石原町愛宕八坂神社
・所在地 埼玉県川越市石原町2—64—6
・ご祭神 軻遇突智命 素戔嗚尊
・例祭等 元朝祭 稲荷講 4月3日 例祭 7月22・23日
川越市石原町地域は旧川越城下町の西側にあり、入間川と新河岸川との間の低地帯に立地している。現在新河岸川により市街地から切り離されたようになっているが、現在の一丁目は川越城下の入口に当たっていたため江戸時代より街道に沿って旅籠屋が軒を連ね、裏町は箱屋などの職人町でもあったという。
途中までの経路は入間川左岸に鎮座する鯨井春日神社を参照。埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行し、途中入間川に架かる「雁見橋」を渡り、そのまま川越市内方向に進む。1㎞程進行した先にある「石原町(北)」交差点を右折、その後、川越児玉往還道を南東方向に450m程進んだ十字路を更に右折したそのほぼ東側に「石原町公民館」があり、その公民館南側に隣接した高台上部に石原町愛宕八坂神社は鎮座している。
塚上に鎮座する石原町愛宕八坂神社
石原町愛宕八坂神社の祭神は、往時愛宕大権現と牛頭天王であったが、明治初年の神仏分離により祭神名を軻遇突智命・素戔嗚尊と改めた。
当社の氏子区域は、現在の石原町一丁目・二丁目であるが、本来の氏子区域は旧小久保町と川越高沢町からなっていた。また、当社は愛宕八坂神社となっているが、八坂神社が旧地に現存しているため、氏子としては現在も愛宕神社だけと意識し、旧来の火防の神として信仰しているという。
拝 殿
愛宕八坂神社 川越市石原町二-六四-六(小久保字石原町)
石原町は、川越市街北西部の町はずれに位置し、新河岸川により市街地から切り離されたようになっているが、現在の一丁目は川越城下の入口に当たっていたため江戸時代より街道に沿って旅籠屋が軒を連ね、裏町は箱屋などの職人町でもあった。
新河岸川に架かる高沢橋は、城下入口の固めでもあり、これを囲むように寺社が集まっている。当社はその中の一つ天台宗高沢山妙智院観音寺内に鎮座し愛宕大権現と称していたが、安永九年の大火を機に町内中央部南側中程にある星野家に移して町の火防の神として祀り、翌一〇年袋町(現一丁目)の牛頭天王を当社の合殿とし、社号を愛宕大権現牛頭天王合殿とした。その後、当社は渡辺家を経て柊稲荷の境内へと移った。往時の祭りは、本殿を本通りに引き出し、お仮屋を設けて祭りを行い、町内中央の田んぼに舞台を掛け、老袋の太夫が石原へ婿に来ていたのを幸いに老袋の万作芝居が演じられたという。
明治二年、神仏分離により社号を愛宕八坂神社と改称する。昭和六年、当時の総代岸仲次郎により土地が寄進され、現在地に移転した。
なお、八坂神社は現在も旧地に残り近隣者によって祀られており、近年、同神社からは延享三年、大沢太郎左衛門の奉納による牛頭天王縁起絵巻一巻が発見され、市の有形文化財に指定されている。
「埼玉の神社」より引用
拝殿に掲げてある扁額 本 殿
当社の旧鎮座地である観音寺には、県指定無形文化財となっている「ササラ獅子舞」が現在隔年である4月17・18日の両日で行われている。この獅子舞の歴史は、慶長12年(1607)に災魔降伏・国利民福を祈って舞われたのが始まりと伝えている。記録によると、この年の閏四月から大干となり、暑気烈しく病気で倒れる者が多かったことから、この獅子舞に込める当時の人々の祈りは、切実なものがあったと思われる。
藩主酒井忠勝は、寛永4男3月の例祭に城内でこの舞の最中、幕府から十万石加増の沙汰があり、代々観音を深く信仰していたとことも相まって、この獅子舞を好み、寛永11年(1634)若狭国小浜に国替えになった際に、雌雄2頭とその舞手を関東組として引き連れ、彼地に現在も続く雲浜獅子舞を残している。
社に隣接している石原公民館との境に聳え立つイチョウのご神木
一方、一頭となった石原は、自然中絶の憂き目にあったが、宝永6年(1709)高沢町の井上家から同家の番頭が彫った雌雄二頭の獅子頭の奉納があり、舞は太田ヶ谷(現鶴ヶ島市太田ヶ谷)に習い再興された。これにちなんで今でも井上家で一庭舞われ、町内回りには鶴ヶ島市の方を向いて舞われているという。
この獅子舞は、一人獅子舞の系統で成人男性が演じる。曲目は12切という12の部分からなり、先獅子(雄)中獅子(雌)後獅子(雄)の3頭が軍配を持った天童に誘導され、笛太鼓に合わせたササラッコ(花笠を付けた少女4人)のささらの伴奏で舞う。なかでも、2頭の雄がかみあいを繰り返しながら雌を争う場面は、最も特色ある場面である。
参考資料「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」等