再建し、内陣に金幣を納めた。その後、宝暦十年十二月、御神体に彩色を施し、安永五年七月、本殿を改築、さらに、弘化四年十一月拝殿と覆屋を再建し、御神体に彩色を施したとある。
その後、昭和三十三年、火災に遭い、本殿、幣殿、拝殿を焼失したが、翌三十四年に再建している。
しかし、幣殿、拝殿は仮復旧だったため、腐朽が甚だしく、遠からず改築をと、氏子の崇神の念厚く一同で決議し平成五年から資金の積み立てを開始し、九年に着手、完成したものである。
本 殿
ところで、廣徳寺内にある御影堂の境内案内板によれば、「仰々鈴木家トハ源義経ノ重臣鈴木三郎重家ガ主・義経ガ兄頼朝トノ仲ガ不和トナリ奥州平泉ヘ逃レシタメ義経追慕ノタメ熊野ヲイデテ田木ノ吉田(現東松山市)ニ至リシニ大雨ノタメ河川氾濫シ川ヲ渡ルコトガデキズコノ地ニ逗留シ一子ヲ儲シガモトヨリ死ヲ期シテノ奥州ヘノ旅路ニツキ子供ヲ連テ出立デキズ重家困惑シ友人デアル美尾谷(屋)十郎廣徳ト語イテ廣徳ニハ子ガナク其ノ子ヲ哀レニ思ヒ養子トナシ美尾谷ノ姓ヲ継ガシメタト傳ヘラレル然シ乍ラ其ノ子孫ハ三代マデ美尾谷ノ姓ヲ継承セシガ元来鈴木氏ノ子孫デアルノデ四代目ヨリ元ノ鈴木ノ姓ニ改メッタトイウ、これにより廣徳寺の大檀那美尾谷(屋)の姓はきえ鈴木氏の姓が現存する」と記されていて、ここでは「美尾谷」姓が4代目には「鈴木」姓に代わる理由を物語風に描いているが、事の真相は寧ろ逆で、「鈴木」姓の集団が三保谷宿地域に移住後「美尾谷(三保谷)」となり、その後本来の苗字に戻した、と考えた方が自然と考える。源義経の臣鈴木三郎重家の血統逸話は後に付け足したものではなかろうか。
拝殿手前で左側には合祀社、及び浅間塚が鎮座する。
合祀社
左側より熊野神社・稲荷神社・愛宕神社・天神社・八幡神社・三峰神社
浅間塚
石段手前の両脇には「力石」が設置されている。浅間塚は正式名「富士浅間塚古墳」といい、15mの円墳。墳頂には『富士浅間神社』の石碑が建立されている。
力石(案内板より) 御祭神・木花咲耶姫命(案内板より)
この石は、「力石」と言って、昔、力自慢の若 この浅間様は、「初山」の名で親しまれ「子
者がこれを担いで御本殿の回りを一周した者が、 育ての神」としての信仰が篤く、この山に登
姓名を刻んで社前に奉納したものと言われます。 り参拝することにより富士山に登山したのと
同じになると言われております。
初山のお子様が健康に育つように、この力石に
手を触れて下さい。 「初山」とは、新生児の健やかな成長を祈る
もので、神社では両親に抱かれて参拝したお
子様の額(ひたい)に朱印を押して無事な育
成をお祈りしています。
境内から南東方向遠方には「首都圏中央連絡自動車道」が見え、大小の車両が忙しく移動している。自動車道と社の境内に空の風景が相まって、この微妙なコントラストであるにも関わらず、そこにある種「美しさ」を感じてしまう。この全てを包みこむ包容力こそ「日本」らしさなのかもしれない。
現実での自動車道等の喧騒が目の前に見えるこの地において、この社は、そして神様方はどのような思いはせているのだろうか。
参考資料「平家物語」「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「境内案内板(三保谷宿氷川神社・廣徳寺)」等